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最後の手紙

作者: 霧音


冷たい秋風が、街路樹の枯れ葉を地面に散らす。駅前の小さな喫茶店「月灯り」は、今日も静かに客を迎えていた。古びた木のテーブルには、使い込まれたコーヒーカップが並び、どこか懐かしい雰囲気が漂っている。店内にはジャズのレコードが静かに流れ、時折、窓ガラスを叩く風の音が重なる。


その一角に、佐藤遥はるかは座っていた。彼女の手には、一通の封筒。差出人は「佐藤和夫」。遥の父だ。だが、その封筒は父が亡くなる直前に書かれたもので、遥がそれを開けるのは今日が初めてだった。封筒の角は少し折れ、父の几帳面な字で書かれた「遥へ」の文字が、彼女の胸を締め付けた。


---


遥と父の関係は、決して温かいものではなかった。父・和夫は仕事一筋の頑固な人で、感情をあまり表に出さないタイプだった。母が遥が8歳の時に病気で亡くなってから、父と娘の間には深い溝ができていた。父は寡黙になり、遥は母のいない寂しさを抱えながら育った。父が再婚を決めたのは、遥が高校2年生の時。新しい「母」やその連れ子を受け入れることができず、遥は家を出た。それ以来、10年間、父とはほとんど連絡を取らなかった。


父が末期疾患で倒れたと聞いたのは、半年前。病院からの突然の連絡だった。遥は迷った末、一度だけ見舞いに行った。病室の父は、チューブに繋がれ、意識がほとんどない状態だった。遥はベッドの横に立ち、父の手を握ったが、何を話せばいいのか分からなかった。父の顔は痩せこけ、かつての厳格な表情は消え、ただ静かに眠っているように見えた。結局、言葉を交わすことなく、遥は病室を後にした。そして、3か月前、父は静かに息を引き取った。


葬儀の日、父の弁護士から一通の手紙を渡された。「和夫さんが、遥さんに渡してほしいと」とだけ告げられ、封筒は遥のバッグの中で長い間眠っていた。開けるのが怖かった。父の言葉が、どんな想いが、そこに綴られているのか。知るのが怖かったのだ。だが、今日、喫茶店「月灯り」の静かな空間で、遥はついにその封を開ける決心をした。


---


喫茶店の窓から見える夕暮れの空は、茜色に染まっていた。遥は深呼吸をし、震える手で封筒を開けた。父の几帳面な字が、便箋いっぱいに広がっている。インクの色は少し薄れ、ところどころ滲んでいた。父がどれだけ時間をかけて書いたのか、想像するだけで胸が熱くなった。


「遥へ


この手紙を君が読む頃、俺はもうこの世にいないだろう。突然こんな手紙を書いて、驚かせてしまったかもしれない。だが、どうしても伝えたかったことがある。君に、ちゃんと伝えるべきだったことを。


君が家を出たあの日、俺は君を引き止められなかった。君の目を見れば、どれだけ傷ついているかが分かったのに、俺には何もできなかった。君が母さんの死をまだ受け入れられていないことも、俺が新しい家族を迎えることが君をさらに傷つけることも、全部分かっていた。それなのに、俺は自分の気持ちを押し通してしまった。君を失ったのは、俺の弱さのせいだ。


遥、君は覚えているだろうか。君が5歳の時、初めて一緒に海に行った日のことを。君は波に驚いて泣き出し、俺の背中にしがみついて離れなかった。俺は君を肩に乗せて、砂浜を走り回った。あの時、君は笑って、『お父さん、ずっとこうしてて!』と言った。あの笑顔が、俺の宝物だった。母さんが亡くなった後、君があの笑顔を見せなくなった時、俺は自分の無力さを呪った。


再婚した後、君が家に来なくなっても、俺は君を追いかけなかった。君が幸せならそれでいい、なんて自分に言い訳して、ただ時間が過ぎるのを待っていた。でも、本当は怖かった。君に嫌われているんじゃないかと、君が俺を必要としていないんじゃないかと。


