インキュバスの少年
一瞬の浮遊感の後――私とガリアスは地面に降り立った。
降り立つなり、私は口を一杯に頬張り、おろしてくれ、と私を抱き上げるガリアスの腕を叩いた。
ガリアスによって地面に下ろされた私は、たまらず床に崩折れて盛大にえづいた。
「お、オエッ……! き、気持ち悪ッ……! て、テレポーテーションってこんなキツいの……!?」
「空間酔いと、魔力酔いも少し生じるでしょうねぇ。……ほらほら主、吐くなら吐いてしまった方が楽になりますよ?」
「うぷっ、あ、有り難いけどやめて……! 仮にも貴族令嬢が盛大に嘔吐とか恥ずかしいから……! うぐっ、はぁはぁ……!」
なんとか気持ちを落ち着けた私の頬を、風が撫でた。
ふと周囲を見ると、草原のかなり遠くまで見渡すことができるところにいる。
壁には凸凹に矢狭間が切られていることからも、どうやらここはガリアス・ギリの高い高い城壁の上らしい。
「主、下です! 魔族の少年がやってきました!」
ガリアスの鋭い声にはっとした私は、慌てて立ち上がり、矢狭間の隙間から下を見た。
まるで崖のように切り立った城壁の遥か下に、豆粒のような大きさの人影を確認した私は、彼に向かって精一杯の大声を降らせた。
「あなた、大丈夫!?」
その大声に、少年が弾かれたようにこちらを見上げてきた。
「今中に入れてあげる! ……ガリアス、あの子を中へ!」
「かしこまりました。開門!」
ガリアスの宣言と共に、ガリアス・ギリの巨大なギロチン城門が地鳴りと共に持ち上がった。
ぶわあっ、と土煙が風に弄われ、無敵要塞ガリアス・ギリがまるで呼吸するかのように風を吸い込んだ。
私もたちも急いで地上に続く階段を降り、よたよたと門をくぐった魔族の少年を出迎えると、少年は一歩門を跨いだ途端、力尽きたように崩れ落ちた。
「あ……ありがとうございます、中に入れてくれて……! そ、それで、あの……!」
甲高い、声変わりをしていない声とともに、少年は肩に手をかけた私の顔を見上げた。
途端に――何故だかその瞳が湛える怪しい光に、どきりとした。
少年が顔を上げ、不安そうに私の目を見た瞬間、不可視の波動が私の心に突き通り、なんだか不思議なざわめきが心を揺らした。
えっ、なに今の?
えっ、私、こんな小さな子にドキッとするような趣味だったんだっけ? これでも十八歳なのに?
急に降って湧いた己の少年趣味疑惑に困惑しながらも、私は少年を観察した。
よくよく観察してみると、ローブを脱いだ方の男の子は、外見的には私と同じぐらい、十歳前後と知れた。
ローブを脱いだ頭は黒髪で、頭の横からは雄ヤギのような大きな角がせり出している。
目は妖しく輝く赤で――そしてなおかつ、なんだかこの年齢には不相応の艶というか、不思議に魅力を感じる目だと思った。
彼はやはりガリアスが言う通り、魔族であるらしい。私は魔族を見るのは初めてだった。
「今はお礼はいいわ。私の名前はシャーロット、人間よ。あなたはどこから来たの?」
「西の……人間たちの街からです。あっ、あの、それで……! ここには鍵開けの職人さんはいませんか!?」
「鍵だと? どういうわけだ」
ガリアスが代わりに尋ねると、男の子は無言で両手を差し出した。
少年の両手には巨大な手枷がつけられており、手首がぐるりと赤黒く痣になっている。
はっ、とその酷さに息を呑んだ私に、男の子がぐっと歯を噛み締めた。
「これを……これを外してほしいんです。重くて、歩く度にこすれて、酷く痛んで……」
絶句している私とは違い、その手枷を見るなり、チッ、とガリアスが舌打ちした。
「なるほど。人間に、だな?」
「はい……」
蚊の鳴くような声で男の子が答え、顔を俯ける。
「人間が、これを……? ガリアス、どういうこと?」
