運命ではない出会い
「え? お前、首席卒業のくせに留年してんの?」
古茶けた紙資料から顔をあげ、佐倉が素っ頓狂な声をあげる。夜になっても明かりが消えない非違検察課の広いオフィスの片隅。小部屋にこもって、三人は資料箱を机の上に積み重ねていた。
心にゆとりがなかったのだろう昔日の同僚の難解な手書き文字との格闘は、たいていの場合それなりの時間を要する。合間合間に差し挟んでいた雑談は、いつしか北瀬と那世の大学時代の話に流れ着いていた。
「大学一年の時に新歓の誘いをかけてきた学部の上級生が、サークルから警察組織への勧誘に切り替えて攻勢をしかけてきた上、次の年には同学年になって同じ講義にいた」
「新手のストーカーかよ、怖ぇよ」
「え? なに? 佐倉パイセン、悪口?」
「うわ! やめろ馬鹿!」
突然首筋にあてられた、買いたての缶コーヒーの冷えきった触感に、佐倉は肌を粟立たせる。いつの間に手を伸ばしていたのか、端正な顔がにこにこと眩い笑顔を湛えていた。首を傾いだはずみでさらりと流れた細い金糸が、挙動と不釣り合いに麗しい。それがまた、佐倉に苛立ちを添えるというものだ。彼の手から佐倉は缶をひったくると、その勢いのままプルタブをへし開けた。
「率直な感想だよ、ばぁか。躊躇いなく首を狙ってくんな」
「まぁ、大学の頃は、こいつの狩猟本能を甘く見ていたという話だな」
「てめぇもそれで終わらせていいのかよ・・・・・・」
「いやぁ、言っとくけど無理強いはしてないし、那世はなると思ったから誘った。そういう香りがした」
自分もコーヒーに口をつけながら、本気を冗談めかしてにやりと北瀬が笑む。香りというのは比喩ではなく、ふたりが出会った時のものだろう。つまりは、那世は捕まえられると見極められてしまったわけだ。そう、佐倉は夕方の会話を思い出した。
「警察になりそうな香りってなんだよ・・・・・・。黄ばんだ調書の匂いか?」
「せめて夜食のカップラーメンぐらいの格は欲しいな」
「あれ至高の香りだけど、那世、君、ほんとそれでいいの?」
くだらないやりとりに、けらけらと北瀬の笑い声が軽やかに響く。それも楽しそうだと彼は上機嫌だが、さすがに正解ではないらしい。本当のところはどんな香りだったのかは、当人にしか分からぬことだ。
契約者と〈あやかし〉が、出会った時に互いに心地よいと感じる香り。それはつまりは個々人の感覚だ。契約する者同士とて、共通の匂いを得ているわけではない。ただ、好ましいと――その思いだけが一致する。
「しかし那世は弁護士目指してたってんなら分かるけど、北瀬は元から警察志望だろ? なんで大学いったんだ? キャリア蹴ってここに来んなら、高卒枠でも良かったんじゃねぇの」
国の警察組織である警察省なのは同じでも、非違検察課は現場の捜査を行う実動部隊だ。そのため、国家公務員枠の警察官ではあるが、地方自治体の警察官たちと同じノンキャリアに近い扱いとなる。それゆえ、キャリア組の主な職務たる、法整備や警察の監督業務といった警察行政に携わることはなかった。地方自治体の警察官と違うのは、希望し、既定の試験に合格すれば、途中でキャリアルートに変更する道も残されているところだろうか。ただし、それも普通の者にとっては、なかなかの茨の道だ。
「まあ、キャリアになりたいなら、そう思った時にどうとでもなるし」
「てめぇ、事もなげに言い捨てやがって・・・・・・」
釣り上がった鋭い双眸に呆れをのせ、佐倉は北瀬を横目に見やった。
彼の余裕の態度が傲りでも虚勢でもなく、実力に裏打ちされていることは知っている。彼の入省前、次期次長の息子として上の方で話題になっていたのは、いくどか小耳にはさんだ。その時聞いた大学の名は、進学など興味もなかった佐倉でさえ知っている著名なものであった。
そんな未来の幹部候補の期待がかかっていた、実力も学歴も兼ね備えた人材が、堂々とノンキャリア枠で警察の扉を叩いたため、一時、省内は騒然としたものだ。そして彼が己のブルーズ・バディとして引き連れてきた那世の異能の特徴も相まって、根も葉もない噂が巻き起こり、一部は出向職員とともに地方に流れまでしたらしい。それがいまだに健在にささやかれているせいで、各署へ捜査に赴いた際、噂による誹謗中傷へ喧嘩を売りにいく北瀬を御すという、那世の仕事が増えたと聞く。迷惑なものだ。
