契約者
「――江島虎徹ってのは偽名じゃなかったのか・・・・・・。二十一歳。四日後だったら、二十二歳」
ほの暗い車内の助手席で、携帯画面の光が浮かび上がらせた少年の顔が、聞かせるともなしに藤間の送ってきた情報をぼやく。五年前からずっと犯行に携わっていたのなら、始めた当初は十代だ。後部座席で呻いた大男が天を仰ぎ、怜悧な黒い瞳はじっとフロントガラス越しに外を睨みやっていた。
どれだけ手を尽くしても、すでに失われてしまったものは引き留めようもなかったのだ。救急搬送の怪我人ではなく、遺体袋に包まれた死者として、江島は廃ホテルを後にした。
救急車には、当初の想定通り女性刑事に付き添われた凪香が乗せられた。彼女が決定的な瞬間を目にせずに済んだことだけが、かすかな救いだろう。また会おうねと北瀬と約して、彼女はまだ残る緊張と恐怖と、少しの安堵を灯して病院へと向かっていった。
廃ホテルはその後栃木県警によってすみやかに捜索され、結果、他に子どもはいなかったそうだ。子どもの取引に使われていたらしいパソコン機器が押収されたそうなので、過去の事件もそれで辿っていけるだろう。そうすればまだどこかで生きていてくれるかもしれない被害者を、遅ればせながら助け出すことも可能だ。犯人から証言が望めるならば、もっと早く、かつて攫われた子どもたちの行き先も判明するかもしれないが、少なくとも片割れはもう彼岸の人間だ。
「――なんのためにこっちがぼこぼこにぶっ飛ばしたいのを堪えて、手錠をかけてると思ってるんだよ・・・・・・」
憤りともやるせなさとも聞こえる幼い音色が、「こんな逃げ方されたら堪らない」と、大人びた行き場のなさで呻く。
「・・・・・・同情するわけじゃないが――奴は逃げたんじゃない」
そんな北瀬の隣から、淡々とした那世の声が静かに口を開いた。訝しげに向いた青い瞳に、そっと告げる。
「契約者を庇った」
「なにそれ・・・・・・余計くる」
北瀬は腕で眼前を覆い、背もたれに力なく体を預けかけた。
その可能性を、那世はもうあの場で感覚的に確信していたのかもしれない。佐倉もきっとそうだろう。彼らは〈あやかし〉だ。生きてきた実感として、通う感覚がある。だからより、必死だったのだろう。ここで終わらせては、いけないと――。
神上に対して、状況証拠はいくらでもそろっていた。けれど、どれも決定打が弱いのだ。廃ホテルで凪香や北瀬が見た顔は、神上本人の顔とは似ても似つかなかった。江島の異能で顔を変えていた、とはいえる。だが彼らが見た男と神上が同一人物なのかと問われれば、それだけでは決定的に結び付けられない。神上と呼んでいたと証言しても、呼び方など偽れるとされてしまえばそれまでだ。
栃木県警が追いかけた車も、神上の会社の社用車だったそうだ。一度、まだ人の気配がある社屋へ男が入っていき、そして、神上が出てきて自分の車で帰っていった。社用車の鍵は自由に使える。入っていった男の顔と、出てきた神上の顔は当然違った。会社の他の誰かだと言い逃れ出来よう。
今時点で、神上に繋がるものはすべてがすべてそうなのだ。限りなくクロとしか考えられないが、突き詰めるとグレーに見える部分が残っている。
指紋は廃ホテルにも社用車にもあるが、所有者のものがあっても不思議はない。子どもの売買取引はすべてホテルのパソコンで江島が操作をしていたらしく、神上には繋がらない。薬も、売人の男と買い手の江島の双方と繋がりはあるが、神上自身が受け取っていた証拠はない。金の動きも、不審な入金があったのは江島の会社であり、そこから神上の会社への金の流れは、商売の範囲内で説明をつけようとすれば出来るようになっていた。