「この手枷は魔族が持つ魔力を制御する、人間ども御用達の忌々しい魔道具ですよ。魔王戦争の時は捕虜にされた魔族は悉くこれを着けられ、死ぬまで拷問にかけられた――。全く、デザインまでほぼ変わっていないとはな。よくよく人間とは進歩のない生物だ」
ガリアスは白手袋をはめた手で、スッと人差し指を立てた。
見ている間に、ガリアスの指が変形し、複雑な鍵の形に変化する。
「手を出せ。私が外してやろう」
「おっ、おお……そんなこともできるのね、アンタ。流石ゴーレムね」
「何度も申し上げますが私に不可能はありませんので」
実にスマートに言いながら、ガリアスはカチャカチャと手枷を弄り回した。
数秒後、ガチャ、ゴトン! という音と共に、手枷が外れて下に落ちた。
「は、外れた……! あっ、ありがとうございます!」
「礼はいい。それよりお前、お前は見たところ、純血の魔族だな?」
ガリアスは少年の前に片膝をついてしゃがみ込み、目線を合わせた。
「私の名前はガリアス、この無敵要塞を司るゴーレムだ。何しろ五百年ぶりに起動したばかりで情報が足らんのだ。色々と魔族の現状について聞いておこう」
「ご、五百年……!?」
「驚くのも無理はないだろうが事実だ。いいか、私の言うことに答えろ」
ガリアスは眼鏡を持ち上げつつ訊ねた。
「魔族は? 魔王戦争以後の魔族の現状はどうなっている?」
男の子はごくっと唾を飲み込んでから答えた。
「魔族は……世界の色んなところに散らばって暮らしています。人間によって団結できないように分断されてるけど……」
「ということは、魔界は……魔王陛下の司る世界は消えたか。仕方ない、魔王陛下亡き後ではな」
ガリアスが少しだけ無念そうに下を向いた。
「それで、魔族に対する人間たちの扱いは……」
そこまで言って、ガリアスはちら、と下に視線を落とし、外れた手枷を見た。
「……これを見れば訊くまでもない、か」
ガリアスのその一言に、男の子の目に暗い影が走った。
「魔族の子は高く売れるって、人間たちが。多少乱暴に扱っても死んだりしないって。それに……僕は、その、そういう種族だから……」
「えっ? そういう種族……って?」
「主、彼はインキュバスですよ」
ガリアスが代わりに私の疑問に答え、それから少し声を潜めた。
「いわゆる夢魔、人間の精気を吸って生きる種族です。昔から人間の変態どもはインキュバスやサキュバスを好んで奴隷とする厄介な性向がありますから」
「おっ、おう……そうなのね……。なるほど、インキュバスかぁ……」
なるほど、インキュバス。この妖しい魅力というか、年齢に不相応の色気はそう言うところから来ているのか。
私がなんとなく、この少年たちの背後に横たわった事情を察した時、男の子がぱっと顔を上げた。
「それで、あの、皆さんは……!」
「心配ない。私は君たちの味方だ。もちろんこの方もな。彼女はシャーロット・マリー・ジェネロ。この要塞の主であり、私の主人だ。失礼のないようにな」
そこでガリアスはちらりと私に目配せした。
私がぶんぶんと首を縦に振ると、男の子が私を見つめた。
「とっ、ということは――! あの声はお姉さんの声だったんだね!?」
「え? ――う、うん。あの放送を聞いたのね?」
「そうだよ! 僕、それで逃げ出してきたんだ! ここにくればきっと助けてくれるって、僕らの魔王様が復活したんだって……!」
「え? ま、魔王が復活――?」
私が目を点にすると、男の子がぐいぐいと顔を寄せてきた。
「僕のおじいちゃんが言ってた。昔、この地上には魔王様っていう僕らの王様がいて、人間たちから僕らを守ってくれてたんだって! その人は人間の卑怯な作戦で死んじゃったけど、いずれまた復活して僕らを助けてくれるんだって! だから希望を捨てて生きちゃいけないって……!」
言うなり、はっ、となにかを口ごもった男の子の目に、じわりと涙が浮かんだ。
