第49話、穏やかな領主と交錯する思惑
第5章:荊州編、始まります。
長く苦しい敗走だった。曹操に徐州を追われ、次に身を寄せた袁紹は敗れ、再び全てを失った劉備一行は、ただ南へと歩みを進めるしかなかった。
しかし、荊州の地に足を踏み入れた時、一行の目にわずかな光が差し込んだ。戦乱の傷跡が深い中原とは異なり、ここには豊かな田園が広がり、街には活気があった。
「おお…ここは、まだ戦を知らぬかのようだ。」
簡雍が思わず呟く。その豊穣な景色は、疲れ切った彼らの心に、ほんの少しの安堵をもたらした。
劉備の瞳にも一瞬、再起への希望にも似た光が宿った。だが、それはすぐに河北の風塵の中で刻まれた暗い影に覆い隠される。今の彼にとって、この豊かさは利用すべき「資源」にも見えていた。
荊州の州都・襄陽は、その豊かさを象徴するように、活気に満ちていた。一行は、州牧である劉表の府邸へと案内された。劉表は、漢室の血を引く同族であり、荊州を十数年にわたって安定させ、多くの学者や文化人を保護していることでも知られる人物だ。
現れた劉表は、噂に違わず、穏やかで学者風の、温和な雰囲気をまとっていた。彼は、同族である劉備の来訪を心から喜び、その手を固く取って、これまでの労苦をねぎらった。
「おお、玄徳殿! よくぞ参られた! 長旅、さぞお疲れであったろう。まずはゆっくりと英気を養われよ。」
劉表は宴席を設け、劉備たちを手厚くもてなした。その親切な態度は、流浪を続けてきた劉備たちの心を温かくした。
しかし、その宴席に同席していた荊州の重臣、蒯越や、劉表の妻の弟にあたる蔡瑁といった者たちの視線は異なっていた。彼らは、劉備の名声と、彼が連れてきた関羽、張飛、趙雲といった並外れた武将たちを、あからさまに警戒していたのだ。宴が終わると、彼らは劉表の元に集まり、口々に進言した。
「劉表様、劉備殿をこの襄陽に長く置いておくのは、いかがなものかと。」
「左様。彼ほどの人物、いつ我らの脅威となるとも限りませぬ。」
「北の守りに就いていただき、その武勇を国のために役立てていただくのが、最も穏便かと存じます。」
家臣たちの強い進言に、劉表は困惑の色を隠せなかった。彼は劉備に親しみを感じていたが、これらの重臣たちの意見を無視することもできない。荊州の安定は、彼ら豪族たちの協力があってこそ成り立っているのだ。
数日後、劉表は心苦しそうに劉備を呼び出した。
「玄徳殿、長旅でお疲れのところ、まことに申し訳ないのだが…北の曹操への備えも疎かにはできぬ。民の安寧のため、しばしの間、新野の城に駐屯し、荊州の盾となってはいただけぬだろうか? もちろん、必要な兵糧や物資などの支援は、この劉表、決して惜しむつもりはない。」
それは、都から遠ざけ最前線へ送るという、厄介払いの側面も確実に含んではいた。だが、劉備は劉表の温情と、彼の苦しい立場を察していた。ここで不満を見せても、何も得るものはない。
「劉表様のお心遣い、痛み入ります。荊州のお役に立てるのであれば、この劉備、喜んで新野へ参りましょう。」
劉備は、恭しく頭を下げ、その申し出を受け入れた。その表情には不満の色は微塵もなかった。
(襄陽からは離れるが、新野ならば自由に動ける。支援も約束してくれた。よし、ここで力を蓄え、俺たちの新たな拠点を作るぞ。)
彼の心の中では、すでに次なる一歩への計算が始まっていた。
劉備一行は、劉表と荊州の家臣たちに見送られ、襄陽を発った。目指すは北の拠点、新野。新たな寄寓の地で、彼は何を思い、どう動くのか。その心に宿る光と影は、荊州の豊かな風の中で、静かに揺らめいていた。
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