第4話:元盗賊ジーク、最初の「信者」
シン……。 図書館に、再び静寂が戻った。 違うのは、床に三人の男たちが転がり、本棚が少し荒らされていることだけ。
ライル(レオン)は、ゆっくりと自分の右肘を見つめた。 人を殴った感触が、鈍く残っている。 だが、あの「洪水」は、もうない。 敵の苦痛は聞こえる。だが、それはもう「洪水」ではなく、制御可能な「情報」の一つに過ぎなかった。
(殺さなかった……) 勇者の時、あれほど苦んだ「敵を殺すこと」を、しなかった。 トラウマだった《共鳴》の力を使って、敵の殺意を「先読み」し、誰一人殺さずに、無力化した。
(これが……俺のスキルの、本当の使い方……?) 追放され、すべてを失ったと思っていた力。 ハズレスキルと蔑まれた呪い。 それが今、自分と、そして背後のミラを守った。
「……お見事です」 背後から、静かな声がした。 ミラが、ライルの背中から顔を覗かせ、床に転がるゴロツキたちを冷静に見下ろしている。
ライルが振り返ると、彼女はライルを見上げて、小さく言った。 「あなたの『音』……今、とても静かで、澄んでいます」
彼女の「音」を聞く。 そこには、先ほどの「信頼」に加えて、わずかな「感嘆」と「興味」の音が、綺麗な和音となって響いていた。 それは、ライルがこの半年……いや、生まれて初めて聞く、心地よい「音」だった。
ライルは、荒くなった呼吸を整えようと、深く息を吸った。 古い紙とインクの匂いに、男たちの汗と恐怖の酸っぱい匂いが混じり合っている。 「……怪我は?」 ライルは、自分でも驚くほど素っ気ない声で尋ねた。 「ありません」 ミラは淡々と答える。彼女はライルの背後から歩み出ると、床に転がる男たちを一瞥し、それからひっくり返った本棚の方へ視線を移した。 「……本が。何冊か、背表紙が傷みました」 彼女の「音」が、かすかに「残念」に揺れる。命の危機よりも、書物の損傷の方が彼女の心を動かすらしい。 ライルは、そのあまりの平常心に、毒気を抜かれたような気分になった。
ライルは、意識を失っている男たちを、本棚から引きちぎられたロープ(装飾用だったらしい)で手早く縛り上げた。 「こいつら、『黒蛇』とか言っていたな」 ライルは、リーダー格の男の懐を探りながら言った。 「お前が持っていた『本』が目当てか」 「……はい」 ミラは、カウンターの下から、昨日ライルが目にしたあの古い本を取り出した。 「これは、この街の地下に眠る古代遺跡……『ダスクウォール書庫』の鍵の一つです」 「鍵?」 「『黒蛇』は、そこにお金になる『宝』が眠っていると勘違いしているようですが、実際にあるのは『知識』です。彼らには無価値なものですが」 ミラの「音」は、相変わらず冷静だ。「(私の家族は、これを『宝』ではなく『知識』として守ってきた。彼らのような強欲な人間に渡すわけにはいかない)」 「……なるほどな」 ライルは、男の懐から出てきた汚れた革袋(中身は少額の銀貨だった)を、無造作に床に放った。
彼らが、縛り上げた男たちをどうするかを話し合おうとした、その時だった。
ドンッ!!
先ほどよりも乱暴な音を立てて、図書館の扉が再び開かれた。
「使えねぇ……使えねぇクズどもが! たった二人も始末できねぇのか!」 金切り声のような「音」と共に現れたのは、派手な毛皮のコートを着た、太った男だった。その目には、本棚の間に転がる部下たちを映し、煮え滾るような「強欲」と「焦燥」の音が響いている。 「黒蛇」のボスだ。
そして、そのボスの隣には、フードを目深にかぶった、痩せたローブ姿の男が立っていた。 この男の「音」は、ボスのものとは異質だった。 冷たく、傲慢で、まるで不安定な魔力がパチパチと火花を散らすような、危険な「音」がしている。本職の魔術師だ。 ボスの「音」には、この魔術師に対するわずかな「恐怖」も混じっていた。
「……そこのガキと、小娘が、邪魔者か」 魔術師が、フードの奥から低い声を発した。その「音」は、獲物を見つけた蛇のような「愉悦」に満ちている。 「ボス。さっさと片付けましょう。こんな埃っぽい場所は、一刻も早く燃やして更地にしたい」
「ああ、そうだな!」 ボスが、魔術師の言葉に後押しされて叫ぶ。 「やれ! 本は燃え残るだろう! こいつら二人を先に殺せ!」
魔術師のローブの袖が、ふわりと持ち上がった。 詠唱が始まる。 ライルは、即座に《共鳴》の知覚を研ぎ澄ませた。 もう「洪水」は来ない。 魔術師の口から紡がれる詠唱の「音」、その魔力が収束していく「音」だけを、正確に抜き出す。
(――火球!) かつて、元仲間のセリーヌが使っていた魔術の「音」と似ている。だが、セリーヌのものよりずっと雑で、制御が甘い。 《音:火球。詠唱完了まで、1.5秒。狙いは、ミラ》
