サクラ
廃墟同然のホテルの部屋が、他愛もない会話でかすか賑わい出した頃、扉の向こうで鍵をいじる音がした。せっかくやわらいだ凪香の空気が凍りつき、その身を固くこわばらせる。
北瀬はとっさに彼女を庇うように扉側に動いたが、まだ身体が鈍く重く、思うままにならなかった。そもそも、気をつけていたのに足音を拾えなかった。自覚のある以上に力が削がれた状態らしい。その苛立ちによる舌打ちに重ねるように、扉が開いた。
誘拐犯の男が押さえた扉から、先に別の男が入ってきた。ちらりと振り返らず視線だけで凪香をうかがえば、彼女は知っているようである。
背の高い、身だしなみの整った男だった。蒸し暑さの残るじんわりとした空気の中、涼しげに長袖のシャツを着こみ、明るい茶色の髪を綺麗に撫でつけてある。だが、その前髪の少し遊ばせた部分や、くつろげた首元が、ちょっとした親しみやすい緩さを生んでいた。四十の半ばぐらいだろうか。眼鏡越しの微笑みは一見穏やかで若々しいが、重ねた時の落ち着きと貫禄もはらんでいた。
「こんにちは」
そう男が、ベッドに腰かけたままの北瀬の前に屈みこんだ。
「急にこんなところに連れてきて驚いてしまっただろうが、許してほしい。一時のものだからね。私が、前よりずっと、君にとって居やすい場所を探してあげよう」
親しげに肩にそっと置かれた男の手の甲を、無言で睨む少年の金糸の髪先がくすぐる。男は優しく独善的な笑みを浮かべた。
「君は綺麗だから、きっと良くしてくれるところが見つかりやすいよ」
それの意味するところのおぞましさに、ふっと瞬時に沸き立った怒りを、北瀬は静かに冷え込ませ、なんとか腹におさめた。
男が、「危うさは上がるが彼は髪を染めたり切らない方がいいだろう」と、誘拐犯の青年へ相談めいた指示を出している。それを聞くのでも、どういった目的で子どもを攫っていたのかが知れるというものだ。
(藤間ちゃん、売買ルート引き当ててないかなぁ・・・・・・)
後先考えなくてよいのならば殴り飛ばしておきたいところだが、現状は悔しいことに、それでは上手くいかなさそうだ。それに、おそらくいまの力では、この目の前の新たな男を殴り飛ばせても、誘拐犯の〈あやかし〉の男には敵わない。拳に力を込めても、満足に思った通りの強さにならないのだ。
薬は通常の効用の他に、〈あやかし〉に特別な効果を示した。もちろん北瀬は〈あやかし〉ではないが、いまは那世の異能に加えて城田の異能の影響下にもある。推測に過ぎないが、この力の入らなさは、それにより多少〈あやかし〉寄りの効き目が出てしまっているのかもしれない。
(おかげで匂いがあんま分からないけど、こいつが契約者で、かつ主導っぽいな・・・・・・。〈あやかし〉の男の方は、実動担当ってところか)
そう思えば、計画を密にしているわりに、ところどころ粗があるのも理解出来る。〈あやかし〉の少年が見つかったのは、その最たるものだろう。あれは梅雨の影響で緩んだ地盤が崩れ、発見が早まったという運のなさもあったが、もっと慎重にもふるまえたはずだ。
口を噤んだままの少年をどう感じたのか、さしてそこは気にも止めず、男は凪香の方を振り返った。やはり優しげな形を装った表情ではあるが、どこか鈍く淀んだ薄暗さが、いやな影となって纏わりついている。
「君の方はずいぶん待たせてしまってすまなかったね。あの少年のことがあったもので、少々君の行き先をきめる手続きに時間を要してしまった。でも、無事にさっき決まったよ。良かったね」
明日には引き取り先に連れていく、と男は勝手に話を進める。それを凪香はじっと見つめていたが、やがて、怖じた色の底に決意を灯して口を開いた。
「あの、その男の子は、どうなったんですか?」
おどおどとした心もとなさは残りながらも、彼女の声は存外強く、はっきりと響いた。それに凪香自身驚いたようだったが、男も面食らったらしい。眼鏡の奥の焦げ茶の瞳がふっと一瞬、驚愕とともに苛立たしげに歪んだあと、緩やかに笑った。
「君が心配することではないから。気にしなくていい」
それは抑圧の音色。でも、と凪香が抗って言い募りかけると、ぎゅっと男はその細い腕を握りしめた。
「気にしなくていいと、言っているだろう? いい子にしてなさい」
口調は紳士的な穏やかさを気取っているくせに、込められる力が強くなる。捻じる動きが加わって、凪香の身体が強張った。瞬間。
「放せ・・・・・・!」
ベッドから跳ねるように立ち上がって、北瀬は男の腕を掴んだ。引き剝がそうと力を籠めると同時に、手の甲に爪を立てて引っ搔く。男は苦痛の声をあげて手を離し、北瀬を強引に振りほどいた。
「この・・・・・・!」
「このガキ!」
男が怒りの滲む双眸で北瀬を睨みつけるのより早く、男の後ろでじっと控えていた青年の鬼気迫る叫び声が空気を震わせた。同時に――腹部に〈あやかし〉の男のつま先がのめり込んで、北瀬は衝撃と痛みに息を詰めた。そのまま強かにベッドサイドに背をうちつけ、ずるりと身体が頽れる。そこに、もう一撃。同じところに踏みつけるような蹴りを入れられて、思わず噎せて咳き込んだ。