そして北瀬がホテルで出会った時に嗅ぎとった契約者の匂いも、もはや意味をなさない。力が薄れていてはっきりとしなかった上、なによりもう、神上は契約者ではないのだ。
〈あやかし〉の死と同時に、契約者との繋がりは消失する。だからもう、神上が江島の契約者なのだという証は、どこにもない。契約者独特の匂いを生じさせる血中の差異も、胸元の同じ痣も、彼から消え果てているだろう。
自分と神上の繋がりを完全に断つ。そうして彼を庇うために、江島は容易く喉を裂いた。
彼らがどういった関係性を築いていたのかは、推し量るしかない。ただ、出会った時は十代の少年が、その後すぐに犯罪に手を染め、しまいには自ら命を絶つのを是としてしまう――そういう繋がりだったのだ。
白み始めていた夏の早い朝は、いつしか太陽の片端を東の空から伸ばしだしていた。光がさして、一様に闇に沈んでいた住宅街に、明暗の影がはっきりと輪郭を描き出す。
北瀬の手に握られたままの携帯が、また振動した。そこに届いた内容に視線を落として、北瀬は座席にもたせていた身を起こす。
「・・・・・・佐倉」
江島の死をみとめてから、ずっと押し黙ったままの男に、北瀬は声だけ投げかけた。彼が江島になにを見て、なにを腹にわだかまらせているかなど、容易く知れる。
「辛気臭い面もそこまでにしておきなよ。彼の冥福は祈る。でも――君がいるのは、ちゃんとここだから」
背後で男が身じろぎした気配に、北瀬はくるりと振り返って、携帯の画面を掲げて見せた。
「しっかり働けよ、捜四の刑事さん」
携帯に映し出された鑑定結果と、にやりとわざとらしく引かれた腹の立つ笑みに、佐倉は聞こえよがしに勢いよく舌打ちをした。
「ったりまえだろ。こき使われるって、班長との約束だ。きっちりシメまで働いてやんよ」
うなだれて後部座席に沈んでいた巨躯が、勢いよく起き上がって力強く外へと出る。まだ大半が眠る住宅街のそこここで、息を潜めて止まっていた他の警察車両からも、動き出す気配が感じられた。北瀬たちと同じ報せが入ったのだろう。
「一致か?」
「ああ。間違いなく」
短い問いに、北瀬は己の少し伸びた左爪先を見やった。ホテルで古いシーツを巻き付けていた方だ。
「江島には悪いけど・・・・・・そこで情けをかけてやれる立場でもなければ、優しくもしてやれないからね」
どちらともなく無言で伸ばした腕が、互いの心臓の位置を――痣の上を軽く拳で叩きあう。それを合図に、ふたりは佐倉を追って、車のドアを開いた。
すでに早朝こちらに合流した南方と、栃木県警の捜一の係長が先陣を切っている。向かう先は、閑静な住宅地の中でも豪邸といって差し支えない家だ。シャッターの下りた広い車庫に、大きな門。ぐるりと巡る壁の向こうには広い庭があるらしく、高い樹々が力を増してきた朝の陽射しに濡れている。黒い洒落た表札には、神上と名字が掲げられていた。
まだ人を訪うには早すぎるが、目覚めだす者がいない時間でもない。二度目のインターホンの音に、不審げな男の声で応答があった。誰何の問いかけに警察の名を出せば、門が自動で開き、いささか不承不承であったが中へと招き入れられる。
まだ寝間着姿でもおかしくない時間帯だが、朝が早いのか仕事のためか、家の主たる神上は、すでに身なりを整えたワイシャツ姿だった。綺麗に撫でつけられた髪型はホテルの男と似ているが、その髪色はかの男の明るかった茶色と対照的に暗く重く、彫りの深い顔立ちには眼鏡もない。だが、迷惑げに用向きを尋ねるその手に、包帯がまかれているのがひどく目を引いた。
