第59話、長坂の英雄達
劉備と諸葛亮が黄承彦の元へ身を隠した頃、長坂の戦場は未だ阿鼻叫喚の地獄であった。
曹操軍の精鋭・虎豹騎の猛威の前に、劉備軍は散り散りとなり、多くの民衆が逃げ惑っていた。しかしその絶望的な状況の中にあっても、主君と仲間、そして民を守るために、決死の覚悟で踏みとどまる者たちがいた。
その筆頭は、張飛である。彼は劉備本隊を逃がすため、自ら殿を引き受け、わずか二十騎ほどの手勢と共に、当陽へ続く唯一の細い橋、長坂橋へとたどり着いた。背後からは、砂塵を上げて迫りくる曹操の大軍が見える。
「てめえら! この橋を渡りきるまで、何があっても退くな!」
張飛は手勢の兵士たちにそう命じると、自らは馬を橋の中央に止め、蛇矛を横たえ、目を瞋らせて、ただ一人、迫りくる敵軍を睨み据えた。その姿は、まさに憤怒の形相をした仁王のようであった。
やがて、曹操軍の先鋒が橋のたもとに殺到した。しかし、橋の上に仁王立ちする張飛の、常軌を逸した凄まじいまでの気迫に、誰もが一歩も前に進むことができない。
「…!」
張飛は、丹田に力を込め、天地を震わすかのような大音声を迸らせた!
「我こそは燕人張益徳なり! 死を恐れぬ者は前へ出よ!」
その声は、雷鳴のように戦場に轟き渡り、敵兵たちの肝を冷やさせた。先頭にいた兵士たちは、あまりの気迫に馬から転げ落ち、後続の者たちも恐怖に顔を引きつらせ、足を止めてしまう。遠巻きに見ていた曹操ですら、かつて関羽から聞いた張飛の武勇を思い出し、迂闊には近づけない。
「もう一度だけ言うぞ! 死にたい奴からかかってこい!」
張飛が再び吼えると、曹操軍は完全にその勢いを失い、ただ遠巻きにするばかりであった。その隙に、張飛は手勢に命じ、橋を破壊させた。これで、追撃の速度は大幅に遅れるはずだ。
「…よし、行くぞ!」
殿の役目を果たした張飛は、疲労困憊ではあったが、その顔にはかすかな満足感も浮かんでいた。彼は、わずかな手勢と共に、劉備の後を追って南へと馬を向けた。
一方、同じく混乱の戦場で、もう一人の英雄が奮戦していた。趙雲である。
彼は、主君・劉備の姿を探して敵中を駆け巡っていたが、その姿は見当たらない。しかし、彼は偶然にも、敵兵に囲まれ、危機に陥っている一団を発見した。それは、劉備が厚く信頼を寄せる徐州の名士・糜竺と、その弟の糜芳、そして…劉備の妻である糜貞の姿だった。彼らは敗走の混乱の中で、護衛ともはぐれてしまったらしい。
「糜竺様! ご無事か!」
趙雲は、白馬を駆って敵兵の中に飛び込んだ。その手にした銀の槍が、流れるような軌跡を描き、次々と敵兵を貫いていく。彼の槍術は、関羽や張飛の豪快さとは異なり、華麗でありながら、一切の無駄がなく、正確無比に敵の急所を捉えた。
「邪魔をするな!」
趙雲は、糜竺たちを守るように立ち塞がる敵兵を、馬上から次々と突き落としていく。その動きは、まるで戦場を舞う白い龍のようであった。彼は決して深追いはせず、ただ、糜竺たちへの道を切り開くことだけに集中していた。
「さあ、こちらへ! 私がお守りいたします!」
趙雲は、自身の馬に糜貞を乗せ、糜竺と糜芳に馬を任せて、先陣を切って包囲を突破した。彼の冷静な判断と卓越した武技がなければ、彼らは間違いなく命を落としていただろう。
張飛の豪勇と、趙雲の冷静沈着な奮戦。
二人の英雄の決死の働きによって、劉備軍の完全な壊滅は免れた。しかし、長坂の戦場には、未だ多くの仲間と、そして数えきれないほどの民衆が取り残され、その悲劇はまだ続いていた。
彼らが、主君である劉備と再会を果たすのは、もう少し先のことになる。
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