男の子はまた顔を俯けてしまった。
「おじいちゃんはそう言い続けて、苦労ばっかり重ねて死んじゃった……。その後、僕も人間に捕まって、遠い街まで連れてこられて……。あの放送を聞いて、隙を見て逃げ出したんだ。お姉さん、お姉さんがその魔王様なんでしょう?」
なんでしょう? と問われて、流石の私も返答に詰まった。
肯定しようか、否定しようか……と迷っていた時、『またレーダーに反応よ』というシェヘラの声が聞こえ、私は虚空を見上げた。
「シェへラ、追いかけてきてるのは魔族?」
『いいえ、今度は随分ガラの悪そうな人間連中ね。数は……ひぃふぅみぃ、十五人もいるかしら。ガリアス、映像を出して』
「言われなくてもやる。――俯瞰映像を拡大」
ガリアスが両手で一枚紙を広げるような動作をすると、虚空に青白い俯瞰映像が現れた。
みんな手に手に剣や棍棒の類を握り締め、大股で要塞に向かってくる。
その映像を見た男の子の顔が蒼白になった。
「こ、こいつらは……!? どっ、どうしよう! まさかこんなところまで追いかけてくるなんて……!」
少年はその光景に恐怖したように頭を抱えてしゃがみこんだ。
「僕、こいつらに捕まってから毎日殴る蹴るされてて、逆らえなくて……! どうしよう、捕まったらきっともっと酷いことされちゃうよ……!」
男の子がぶるぶると震えるのを見て、私は本当に、この薄汚い世界に再び失望する気持ちを味わった。
いくら魔族とはいえ、こんな年端もゆかぬ子供から抵抗する術を奪った上で折檻するとは。魔王や魔族という箍を失って以来、この世界の人間はよくよく増長しているらしかった。
私が顔を歪めた途端、キュッ、とガリアスが首元のリボンタイの緩みを締めた。
「怯えるな、少年。お前はすでに私の中にいるのだからな」
その声は、まるで雷のように響き渡った気がした。
少年はハッとガリアスを見上げた。
「おっ、お兄さん……まさか僕のために戦ってくれるの?」
「何を言う、当然ではないか。ここは全地上の魔族のための家であり、すべての魔族を人間の穢れた欲望から庇い護る防波堤でもある――主」
「うっ、うん……」
「丁度いい。奴らに手土産を持たせてやりましょう」
ガリアスは眼鏡のレンズを白く冷たく光らせ、酷薄な笑みを浮かべた。
「話を聞けば、どうやらこの時代の魔族は抑圧されているようだ。だが本来、魔族は人間などに何ひとつ劣ることのない、まこと優れた種族です。思い上がった人間には二度と噛みつくことのないよう、少々痛い目を見てもらう……恐怖の手土産、とでも申し上げましょうか。如何です?」
痛い目……その不穏な単語に、私は少しだけ無言になって考えた。
自分たちが強い側に属するもの、それ故にそうする権利があるものとして振る舞い、弱いものを一方的に虐げる人間たち。
そういう人間たちが圧倒的な力によって逆襲され、そんな馬鹿な、こんなはずでは! と叫びながら、尻尾を股の間にしまい込んでキャンキャン泣き喚いて逃げ惑う姿――。
はっきり言って、想像しただけでも黒い笑いが止まらなかった。
「わかった、ガリアス。アンタの意見を採用しましょう」
私が黒い笑みとともに首肯すると、ガリアスが満足そうに頷いた。
「そう仰っていただけると思っておりました。……ときに主、主はこういう場合、無様を晒す愚か者をゲラゲラ笑いながら観察するのと、魂まで染み透る苦痛によって一撃で躾ける方――どちらがお好みでしょうか?」
「おお、また選べるのね?」
「よりどりみどりでございますから」
「もちろん――ゲラゲラ笑いながら観察する方よ」
「かしこまりました」
私とガリアスがニヤニヤと笑い合うのを、男の子はなんだか不思議そうな目で見ていた。
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