第7話、人は、信じたいものを信じる
張角の側近くで仕えるようになってから、劉備の頭の中は、尊敬する大指導者の持つ不思議な力の源泉、その「仕組み」への疑問と興味でいっぱいだった。
どうすれば、あれほどまでに人の心を掴み、熱狂させることができるのか?
それは本当に「正しい」ことなのだろうか?
知りたい、という思いは日増しに強くなっていった。
だが、相手は天公将軍・張角である。ただの世話係に過ぎない自分が、そのような問いを発することが許されるのか。劉備は、機会をうかがいながらも、なかなか言い出せずにいた。
その機会は、ある静かな夜に訪れた。張角は、珍しく側近たちを下がらせ、一人、私室で地図を広げて思案に暮れていた。劉備は、夜食の粗末な粥を運んできたところだった。
「…張角様。」
劉備は、意を決して声をかけた。張角は地図から顔を上げ、穏やかに劉備を見る。
「どうした、玄徳。何か用か?」
「いえ、あの…一つ、どうしてもお伺いしたいことがありまして…。」
劉備の声は、緊張でわずかに震えていた。
「ほう、何だ? 申してみよ。」
張角は、興味深そうな目で劉備を促した。
劉備は、一度深く息を吸い込み、そして、恐れと好奇心の入り混じった、核心の問いを口にした。
「張角様は、その…どうしたら、あんなにも上手く…皆を信じさせることができるのでしょうか? まるで、魔法を使っているかのようです。その…人を騙す、極意のようなものが、あるのでしょうか?」
言ってしまってから、劉備は己の不躾さに血の気が引いた。天公将軍に向かって、「人を騙す極意」とは何事か。罰せられても文句は言えない。
しかし、張角の反応は意外なものだった。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いたが、次の瞬間、くつくつと、そしてやがて声を上げて笑い出したのだ。
「はっはっは! 人を騙す極意、か! 玄徳、お前は実に面白いことを言う!」
ひとしきり笑った後、張角はすっと表情を改め、真剣な眼差しで劉備を見据えた。その瞳の奥には、怒りではなく、むしろ劉備の問いの本質を見抜いたような、深い知性が宿っていた。
「玄徳よ。お前は、わしがただの人誑し、詐欺師だと思うか?」
「い、いえ! 決してそのような…ただ、あまりにも見事で…その仕組みを知りたいと…。」
張角は、劉備の言葉を遮るように、静かに語り始めた。
「良いか、玄徳。わしは、人を騙しているのではない。」
その言葉は、静かだが、確信に満ちていた。
「人はな、そもそも、信じたいものを信じるのだ」
劉備は、息をのんだ。
「この世に生きる民は皆、苦しんでいる。重い税、役人の横暴、終わらない戦、そして飢え…。誰もが、この苦しみから逃れたい、救われたいと、心の底から願っている。わしには、その声が聞こえる。その願いが見えるのだ。」
張角は、窓の外に広がる、無数の焚き火が揺れる暗い野営地を見つめた。
「わしがやっていることは、彼らが信じたくなるような言葉を与え、希望という名の『受け皿』を用意しているに過ぎぬ。彼らは、己の意志で、この『黄天』の世を選び取り、救いを求めて集まってくるのだ。」
そして、張角は再び劉備に向き直った。
その目には、強い光が宿っていた。
「考えてもみよ、玄徳。なぜ、わしのような者が現れ、これほど多くの民が付き従うのか? それはな…この腐りきった漢王朝そのものが、わしら太平道を生み出したのだ。」
「民が希望を持てぬ世だからこそ、わしの言葉が響く。役人が信じられぬからこそ、民はわしに救いを求める。この世が病んでいるからこそ、わしが必要とされているのだ。」
「わしは、彼らの願いを形にし、導いているに過ぎぬ。それを『騙す』というのなら、そうかもしれんな。だが、わしは、彼らに希望を与えていると信じている。たとえ、それが一時しのぎの夢であったとしてもな。」
張角の言葉は、重く、そして深く、劉備の心に突き刺さった。
「騙すのではなく、人が騙されたい方に導く…。」
「受け皿を用意するだけ…。」
「この世の中が、太平道を作っている…。」
劉備は、言葉を失っていた。
目の前の人物は、やはり常人ではない。その思想、その覚悟、そして、ある種の達観。
劉備の世界観は、根底から揺さぶられた。人を動かすとはどういうことか。民の本当の願いとは何か。そして、この「世の中」が抱える根本的な問題とは何なのか。
(俺は…これから、どうすればいい…?)
張角は、衝撃を受けている劉備の様子を静かに見つめ、満足したかのように、ふっと息をついた。
「もう下がってよいぞ、玄徳。よく、考えてみるがいい。」
劉備は、呆然としたまま張角の私室を辞し、自分の寝床へと戻った。張角の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。眠れぬ夜が始まった。
隣で寝ているはずの関羽や張飛が、劉備のただならぬ様子に気づいたようだったが、劉備はそれに答える余裕もなかった。
人を動かす力。
世を変えるということ。
張角が示した一つの答えは、あまりにも大きく、そして重かった。劉備は、その意味を、自分自身の道を探す中で、問い続けていくことになるのだろう。
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