「大学行ったのは、率直にいえばモラトリアム楽しみたかったのと、弁護士や検事並みの法律知識があった方が、被疑者追い詰めるのにいいと思ったからかな」
「そんな攻撃性の高い学習動機、お前ぐらいだったろうな」
涼しい顔で淡々と告げて、那世はアイスココアの缶を開ける。北瀬の取り繕いもしない率直さにも慣れたものだ。
そんな相棒を、にんまりと引き上がった形のいい唇が、意地悪くのぞき上げた。
「その高い攻撃性と相性抜群なのは君だよ ダーリン」
「実際、尋問の時役立ってるのは確かだな、ハニー」
「この似た者バディが」
言い淀むことのなかった返答に、結局は同じ穴の狢かと、佐倉は性質の悪い法学部卒業生たちをまとめて切って捨てた。
「でも、まぁ、人と〈あやかし〉の適合者同士が相性いいのは確かだかんな。本能的に惹かれあうっつうかさ・・・・・・」
「とはいえ、それは得難い出会いなのだとしても、別に運命ってほど絶対じゃないからね」
面持ちに神妙さを湛えた佐倉に、さらりと割っていって青い瞳はほのかに笑んだ。
「要は、すっごく相性がいいって分かりやすいだけで、そこに甘えても、いい関係にはなれないだろ。別に契約者って替えの効かないただ一人じゃないし。適合者同士といっても、結局は個と個の関係なわけだから、特別になれるかはお互い次第さ」
同じ痣持つ者となっても、そこに天が定めた唯一無二はない。基本的に契約は結んでしまえば意図的に切れないが、どちらかが死を迎えたとなれば消えてなくなる。その後〈あやかし〉側が別の適合者に出会うこともあれば、逆に元契約者が再び別の〈あやかし〉と新たな契約を結ぶこともあるのだ。
「それに相手が契約者じゃなくたって、運命の出会いってのはあるからね。佐倉こそ分かるだろ? 椚下さんも早乙女さんも、契約者じゃないけど、佐倉にとっては運命の相手じゃん」
にやにやと北瀬が優しくからかう調子を含ませれば、佐倉は居心地悪そうに眉根を寄せた。
「いやまぁ、そうなんだけどよぉ・・・・・・」
歯切れ悪く呻いて、またコーヒーの缶をごくりと傾ける。
「いまさら気まずげにするな。課内の者ならたいてい知ってる馴れ初め話だ」
「早乙女さん、酔うと必ず話すからねぇ」
「べっつにいいんだけどよぉ、やっぱそこは恥ずかしんだよ。ったく早乙女さんは強くもねぇのにがばがば飲むから~」
がしがしと気恥ずかしさを誤魔化すように、佐倉は頭をかきやった。
早乙女が酔って涙もろくなると語り始める、佐倉との出会いの話は、酒の席のたびにほぼ毎回披露されている。もはや非違検察課捜査四係の名物だ。
まず話は、椚下と早乙女が交通係でバディを組んでいた時に遡る。そこで暴走族の対応をしていた彼らが、当時荒れに荒れていた佐倉と出会うところから、涙ながらに語られるのだ。
家庭環境にも、〈あやかし〉であるということにも振り回されていた佐倉は、行き場のない不満と憤りを社会の規範や他人にぶつけることで発散していた。典型的な非行の道を転がり落ち、行きつく先は少年院か暴力組織の末端構成員か、といった状況だったらしい。それを〈あやかし〉の少年がいると応援を頼まれ、彼の所属していた暴走族の一団を頻繁に取締り、時に逮捕、補導していた椚下は、たいへん気にかけていたそうだ。
「そんなある時、ぼろぼろの佐倉が雨降る路地裏で発見されたのであった」
「んな言い方、早乙女さんは一度もしてねぇだろうが。なんなんだそのナレータ―調は」
「ご遺体があがったみたいにも聞こえるな」
「殺すんじゃねぇよ、那世」
その手の組織の者ですら怖じさせる鋭い一瞥も、この同僚たち相手には効果がないようだ。金糸が紡ぐ軽やかな声は、笑みを含んだままだった。
「でも、間違いではないじゃん?」
「まぁ、ボコられたのはその通りだかんな・・・・・・」
ごにょごにょと佐倉は濁しながら頷く。
その時はまだ契約者を持たなかった佐倉は、身体の倦怠感を虚勢で押し殺し、暴れまわっていたのだ。高慢で、威圧的で、すべてが敵だった。それは属していた暴走族仲間へも根底では抱いていた感情で、それゆえ身内で摩擦が起きたのだ。結果、内輪で制裁がくだされた。それが、その日だった。
最悪の日だった。すべてがどうでもよく、痛みに身体が動かないのをいいことに、ただ雨に打たれていた。そこへ、椚下と早乙女が現れたのだ。
