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第1話、筵と黄巾

はじめまして。まのゆいかと申します。

貧しい筵売りの青年はいかにして蜀漢を築くに至ったのか。その第一歩が始まります。

乾いた北風が、土埃を巻き上げながら涿郡たくぐんの通りを吹き抜けていく。年の瀬も近いというのに、市は閑散とし、人々の顔には先の見えない不安と疲弊の色が濃い。


道の片隅で青年が一人、冷たい風に身を縮こませて座り込んでいた。名を劉備りゅうびという。歳は二十歳を少し過ぎた頃か。綻びの目立つ麻の衣をまとい、道行く人に声をかけるでもなく、ただぼんやりと目の前に並べたむしろを見つめている。

丁寧に編まれたそれは、彼の数少ない生業なりわいであり、日々の糧を得るための唯一の手段だったが、この困窮の極みにある時代、筵を買う余裕のある者など滅多にいなかった。


「……はぁ。」


思わず漏れたため息は、白い煙となって寒空に消えた。腹の虫がぐぅ、と情けない音を立てる。

昨日から固形物らしいものは口にしていない。懐には、銭など一文も残っていなかった。


盧植ろしょく先生は、こんな俺にも優しくしてくださった…。)


ふと、数年前の出来事が脳裏をよぎる。この道端で途方に暮れていた時、偶然通りかかった郷里の名士、盧植が声をかけてくれたのだ。


「見事な筵だな。私の学問所で使おう。運んでくれれば、手間賃も出そう。」


と。それが先生の施しであることは分かっていたが、その温かさが身に染みた。

学問所に筵を届けた時、そこにいた公孫瓚こうそんさん殿が、自分を新入りの弟子と勘違いして飯を食わせてくれたことも、忘れられない思い出だ。


(あの先生でさえ…賄賂を断ったというだけで、役人に陥れられて…。)


風聞によれば、盧植は無実の罪で投獄され、そのまま亡くなったという。

高潔で、貧しい者に優しい、尊敬すべき人が、なぜこんな理不尽な目に遭わねばならないのか。劉備の胸には、やり場のない怒りと、国」というものへの漠然とした不信感が渦巻いていた。


「よう、玄徳げんとく。今日もさっぱりか?」


隣で古着を広げていた男が、諦めたような顔で声をかけてきた。劉備と同じく、その日の稼ぎもままならない物売りの仲間で、名をせきという。


「ああ、石さんもか…。この寒さじゃ、誰も外に出たがらんしな。」


「まったくだ。いっそ、どこぞの金持ちの蔵でも破るか?」


冗談めかして言う石の言葉に、劉備は力なく笑うしかない。だが、腹の底では、その考えが一瞬、魅力的に思えたのも事実だった。


その日も、結局一枚の筵も売れぬまま、劉備はとぼとぼと家路についた。戸を開けると、年老いた母が、少ない薪を焚きながらはたを織っている。


「お帰り、玄徳。」


「…ただいま戻りました、母上。」


「今日は、どうだったね?」


努めて明るく尋ねる母に、劉備は首を横に振るしかなかった。母は黙って立ち上がり、粗末な粟の粥を椀によそってくれる。それが、親子二人のなけなしの食料だった。


「…母上、盧植先生のこと、聞きましたか?」


粥をすすりながら、劉備はぽつりと言った。母の手が、ぴたりと止まる。


「…ああ。あんな立派な方が、あんまりなことだ。この世は、どうなってしまったんだろうねぇ…。」


母の声は、悲しみと怒りに震えていた。貧しいながらも、曲がったことを嫌う気丈な母である。劉備は、母の悲しみと、自らの無力さに、ただ唇を噛むしかなかった。


翌日も、劉備は筵を抱えて道端に座った。空腹は限界に近く、意識が朦朧とし始めている。もう、どうにでもなれ…そんな投げやりな気持ちが心を支配しかけた、その時だった。


地響きのような足音と共に、異様な熱気を帯びた一団が通りに現れた。皆、頭に黄色い布を巻き、何かを叫びながら行進している。


蒼天そうてんすでに死す、黄天こうてんまさに立つべし!」

とし甲子かっしに在り、天下大吉てんかだいきちなり!」


太平道たいへいどうと名乗る、張角ちょうかくという人物が率いる宗教団体だという噂は、劉備も耳にしていた。

正直、彼らの唱える言葉の意味はよく分からない。だが、その異様なまでの熱気と、集まった人々の数の多さに、劉備は圧倒された。


すると、一人の勧誘役らしい男が、劉備の前に立ち止まった。


「兄さん、腹が減ってるんだろう? そんな所で筵なんぞ売っていても、腹は膨れんぞ。」


男は、劉備の境遇を見透かしたように言った。


「我らが太平道に来い! ここでは、誰もが平等だ。腹いっぱい飯が食える! 張角様が、我々貧乏人を救う、新しい世を作ってくださるのだ!」


男の言葉は、飾り気がなく、まっすぐだった。そして、その瞳には奇妙な力が宿っているように見えた。

周囲の人々が、口々に叫ぶ。


「そうだ! 張角様万歳!」

「黄天の世が来るぞ!」


(腹いっぱい…飯が食える…?)


その言葉が、劉備の荒んだ心に、甘い蜜のように染み込んだ。盧植先生を死に追いやったこの腐った世の中への不満。どうしようもない貧しさ。そして、何よりも耐え難い飢え。


(ここに行けば…俺も…。)


後ろめたさが無いわけではない。だが、生きるためには、背に腹は代えられなかった。

劉備は、震える手で筵をまとめると、ふらりと立ち上がった。


その夜、劉備は母に決意を告げた。


「母上、俺は…太平道に行こうと思います。」


母は絶句し、やがて涙を流して反対した。


「なりません! あのような得体の知れない者たちと関わっては! お前まで、道を誤るつもりか!」


「でも、母上! このままでは、俺たちは飢え死にするだけです! 彼らは、腹いっぱい食べさせてくれると言った! それに…盧植先生を殺したような、この世の中を変えるのだと!」


必死に訴える劉備。母は激しく首を振り、息子の袖を掴んで離さない。


どれほどの時間が経っただろうか。涙ながらの母の説得と、息子の決意は平行線を辿った。だが、最後に母は、やつれた息子の顔を見つめ、深くため息をつくと、震える手で劉備の頬に触れた。


「……玄徳。お前の決めた道ならば…母は、もう止めません。ですが、これだけは約束しておくれ。決して、人としての道を外れてはなりません。盧植先生のような…立派な人になるのですよ。」


「母上…。」


「必ず…必ず、生きて帰ってくるのですよ…。」


母は、なけなしの蓄えから、わずかばかりの銭と、小さな乾いた餅を劉備に握らせた。


翌朝、劉備は母に深く頭を下げると、家を出た。振り返ると、戸口に佇み、いつまでも見送る母の姿があった。胸が締め付けられる思いだったが、彼は前を向いた。隣には、同じように太平道へ向かう決意をした石の姿もあった。


「行くか、玄徳。」


「ああ。」


劉備は、空腹と、わずかな希望と、そして大きな不安を抱えながら、黄色い頭巾の集団が向かった方角へと、一歩を踏み出した。まだ、その先にどのような運命が待ち受けているのか、知る由もなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


この始まりには違和感を覚えられるかも知れませんが、一週間ほどで反董卓連合軍まで進める予定です。どうかもうしばらくお付き合いください。


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