君は知らないかもしれないが、俺は君のことをずっと見守っていた。君が大学を卒業した日、遠くから拍手している君の姿を見た。君が小さなアパートで一人暮らしを始めた時、近所のスーパーで買い物する君を偶然見かけた。君が笑っているのを見て、俺はほっとした。君は強くなった。俺の知っている小さな女の子じゃなく、立派な大人になっていた。


遥、君に謝りたい。君を一人にしてごめん。君をちゃんと抱きしめてやれなかったこと、君の話をちゃんと聞いてやれなかったこと、全部俺の失敗だ。君が幸せでいてくれるなら、俺はそれでいい。でも、もし許せるなら、いつか俺のことを少しだけ思い出してほしい。君は俺の誇りだ。君が生まれてきてくれて、俺は本当に幸せだった。


愛しているよ、遥。


父より」


---


遥の手から便箋が滑り落ち、テーブルにそっと落ちた。彼女の頬を涙が伝う。嗚咽を抑えようと手を口に当てたが、溢れる感情は止まらなかった。父の言葉は、10年間の空白を埋めるように、遥の心に染み込んでいった。海での思い出。父の背中の温もり。5歳の自分が、父にしがみついて笑ったあの瞬間が、鮮やかに蘇った。


「バカ…なんで…なんでこんな大事なこと、直接言ってくれなかったの…」


遥は泣きながら呟いた。父の不器用な愛が、初めてこんなにも近くに感じられた。父がどんな思いで自分を見守っていたのか、どんな後悔を抱えていたのか。それを知った今、遥は父を許したかった。そして、父にもう一度会って、「ありがとう」と伝えたいと思った。


---


その夜、遥は実家に戻った。父が住んでいた古い一軒家は、誰もいなくなった今、静かに佇んでいる。玄関のドアを開けると、父の匂い——タバコと古い木の香りが混ざった匂い——がまだほのかに残っていた。リビングの棚には、遥が小さい頃に父と撮った写真が飾られている。笑顔の父と、父の肩にしがみつく小さな遥。その隣には、母が写った家族写真もあった。母の優しい笑顔が、遥の胸を締め付けた。


遥は写真を手に取り、そっと胸に抱いた。「お父さん、私も愛してるよ」と呟いた。涙はまだ止まらなかったが、その涙はどこか温かかった。父が残してくれた愛は、こんな形でも確かにここにあった。


---


翌朝、遥は再び喫茶店「月灯り」を訪れた。父がよくここでコーヒーを飲んでいたことを思い出したからだ。カウンターのマスターは、遥を見て穏やかに微笑んだ。


「和夫さんがね、よく遥さんの話をしてたよ。『娘は強い子だ』って、いつも誇らしげだった。君が大学に入った時、嬉しそうに話してたっけ。『あの子の夢は、きっと叶う』って。」


遥は驚いて目を丸くした。父がそんな話をしていたなんて、想像もしていなかった。マスターは続ける。


「和夫さんはね、いつも君の写真を持ってた。財布に挟んだ小さな写真。君が小さい頃の、笑ってるやつだよ。」


その言葉に、遥の涙がまた溢れた。父がそんな風に自分を想っていてくれたなんて。父の不器用な愛が、こんなにも深かったなんて。


遥は父の好きなブラックコーヒーを注文した。カップから立ち上る香りを吸い込みながら、心の中で父に語りかけた。


「お父さん、ちゃんと生きるよ。あなたがくれた愛を、ちゃんと受け取ったから。私の夢、絶対に叶えてみせる。」


---


数日後、遥は父の遺品を整理しに実家に戻った。父の書斎で、古いノートを見つけた。そこには、父が遥の成長を記録したメモがぎっしり書かれていた。「遥、6歳、初めて自転車に乗れた」「遥、12歳、ピアノの発表会で堂々と弾いた」「遥、18歳、家を出た。俺の失敗だ」。最後のページには、震える字でこう書かれていた。「遥が幸せなら、それでいい。俺の全てだ。」


遥はノートを抱きしめ、声を上げて泣いた。父の愛は、こんなにも近くにあったのに、気づかなかった。だが、今、遥は確かにそれを受け取った。


秋の陽射しが、窓から差し込み、部屋を柔らかく照らしていた。遥は立ち上がり、ノートを胸に抱いたまま、未来へ向かって一歩を踏み出した。


(完)

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