その時の会話は、自暴自棄の気だるさで適当に返してしまったせいで、悔しいことによく覚えていない。けれど、椚下に傘を差しかけられた。そして、警察も病院も嫌だとごねれば、彼の家に連れていかれたのだ。
「そこでいい匂いがしたんだろ? カレーだっけ? シチューだっけ?」
「ありゃ肉じゃがだよ、たぶんな」
歌うような声はあれほどいつもは軽薄に踊るくせに、こういう時に限って誠実な音色を奏でる。そこが癪に触って、だからこそ佐倉は、北瀬という男が嫌いではない。
(遠く望んでたいつかの出会いの香りが、食いものの匂いだったなんて、とんだ笑い種だとあの時は思ったもんだが――)
他の場所でこの話をしたのなら、どう受け止められるかは分からないし、知らない。いっそどうでもいい。だがこの課内でそれを無下に扱う者は、ひとりとしていなかった。それが幸福だと、いまの佐倉は素直に受け止められる。
「あれは、憧れてた匂いだったからな・・・・・・」
幼い頃から夢見ていた。家の戸を開ければ、家族と美味しい食事の香りが暖かく出迎えてくれる、その一瞬を。叶わないからこそ、焦がれていた。すべてが放棄された真っ暗で薄汚れた家に帰る道すがら、他所から漂う夕食の香りが、どれほど――どれほど羨ましかったことだろう。
「奥さんはオレからアップルパイの匂いがしたってさ。柄じゃねぇよなぁ」
思い出して、凶相にいとおしく笑みを刻む。その口元に、八重歯が嬉しげにのぞいていた。
佐倉が人生で初めて出会った契約適合者は、椚下の妻だった。その日、彼が感じた香りは、夕暮れ時に漂う、佐倉がいつも求めていた、暖かな家族の象徴の香りだった。早乙女の話では、ここでいつも、「でもその日の椚下家の夕飯はスパゲッティだった」と続くのだ。佐倉を惹きつけた肉じゃがの香りは、その後、日を改めて、匂いの話を聞いた契約者が作ってくれたらしい。
それから少しずつ、少しずつ、佐倉と椚下夫妻の交流が始まった。早乙女は自身の活躍についてはいつも触れないが、佐倉によれば、彼もなにやかやと気にかけて、不器用ながらもたくさん世話を焼いてくれたそうだ。
そうして鬱屈とした暴力の底から引き上げられて、彼らの背を目指し、佐倉は警察官となったのだ。
「取り締まられる側に堕ちそうだった不良少年が、いまや当時助けてくれた警察官に憧れて、自分が取り締まる側。しかも同部署で活躍中とあっては・・・・・・警察官が好む話として出来過ぎているぐらいだな」
「盛ってるみたいに言うなよ。悪いが全部事実だよ」
しみじみとこぼす那世に、照れ隠しかつっけんどんに佐倉が返す。それに「でもさぁ」と、北瀬がふいに不満な調子で横やりをいれた。
「ずるいなぁ、とは思うんだよね。俺としては。中学高校大学とまじめ~に通って、成績優秀で、素行もよろしくやってきたのに、なんかそのせいで逆にすげぇ当たり強いことあるじゃん? 『次長の息子だろ、コネだな』とか、『実力ねぇだろ』とか、『顔だけの優男』とか。一度ワルやってる奴が更生したのは偉いけど、俺も偉い! せめて同じ扱いをしてほしい!」
「いや、すっげぇまっとうなこと言ってんのに、てめぇだと同情が微塵もわかねぇ。なんでだろうな」
「真面目に素行よろしく、そうしたコメントを残した奴らを脅迫まじりに黙らせてきた前科があるからだろ」
「これだよ! 冷たい!」
不平を取り合ってくれない同僚たちに、北瀬はおおげさに叫んで天を仰いだ。しかし、那世の発言に否定はないらしい。
そこへ、ノックの音とともに、パープルピンクの毛むくじゃらが彼らの視界に鮮やかに飛び込んできた。
「お疲れです。こっちで確認取れた内容と、新たに新宿署から来た被害者の情報、紙媒体の方がよさそうなんで、印刷してきました」
抱きしめたアレクサンドリアの後ろから、ぬっと藤間が顔を出して、手にした紙を北瀬に渡す。「ありがと~」と受け取る北瀬の脇に目をやって、彼女はそのままはちょこんと、アレクサンドリアごと頭を下げた。
「佐倉さんも忙しいのに、こっちのヘルプありがとうございます」
「いやオレらもこいつら借りてるし、成り行きでな。しかしそいつ、久しぶりに見たけど、相変わらずでけぇぬいぐるみだな。なんか宮前が、それのちっこいやつ持ってた気がすっけど」
「私があげました。同期なんで」
