第83話、説客の弁
益州の州都・成都は劉備軍に包囲されていた。
馬超の帰順は成都城内に大きな衝撃と動揺を与え、外部からの援軍の望みもほぼ絶たれた。諸葛亮の指揮する包囲は完璧で、先行きに対する不安の声も現れ始めていた。
しかし城内では依然として徹底抗戦を叫ぶ声が大きかった。黄権や張任をはじめとした多くの家臣たちは劉璋に強く進言していた。
「劉備の侵攻は不義です。我らは益州武人の誇りにかけて、最後の一兵まで戦い抜くべきです!」
成都の城内には、いまだ兵士も兵糧も十分に残されていた。
だが、劉璋自身の心は日に日に折れかけていた。連日の戦況報告は芳しくなく、城内の民が疲弊していく様子も彼の耳に届いていた。
勝ち目のない戦いを続け、これ以上民を苦しめてよいものか…。
彼は、誰にも本心を明かせず、孤独な苦悩を深めていた。ごく一部の内通派の家臣が降伏を訴えてはいたが、主戦論の勢いに阻まれ、大きな声とはならなかった。
この状況を打ち破るため、劉備は一人の男に益州の命運を託した。無益な血を流さずに成都を開城させるべく、降伏勧告の使者として簡雍を送り込むことにしたのだ。
「簡雍、この任、そなたにしか頼めぬ。劉璋殿を説得し、民を戦火から救ってほしい。」
「はっはっは、大親分も人使いが荒いねえ。この俺に、虎の穴に飛び込めってかい?まあ、面白そうだ。任せときな!」
簡雍は、いつもの飄々とした調子で、しかしその瞳の奥には確かな覚悟を宿して、その命を受けた。
「趙雲、簡雍の護衛を頼む。」
劉備は護衛として信頼を寄せる趙雲に、万が一の時への対応を任せようとした。しかし、簡雍はそれを否定する。
「趙雲殿が付いてくればかえって向こうさんを刺激することになる。そうだな、石翔、お前さんが丁度いいか。」
簡雍は、武勇に聞こえた趙雲では無く、素朴な石翔を伴に選んだ。そして劉備からの書状を携えて、単身に近い形で成都城内へと入った。
物々しい雰囲気の城内でも彼は臆することなく、むしろどこか遊びに来たかのような、のびのびとした態度で劉璋の面前へと通された。
憔悴しきった劉璋を前に、簡雍はまず、世間話でもするかのように、和やかな口調で語り始めた。
「いやはや、劉璋様。成都は実に良い都ですな。民も豊かで、土地も肥えている。このような素晴らしい土地を、戦火で焦土と化すのは、実に忍びないことですなあ。」
その言葉に、劉璋は顔を歪めた。簡雍は、すかさず言葉を続ける。
「劉璋様もご存じの通り、今や馬超将軍も我が劉備様に帰順し、城外の軍勢は日に日に増しております。これ以上の抵抗が、実を結ぶとお考えですか?」
そして、声の調子を少し落とし、諭すように言った。
「劉備様は、決して劉璋様や、そのご一族、そして成都の民を害するおつもりはございません。むしろ、これ以上の無益な血が流れることを、誰よりも憂いておられます。我らは確かにすれ違い、干戈も交えました。しかし、敵味方、征服や降伏では無く、共に益州の民を思うものとして、益州の主の座を譲っていただけませぬか?劉璋様とご一族の安全は、この簡雍が、劉備様に代わって必ず保障いたします。どうか、民のため、賢明なご決断をお願いいたします。」
その弁舌は、脅すでもなく、媚びるでもなく、ただ淡々と、しかし不思議と劉璋の心に入り込んでいくかのようだった。
「降伏ではなく、主の座を譲れ、と?」
「左様。どちらが勝者、敗者ではありません。益州のため、民のため、天下のため、劉璋様のお力を、劉備様に託していただきたい。」
劉璋は、長い沈黙の後、深くため息をついた。彼の目には、涙が浮かんでいた。
「簡雍殿、そなたの言葉、信じても良いのだな? 劉備殿に、我ら益州の民と未来を託しても良いのだな?」
「劉備様は、器の大きさだけなら天下無双でしてな。劉璋様の想いを背負うこと、この簡雍が、命に代えても保証いたします。」
簡雍は、力強く断言した。
その言葉に、劉璋は、ついに頷いた。
「分かった。もはや、これまでじゃ。これ以上民を苦しめるわけにはいかぬ。城を開けよう。」
翌日、成都の城門が、重々しい音を立てて開かれた。そこから現れたのは、一竿の白旗を掲げた使者と、それに続く一基の輿であった。輿の中には、憔悴しきった益州牧・劉璋と、どこか彼を労るような表情の簡雍が並んで座っていた。
劉璋は、劉備の前に降り立つと深く頭を垂れ、益州牧の印綬を譲り渡した。
長かった益州攻略戦は、こうして簡雍という一介の説客の弁舌によって、最後の血を流すことなく幕を閉じたのである。
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