第13話、怒りの鞭
安熹県尉に任命された劉備は、意気軒昂だった。ようやく得た安定した地位。そして、民のために働くという、ささやかながらも確かな機会。
彼は、寝る間も惜しんで職務に励んだ。その誠実な姿勢は、少しずつ民の信頼を得ていった。
しかし、現実は厳しかった。県の丞や主簿といった古参の役人たちは、よそ者であり、元黄巾の噂もある劉備を快く思わず、協力するどころか、陰に陽にその職務を妨害した。
県の財政は逼迫しており、劉備が何か新しい施策を行おうにも、予算がない。そして、「あの県尉は、元は賊上がりらしい」という囁きは、常に劉備の周りにつきまとった。
「くそっ、あいつら、俺たちが頼んでも全然動きやしねえ!」
張飛は、事なかれ主義の役人たちへの苛立ちを隠さない。関羽は黙って劉備を支えるが、その眉間には常に皺が寄っていた。
役所仕事は、彼らにとっても慣れない、そして好ましいものではなかった。劉備は、理想と現実のギャップに焦りを感じながらも、石や陳の助けも借りて、粘り強く職務を続けようとしていた。
そんなある日、中央から、監察官である督郵が視察に訪れた。劉備達はその男に会いに、滞在している部屋へ挨拶に向かったが、なかなか面会に応じてはもらえなかった。
劉備は不満を言う張飛を宥め、面会の許可が下りるまで待ち続けた。しかし、部屋から現れた男は、尊大で、横柄な態度で高圧的に接した。そして、慣例であるかのように、劉備に対して賄賂を暗に要求してきたのだ。
「まあ県尉殿、人に会うためには、形というものがある。分かるな?」
下卑た笑みを浮かべる督郵の顔を見て、劉備の脳裏に、尊敬する盧植先生のことが鮮明に蘇った。先生も、このような不当な要求を拒否したために、陥れられたのだ。
「お断りいたします。」
劉備は、きっぱりと言い放った。
「私は、民のためにこの職務についております。不正な金子をお渡しすることは、私の信念に反します。」
督郵の顔色が変わった。まさか、一介の県尉に、しかも素性の怪しい男に逆らわれるとは思ってもいなかったのだろう。
「な、なんだと貴様。この私を誰だと思っている!」
怒りに顔を歪めた督郵は、劉備を指さし、罵詈雑言を浴びせ始めた。
「たかが庶民上がりの分際で!おおかた、元は食い詰めた賊徒かなにかだったのだろう! そのような男が、この県の尉とは片腹痛いわ!」
さらに、督郵の目は、劉備の後ろに控える関羽と張飛に向けられた。
「なんだ、そのいかつい面構えは! まるで、ならず者ではないか! こんな連中を従えているとは、やはり貴様も同類だな!」
その言葉を聞いた瞬間、張飛の中で何かが切れた。元々、役人や権力者を嫌悪していた上に、敬愛する劉備と、兄とも慕う関羽への侮辱は、彼の我慢の限界を超えていた。
「てめえ! よくも言ったな!!」
張飛は、雷のような雄叫びを上げると、唖然とする督郵に飛びかかり、いとも簡単にその襟首を掴んで引きずり出した。
「な、何をする! 放せ、無礼者!」
督郵の悲鳴も構わず、張飛は彼を役所の庭にある大きな木の前まで引きずっていくと、荒縄でぐるぐる巻きに縛り付けてしまった。
「張飛! まて!」
劉備は叫んだが、張飛の怒りは収まらない。
「うるせえ、玄徳兄ぃ! こいつは許せねえ! 俺たちの誇りを、てめえのような小役人に汚されてたまるか!」
張飛は、近くにあった柳の枝をしならせると、それを鞭のように構えた。
「ひ、ひぃ! や、やめろ!」
督郵の哀れな懇願も虚しく、張飛は容赦なくその背中に鞭を打ち据えた。ピシッ! ピシッ! と肉を打つ生々しい音が響き渡る。役所の役人たちは、恐れおののき、ただ遠巻きに見ているだけだ。
関羽は、その場に静かに立っていた。止めようとはしない。その目は、督郵を冷ややかに見据えている。
劉備もまた、張飛の行動を止めることができなかった。いや、心のどこかで、止めたいとは思っていなかったのかもしれない。この腐敗した現実に対する、積もり積もった怒りが、張飛の鞭に託されているような気さえした。
結局、張飛が百回近く鞭を打ち据え、督郵が気を失いかけたところで、ようやく騒ぎは収まった。しかし、この事件がもみ消されるはずもなかった。
すぐに上役から厳しい叱責と、責任を問う声が上がった。県令も、劉備をかばいきれなかった。
劉備は、静かに県尉の印綬(官職のしるしである紐のついた印鑑)を解くと、県令の前に差し出した。
「もはや、私がここに留まる理由はなくなりました。この印綬、お返しいたします。」
その表情に、後悔の色はなかった。むしろ、何かから解放されたような、晴れやかな色さえ浮かんでいた。
「短い間でしたが、お世話になりました。我々は、これより安熹県を去ります。」
関羽、張飛も、黙って劉備に従った。石と陳も、驚きながらも、彼らについていく覚悟を決めた。
理想だけでは世の中は変えられない。まっとうな道を歩もうとしても、それを阻む壁は厚い。
劉備は、安熹県での短い経験を通して、それを痛感した。だが、同時に、己の信念を曲げてまで得る地位に価値はないことも悟った。
再び、流浪の旅が始まる。
しかし、彼らの心は、安熹に来た時よりも、むしろ軽やかだったかもしれない。守るべきものは、地位や名誉ではない。信じる義と、兄弟の絆。それさえあれば、道は自ずと開けるはずだ。
劉備は、そう信じて、仲間たちと共に、再び荒野へと歩みを進めた。
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