「実は昨日、誘拐事件が発生しまして」
愛想よく笑いかけながら南方が口火を切る。そうですか、と平静に答えつつも、さりげなく後ろに隠された包帯の手を目で追い、彼女は続けた。
「それで誘拐されたのがうちの捜査官でしてね。二人組の犯人の片方の手に、ひっかき傷を負わせたそうなんです」
明らかに一瞬浮かんだ困惑と狼狽の色を慌てて消して、神上がなにか言い出しかける。けれどその前に、すっと南方が半歩身を引いた。そこに進み出た那世の肩口から、ひょいと背負われた金糸の髪の少年が、にこりと笑顔をのぞかせる。
「どうも、神上さん。昨夜助けていただいた仔猫です」皮肉たっぷりに告げて、一見無邪気な少年の笑みは凄みを纏った。「ご恩にきっちり落とし前つけに来ましたよ。顔かたちは変えられても、声は変わってなかったんですね。昨日お話しされた時とおんなじだ」
「その手にある傷の確認や声についての証言の見直しも、行いたいところではあるんですけどね」言葉を失った神上に、明朗な南方の声が畳みかけた。「手っ取り早く申し上げますと、捜査官の爪の間に付着した皮膚のDNAと、先日、栃木県警の方が麻薬捜査の関係で神上さんからご提供いただいていたDNAが一致したんです。おかげで逮捕令状もおりました。ご同行いただけますね?」
反論を封じきる威圧が、快活な口調にするりと混じる。神上はかすか抵抗の逡巡を示し――そして、肩の力を落とした。不安げに様子をうかがいに来た妻を下がらせ、どうしたのと聞こえたてきた寝ぼけた息子の声に、部屋へ戻るよう促す。家庭では良き夫であり、優しい父であることが、そのわずかな言動の端々にうかがえた。
「・・・・・・警察が、おとりに子どもを使うとは思わなかった」
「そんな道に外れた手段は選びませんよ。彼、中身は大人の捜査官ですから」
きっぱりと、神上の苦笑交じりの苦言を切って捨て、南方がその手に手錠をかける。「異能か」と思い至ったのか力なく呟いて――神上は、誰に聞くとはなしに口を開いた。
「・・・・・・江島くんは、どう――亡くなった?」
契約者は、消える痣と独特の感覚で、同じ痣を持っていた〈あやかし〉の死を悟れる。だから、昨夜の時点でその事実だけは、彼も分かっていたのだろう。
「自死です」
南方から神上を引き渡された佐倉が、ただそれだけ、短く教えた。その返答は予期されたものだったのか、思いも寄らなかったのか――息を詰めて俯いた横顔を、しいて追いかけなかった佐倉には分からない。ただ、視線を上げないまま足元を見つめ、ぽつりと神上はもらした。
「――彼に出会った時、香りに清々しい快感があったんだよ・・・・・・」
まだ少年と呼ぶ時分に出会った江島は、よどみの中から救いあげてくれたと、神上の手を取った。その運命を預けられた陶酔が味わい深くて、麻薬のように追い求めてしまった気がする。資金繰りが必要だったのも確かだが、それが主眼ならば、こんな方法を取る必要はなかったのだ。
どこか憑りつかれてしまったのかもしれない。己が手を貸したことで塗り変わった運命を、歓喜で抱きとめた少年を見た、あの瞬間。それを他の誰かでももう一度、と――。
「出会っては・・・・・・いけなかったのかもな」
哀惜がじわりと染み入るように、神上の口をついた。だが、その寂寞を切って捨て、少年の声が冷ややかに言い放つ。
「ずいぶん勝手な感慨で仰られる。せっかくの得難い出会いを――そういう運命にしてしまっただけでしょう」
青い瞳は、思わず彼を振り仰いだ同じ契約者に、一瞥すらもくれてはやらなかった。