(させるか!) ライルは、床に散らばっていた分厚い書物(ゴロツキとの戦闘で落ちたものだ)を一冊掴むと、詠唱に集中している魔術師の顔面めがけて、全力で投げつけた。
「ぐふっ!?」 風切り音と共に飛んできた本は、正確に魔術師の鼻を捉えた。 詠唱が途切れ、魔術の「音」が、プツンと弾けて消える。
「な、何をしやがる!」 魔術師が鼻血を押さえて激昂する。 「てめぇら、やっちまえ!」 ボスが、後ろに控えていた新たなゴロツキたちに命令する。
だが、ライルはもう動いていた。 彼は、本棚と本棚の間の狭い通路を疾走する。 「(こいつの殺意は、右から。0.4秒)」 「(こいつの突きは、0.5秒)」 《共鳴》が、敵の殺意を「情報」として脳に送り込み続ける。 ライルは、その「情報」に従って、ただ最適解を実行するだけだ。
一人目の腕を掴み、二人目の軌道に投げ込む。 二人目が体勢を崩したところに、三人目の振り下ろす棍棒が直撃する。 「ぐあっ!」 「てめぇ!」 仲間割れで混乱するゴロツキたちの「音」を聞きながら、ライルは既にその場を離脱している。
「チィッ!」 魔術師が、再び詠唱を試みる。 《音:火矢。0.8秒》 (速いが、雑だ) ライルは、本棚の背を蹴って跳躍し、詠唱中の魔術師の死角に回り込む。 「どこだ!?」 魔術師が「混乱」の音を立てる。 その隙だらけの背中に、ライルは手刀を叩き込んだ。 「かはっ……」 魔術師は、信じられないという「音」を最後に響かせ、床に崩れ落ちた。
わずか数十秒。 図書館は、再び静まり返った。 違うのは、床に転がる男の数が、三倍近くに増えたことだ。
「ひ……」 毛皮のコートを着たボスが、その場にへたり込んでいた。 彼の「音」は、もはや「強欲」ではなく、「純度100%の恐怖」に変わっていた。 「ま、待て! 金か!? 金が欲しいのか! やる! 倉庫にある金も、全部やる!」 男の頭の中を駆け巡る「音」を、ライルは冷静に聞いていた。 「(そうだ、金で釣るフリをして……! 衛兵! 衛兵隊長に連絡すれば、こいつを殺せる!)」
「……うるさい」 ライルは、汗一つかかずに言った。 「お前の嘘の音は、頭痛がする」 ライルは、ボスの「恐怖」の音の中に、ある場所を示す「音」が混じっているのを聞き取った。 (……倉庫、か) 「衛兵隊長も、お前の仲間なんだろう?」
「なっ……なぜ、それを……」 ボスが絶句する。 ライルは男を縛り上げると、ミラに向き直った。 「ミラ。こいつらを頼む。俺は、こいつらの『倉庫』に行ってくる」 「倉庫?」 「ああ。衛兵が来る前に、証拠を全部、押さえておく」 ライルの言葉に、ミラは静かに頷いた。 「……気をつけて。あなたの『音』、少しだけ荒れています」 「ああ」 ライルは、初めて自分がかすかに「高揚」していることに気づいた。
*
「黒蛇」の倉庫は、港地区の、ひときわ汚れた一角にあった。 ボスの「恐怖」の音から場所を正確に読み取ったライルは、裏口から侵入する。 見張りは二人いたが、彼らの「怠惰」と「油断」の音を先読みし、背後から音もなく無力化した。
倉庫の中は、薄暗く、カビと腐った魚の匂いが充満していた。
盗品と思しき木箱が、乱雑に積まれている。 ライルは、ボスの言っていた「金」や「裏帳簿」を探す。 (……あった) 一番奥の、床板の下に隠された金庫。そこから、強い「執着」の音がしている。
だが、それとは別に、ライルはもう一つの「音」を感知していた。 この倉庫に来てから、ずっと聞こえている、奇妙な「音」だ。 それは、この街の誰の「音」とも違っていた。 うるさい。 非常にうるさいのだが、不快ではない。 「恐怖」も「悪意」も「欺瞞」も一切含まれていない。 そこにあるのは、「退屈」と「楽観」、そして「空腹」という、驚くほど純粋な「音」だった。
音源は、積み荷の影にある、小さな鉄格子のはまった小部屋からだった。
ライルが近づくと、「音」がさらに強くなる。 「(あー、腹減った! マジで最悪だ! でも、まあ、そのうち誰か来るだろ! そしたらブチのめして……いや、まずはメシを要求しよう!)」 信じられないほどの「能天気」な音だった。
ライルは、無言で鉄格子の粗末な錠前を蹴り破った。 「おっ! やっと来たか!」 暗がりの中、一人の青年が、椅子に縛り付けられたまま、満面の笑みでライルを見上げていた。 年の頃は二十歳前後。ぼさぼさの赤毛に、そばかすだらけの顔。服装はみすぼらしいが、その瞳だけがギラギラと輝いていた。
「飯か!? 助かったぜ! ここの連中、マジでセンスねぇんだよ!……って、あれ? あんた、黒蛇のヤツじゃねぇな?」
青年は、ライルをまじまじと見つめた。 「……誰だ? あんた」 「……」 ライルは、その青年の、あまりにも真っ直ぐで騒がしい「音」に、面食らっていた。 (こいつ……馬鹿なのか……?)
