罠
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大きく膨らむ白銀の雲が紅蓮の光に照らされて、濃淡の強い影を宿す。名残を惜しむ西日の残照が、目も眩む朱色に空を染め狂わせていた。東からは、深い藍色の爪先が、そっと茜の空を引き裂くように忍び寄ってきている。空が近いせいか、夕闇色に圧し潰されそうな心地すらした。
公園に響く蝉の声もいつしかヒグラシの鳴き声に移り変わり、一日の終焉と過ぎ行く夏への寂寥が、心もとなさと不安を掻き立てていた。
今日も所在なげにブランコを揺らしながら、北瀬はそろそろ来るだろう人影を待つ。少し前から、かの男とは短い会話を増やしてきた。ちゃんと食べているかとか、困ったことはないかとか、それとなく尋ねてくることが真実心配であればいいのだが、まだはっきりとはしない。おずおずとした素振りで犬をなでさせてもらった時は、微笑ましげな眼差しをしていたようだが、その奥の色を読めない気もした。
(なんか引っかかるんだよな、あいつ・・・・・・)
だが、決定的ななにかがあるわけではない。埼玉から神奈川への遺棄ルートの精査は、思ったような結果が出てないという。作成した似顔絵に似た人物も、いまのところは空振りだそうだ。精査班が詰める部屋は、地獄の空気だ、と那世が語っていた。
(俺なら、今日観たホラーの洋館より、そっちの方が断然近づきたくないね)
そんなしようもない思考をくゆらせながら、ブランコの軋む金音に聞くとはなしに耳を傾ける。
と、北瀬の筋の通った形の良い鼻先が、ひくりと動いた。男の匂いがかすか感じられたのだ。けれど、いつもと違う。それが駆けてくる足音のせいだと気づいて、北瀬は足元に転がしていた虫かごを引っ掴んだ。
同時に、公園入口へ差し掛かった息せき切った影へ、驚いた様で振り返る。
「お兄さん、どうしたの?」
「いや、目を離した隙に犬が・・・・・・」
男が掲げたのは、いつも手にしているリードだけ。その先に繋がれているはずの老犬の姿はどこにもない。
「爺さんだからって油断したら、ひとりで散歩に行っちまったみたいで。よければ一緒に探してくれないか?」
親しげな垂れ目が、さらに困り切った様子で下がっている。男の申し出に一瞬逡巡してみせて、北瀬はブランコから飛び降りた。肩にかけた弾みで揺れた虫かごの開け口を、なんの気はなく三回、こんこんこんと強く叩く。
「いいよ」
「助かる。几帳面なところのある犬だから、いつもの散歩ルートを大きく外れてはいない気はするんだ」
こっちにいつも行く、と指された方へ一緒に駆けてゆく。見る間に滑り落ちていく夕陽に、薄闇が濃くなり始めていた。宵風もなく、紫に沈みだした空気がぬるい湿度を帯びたまま纏わりついてくる。それがいささか心地悪く、額にじんわりと汗が滲んだ。
少し行った先の十字路で、たまにそっちに逸れることもあるから見てきてほしいと、男は反対側の道を示した。
北瀬がそちらへ進んでみれば、古びた町工場がたたずんでいた。もう店を畳んでしまったらしく、シャッターが下りている。脇には、薄闇を照らす街灯から逃れるように、ワゴン車が一台止まっていた。
老犬が蹲っているのが見えたのは、その車の脇だった。蛍光に光る首輪もしている。間違いない。
「お兄さん、いたよ!」
素っ気ない響きながらも声を張り上げ、背後の違う方向へ向かっていった男へ声をかける。また勝手に散歩を再開しないうちにと走り寄れば、老犬は人が来るのが分かっていたように、そっと立ち上がり、静かに尾を振って出迎えてくれた。
まるで、待てをしていた犬が、褒めてくれと言わんがばかりに。
やはりと北瀬が虫かごの扉を小さくスライドさせて開いたのと、背後にすぐ男の気配が迫ったのとは、ほぼ同時だった。反対を本当に見に行っていたにしては、早過ぎる。
(あぁあ、ほんとに、やな商売・・・・・・)
当たりの苦さを噛み締めた瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。ぞわりと妙な感覚が背中を滑り落ち、頭が揺すられたような衝撃で回転する。
膝から崩れ落ちた細い少年の体躯を男は背後から抱きとめ、そのまま脇のワゴン車の扉を開いてその中へと放り込んだ。
今度はトランクじゃない分少しはましか、と、意識の片端で薄ら笑いを浮かべる。霞む視界の端に、虫かごから這い出たクワガタが、車の座席シートでもぞついているのがぼんやりと映りこんだ。が、もう身体は動かなかった。気を失うまいと気力を振り絞るも、そのまますべてが不思議な夢に溶けて落ちていく。
誰もいなくなった夕闇の路地から、ワゴン車が急発進で走り出していった。