やはり那世の異能がいつもの通りに働いていないらしい。ついぞ忘れていた並の身体の脆さに苦笑しそうになった。子どもの姿なのも最悪だ。たった二撃で、苦しさを逃すのに手一杯とは情けない。
そこへもう一度と振り上げられた青年の足が視界に入って、北瀬は身構えた。が、それを――低く男の声が止めた。
「江島くん、もういい」
「ですけど、このガキ、神上さんの手を!」
「大丈夫だ。少し元気が良すぎたようだが、これで彼も分かっただろ。いい子にしていた方が、辛い思いをしないで済むとね」
憤る男に静かに微笑んでその背をなで、神上と呼ばれた男は冷えた目で北瀬を一瞥した。
「奥様も、どうしたのかと心配されますよ?」
「妻には助けた仔猫に引っ掻かれたとでも言っておけば問題ないよ。それより、君は優秀だが、少しかっとなりやすいのが困りものだね」
血の滲んだ甲を眺めやって嘆息しながら、神上はうろたえる江島の肩を子どもをあやすようにぽんぽんと叩いた。
「・・・・・・神上さんに、なにかあったら困ります」
「それはありがたいけれどね、君には冷静でいてもらいたい。薬の方でも少々厄介な動きがある。この前の彼のようなことが続いては、この慈善事業も差し障る」
慈善事業ときたか、と聞いていて呆れながら、北瀬は胸中で反吐を吐いた。
先の話ぶりからするに、家庭に難がある子どもばかりを狙って、そこよりも『いいところ』に送り込んでやる、という建前から出てきた言葉だろう。だが、ただでさえ困難がある子の人生をさらに弄んで、なんという言い草か。
しかし彼らの認識は――少なくとも江島の認識は歪んでいるらしい。素直に神上の言葉に「そうですね」と頷いている。そこには純粋な敬意があった。
いやな感じだと、北瀬はまだ痛む腹をさすった。先ほどの激昂も、度を越していた。誘拐犯に『子ども相手に』との発想があるとは思わないが、おそらくこちらは商品だ。売買相手に渡るまで、ある程度大切にしなければならないはずだろう。怒りの原因たる神上に負わせた怪我も、さしたものではなかった。にもかかわらず、あの攻撃は冷静に見なくても過剰が過ぎた。
(大事なものを傷つけられて癇癪を起す子どもだ・・・・・・。いや、もっと、隷属的か・・・・・・)
契約者と〈あやかし〉の主従じみた関係――。その形も否定はしないが、仕事柄か、行き過ぎたものでいい結末をあまり見たことがない。
「では、明日の彼女の手配を頼むよ。私はもう帰らなければ」
「分かりました。お気をつけて」
そう言葉を交わしながら、神上とともに部屋を出た江島は、いまだ蹲る北瀬を睨みつけると、乱暴に扉を閉め、外から鍵をかけた。
がちゃりと重たい音が後を引き、消える。そのあと降りた静寂に、「ごめんね」とまた涙の声がした。
「わたしが余計なこと言ったせいで・・・・・・。いい子にしてなかったから」
そっと寄ってきて、蹴られた個所を申し訳なさそうに、幼い手は必死で撫でる。それを同じく、いまはどうしても小さい手で包んで、北瀬はそっと静かに言葉を紡いだ。
「大丈夫。それに、君はいい子だよ。悪いことは、なにもしてない」
あまりに真摯な響きに、大きな双眸はきょとんと瞬いた。その緑の奥に、青い色が溶け込むほどしっかりと、切れ長の瞳は凪香を見つめる。
「悪いのはあいつらで、君が悪いところはひとつもない。されてはならないことをされたと、声をあげていいんだ。この先、君の身に起きたことで誰がなにを言っても、俺がいま言ったことは、どうか覚えていて欲しい。――君は、悪くない」
「う、うん・・・・・・」
射貫くにも似た強すぎる眼差しに、どこか気圧されたように、訳の分からぬまま凪香は頷いた。それに、いまはこれでいいかと北瀬は笑う。理解がまだ及んでいなくとも、いつかの時のために、彼女のどこかに届いているのなら、十分だ。
「あとさ、俺としてはむしろ感謝してるんだよね。あの偉そうなおじさん、引っ掻いてやるきっかけが欲しかったんだ」
「どうして?」
「ん~、万一の時の切り札は、多い方がいいから」
歌うように言って、北瀬は古びたシーツの端を破り、男を引っ搔いた左手に巻き付けた。凪香は意味が分からず、首を傾ぐばかりだ。
「優くんの言い方、なんかよく分からない・・・・・・」
「じゃあ、言い変えてみるなら・・・・・・味方が来るのに備えてるってとこかな」
「味方?」
「そう、たとえばこいつね」
北瀬はベッドの片端に打ち捨てられていた、空の虫かごを拾い上げた。肩にかけたままにしていたので、一緒に運び込まれたままだったのだろう。
「この中にはたいへん優秀なクワガタが入ってたんだよ。今頃、あの悪人どもの情報を集めて、飛び回ってるに違いないのさ」
「それは・・・・・・頼もしいね」
意気揚々とした北瀬に、くすくすと凪香は苦笑に肩を揺らした。それに北瀬は、あからさまに唇を尖らせる。
「あ~、信じてないね? 本当だって。あんま仲良くはないんだけどさ、実力だけは信頼してるんだから、あいつ」
「クワガタさん?」
「そうそう。名前はね、クワ・・・・・・いや、ノコだったか?」
そう首を捻りながら、「まあ、どっちでもいいか」と北瀬はひとり納得して、不敵に口端を引き上げた。
「いまはどっちにしろ、あいつはサクラって呼ぶのが、ぴったりくるだろうからね」