「……お前こそ、何者だ」 ライルが低く尋ねると、青年は胸を張って(縛られたまま)答えた。 「俺か? 俺はジーク! 天才盗賊……になる予定の男さ!」 「盗賊?」 「そう! ここの『黒蛇』ってのがデカいヤマだって聞いて、忍び込んだんだ。そしたら、あっさり捕まってな! いやー、我ながらドジだったぜ!」 ジークは、アハハ、と豪快に笑った。 その「音」は、一欠片の嘘も、見栄もなかった。「(マジでドジった! でも、まあ、なんとかなるだろ!)」という、純粋な「事実」と「楽観」だけ。
ライルは、人生で初めて聞くタイプの「音」に、どう反応していいかわからなかった。 彼は黙って、ジークを縛るロープを、ナイフで切り裂いた。
「おおっ! 助かるぜ!」 ジークは立ち上がり、手足を派手にブラブラさせる。 「あんたが『黒蛇』を潰したのか? 一人で? マジか! スッゲェな!」 ジークの「音」が、「純粋な感嘆」と「興奮」に変わる。 「決めた! 俺、あんたに一生ついていくぜ! あんた、俺の『アニキ』になってくれよ!」
「……断る」 ライルの即答に、ジークはまったく怯まなかった。 「そう言うなよ、アニキ! 俺、見る目あんだぜ? あんた、タダモンじゃねぇだろ! 俺がアニキの右腕になって、この街でのし上が……」
「うるさい」 ライルの冷たい一言。 だが、ジークの「音」は、まったく萎縮していない。 「(うわ、クールだ! カッコイイ! これは本物だ! 絶対についていこう!)」 (……こいつ、ダメだ。何を言っても無駄なタイプだ) ライルは、自分がこの「騒音」の塊に、なぜか不快感を抱いていないことに、わずかな戸惑いを覚えていた。
「ところでよ、アニキ」 ジークが、思い出したように言った。 「あの可愛い図書館のネーチャンは、アニキの女か?」 ライルの足が止まった。 「……ミラを知っているのか?」
「おうよ! 俺が捕まる数日前、この倉庫に乗り込んできたんだぜ、あの子!」 ジークが、興奮気味に身振り手振りで説明する。 「『黒蛇』の連中に、『本を返せ』って。まったく動じねぇの! カッコよかったぜー! まあ、俺が助けようとしたら、俺が捕まっちまったんだけどな!」 ジークの「音」が、わずかに「恥ずかしさ」に揺れる。
(……ミラが、ここに……一人で?) ライルは、あの無表情な少女の、氷のような「覚悟」の音を思い出していた。 (無茶なことを……)
「とにかく、アニキ! これからよろしく頼むぜ!」 ジークが、馴れ馴れしくライルの肩を叩く。 ライルは、その手を振り払う気力も失せ、無言で倉庫を後にした。
ジークの、底抜けに明るく、嘘のない「騒音」が、背後からついてくる。 それは、ダスクウォールの濁りきった「不協和音」の中にあって、奇妙なほど耳障りが良く、ライルの閉ざされた心を、ほんの少しだけ、こじ開けていくようだった。
図書館に戻ると、ミラが割れたガラスの破片を冷静に掃き集めているところだった。 床には、黒蛇のボス以下、全員がまだ気絶したまま転がっている。 「おかえりなさい」 「ただいま、アニキ! ミラちゃーん! 怪我ねぇか!?」 ジークが、ライルを追い越してミラに駆け寄る。
ミラは、騒がしいジークと、その後ろに立つライルを交互に見比べた。 そして、彼女の「音」が、明確な「(……仲間?)」という「疑問符」を奏でたのを、ライルは確かに聞き取っていた。 ライルは小さくため息をつき、これから始まるであろう騒がしい日々を予感せずにはいられなかった。




