第一話:山の嵐と古竜の契約
ルピーネは、慣れない採掘作業に苦戦していた。 狼獣人の村に近いその山には、廃坑になって久しい銀鉱山がある。湿り気を帯びた坑道は薄暗く、天井から滴る水滴がうなじを冷やした。剣の鍛錬や狩猟に明け暮れる日々を愛する彼女にとって、延々と岩を穿つ地道な作業は苦痛以外の何物でもない。だが、ここにはまだ小さな鉱床が眠っていることを、ルピーネは知っていた。
その日、山の天気は気まぐれだった。 午前中の青空が嘘のように、午後には鉛色の雲が空を覆い尽くし、激しい雨が降り始めた。雷鳴が轟き、稲光が剥き出しの山肌を白く焼き払う。
(もう戻らないと……!)
幸い、目当ての銀鉱石は十分な量が手に入った。ルピーネは重くなった袋を背負い、胸を撫で下ろす。しかし、村への道を急ぐ彼女をあざ笑うかのように、嵐はその勢いを増していく。猛烈な突風が視界を奪い、雨が礫となって肌を打つ。足元の岩が脆く崩れ、ルピーネはよろめいた。
(まずいっ……!)
滑落の恐怖が背中を走る中、岩肌にひっそりと開いた細い割れ目が目に飛び込んできた。ルピーネは藁をも掴む思いで、狭い隙間に身を捩じ込ませた。
洞窟の中は、外の喧騒が遠のくほどの静寂に包まれていた。 荒い息を整え、冷えた腕をさすったその時――これまでで最大の雷鳴が大地を揺らした。ゴウッ、という低い唸り声を伴い、洞窟の入り口が音を立てて崩落していく。
「嘘でしょ……!?」
駆け寄った時には遅かった。巨岩が入り口を完全に封じ、退路は断たれた。 絶望が肺を圧迫し、鼓動が早まる。だが、彼女は狼獣人の族長の娘だ。いつかは村を率いる者が、ここで果てるわけにはいかない。 ルピーネは岩壁の僅かな亀裂を頼りに、上へと登り始めた。どこかに出口があるはずだと、微かな希望を指先に込めて。
どれほどの時間が過ぎただろうか。指先が血に滲んだ頃、彼女は洞窟の天井に近い、高台のような空間に辿り着いた。
そこに、いた。
息も絶え絶えの竜だった。 巨大な体躯には無数の傷が刻まれ、誇り高い鱗は無惨に剥がれ落ちている。しかし、その荒い呼吸の中で、なおも圧倒的な威厳を放つ古竜であった。
《お前は……なぜ、ここに》
掠れた声が、直接ルピーネの意識に響いた。恐怖よりも先に、あまりの不思議さに思考が止まる。 「嵐に遭い、閉じ込められました。……出口を探して、ここまで」 ルピーネは抗えぬ力に導かれるように膝を突き、震える声で答えた。母竜は、緑水晶のような瞳を細め、彼女を凝視した。その眼差しには深い慈しみと、燃え尽きようとする命の執念が宿っていた。
《我は、卵を産んだばかりだ。だが、もう温める力は残っておらぬ……》
母竜の視線が、その傍らにある拳大の卵へ向けられた。真珠のような白さを持ち、内側から淡い光を放つ美しい卵。
《出口を示そう。その代わり――お前は、この子の親となるのだ》
突然の要求に、ルピーネは息を呑む。 「私が、ですか? でも、私は狼獣人です。竜の子を育てるなんて……」 《お前しかいない。お前のならば、この子を拒絶することなく孵せるはずだ》
母竜は残された最後の力を振り絞り、巨大な尾をゆっくりと持ち上げた。そして、優しく、しかし確かな意志を込めて一振りする。
刹那、小さな衝撃音と共に眩い閃光が弾けた。 熱くも冷たくもない不思議な奔流が全身を駆け抜ける。光が収まった時、ルピーネは己の腹部に手を当てた。そこには、先ほどまで岩の上にあったはずの卵が、皮膚の下に収まっていた。まるで、最初から彼女の体の一部であったかのように。
《道は開いた。あとは……お前の役目を果たせ》
竜の声は霧のように薄れていく。ルピーネが顔を上げると、母竜の瞳から光が消え、その巨大な山のような体は、静かに岩の色彩へと溶けていった。
ルピーネは、呆然と立ち尽くした。 体内に宿した未知の命。そして目の前で静かに息絶えた伝説の守護者。 あまりに非現実的な出来事に、意識が遠のきそうになる。
しかし、腹部の奥底から伝わってくる確かな鼓動と温かさが、これが夢ではないことを告げていた。ルピーネは、母竜が最後に示した出口の光へと歩き出す。背後では、古竜の亡骸が闇の一部となり、静寂へと帰っていった。
山を降りたルピーネを待っていたのは、安堵でさざめき立つ両親と村人たちの声。 そして、彼女の運命を根底から変えてしまう、想像もつかない未来の始まりだった。