佐倉の出した名前に、藤間がかすか表情を嬉しげに染める。抱きしめられたアレクサンドリアも、心なしか満足そうにもふりと揺れた。
「宮前さんって、藤間ちゃんと同じ情報捜査官枠の生安の子だよね。那世のパフェ友」
「んだよ、パフェ友って・・・・・・」
耳慣れぬ言葉にうろんげに細められた鋭い双眸に、北瀬に代わって那世が口を開いた。
「宮前が女子中高生を装って、複数のSNSアカウントを管理しているのは知ってるだろ」
「知ってるっつうか、今回の発端、それのおかげだろ? 宮前のアカウントの繋がりで、売春と麻薬の絡みが浮上して、珍しくこっちから新宿署に合同捜査申し入れたわけなんだからよ」
「その女子高生アカウントにあげるためのパフェとかケーキの写真を撮りに行く時に、たいてい那世がつきあってんだよ」
「んでだよ」
「宮前、甘いもの苦手なんですよ。私もチョコと生クリームが得意じゃないんで、那世さん紹介したんです」
佐倉の視線の先で、平然とした無表情がごくりとココアを飲み干していた。
捜査情報のひとつでもあったので、佐倉ももちろん、宮前が運用しているアカウントは幾度となく目にしている。そのたびに、可愛いとおしゃれを砂糖の魔法で混ぜ合わせて、可憐と華やかさで飾り立てたような菓子の写真が、いくつも飛び込んできた。それを、いま目の前にいる菓子の柔らかさと甘さを凍てつかせそうな男が平らげていたという。
「新事実にびっくりじゃねぇかよ。え? あのいくつもあった友達とスイーツ食べた系の写真は、全部てめぇだったの? どのアカウントも?」
「まあ、だいたい全部そうだな」
「撮影の後はスタッフが美味しくいただきましたってやつだね」
「宮前はどちらかというと、甘い物より、蛸わさとか酒盗とかいくタイプですから」
「甘味よりつまみ、か」
「お前、よくそれを恥ずかしげもなく口にしようと思えたな」
「いや、納得は納得なんだけどよぉ・・・・・・」
ひどく益体もない会話をしているバディどもは差し置いて、佐倉は唸った。那世が気づけば糖分を摂取しているのは当然知っていたし、宮前が甘いものに騒ぐ性質でないのも想像できた。確かに彼女には酒のつまみの方が似合うだろう。そう佐倉は、先日見かけた、眠気覚ましに凛々しくスルメを齧っていた宮前を思い出した。
「でも、わざわざ他の係に頼まなくても、バディの城田さんとかいるだろ?」
城田は佐倉たちと同じ〈あやかし〉捜査官でもある、宮前の先輩刑事だ。ふんわりとした長い金髪と垂れた目元が優しい印象を与える女性で、どこかの金糸頭と違って、言動も見た目を裏切らない。ずいぶんと前になるが、佐倉は彼女が、おっとりとシュークリームを齧っている姿を見かけたことがあった。
「城田さんひとりでは食べきれないからだろうな。撮り溜めして使うからと、複数のメニューを頼むのが常だ」
「てめぇは食べきるんだな・・・・・・」
そのすらりと引き締まった体躯のどこに、大量の糖分が消えているというのだろうか。佐倉はまじまじと、謎に満ちた隣の男を、いっそ気持ち悪いとばかりに見つめてやった。
「それに、城田さんはお子さんがいらっしゃいますから。宮前としては、時間外の活動にはあまりお付き合いさせたくないらしいですよ」
「あ~、言いそうだわ、あいつ」
藤間の言葉に佐倉は遠い目を虚空に投げた。
佐倉は宮前とは別部署の後輩以上の交流はなく、特段親しいわけではない。だが、彼女が相棒の城田をいたく慕っていることは、よく知っていた。那世に近い、冷静を通り越して冷淡に近づきそうな無の表情が、城田を前にした時だけ溢れ出る尊敬と憧れの念で輝くのをたびたび見かけているからだ。
「つか、あいつ城田さん好きすぎだろ。今回、脅されたぞ、オレ」
「え? なになに? すっごい聞きたい」
「身を乗り出してくんじゃねぇよ、うざってぇ!」
とたんに嬉々として擦り寄ってきた青い瞳を乱雑に押し戻して、佐倉は溜息をついた。
「城田さん、今回の件で一番やばいところまで潜入捜査入ってて、オレがそれをヘルプしてるだろ?」
「宮前のアカウントの女子高生になってるんでしたっけ?」
「そうそう。俺たち応援はそれ以上の詳細は知らないけど、幹部クラス近くまで接触してるとか。さすがだよね」
「お前と城田さんの異能の特徴を考えたら今回組むのは納得だが、それでなんで脅されてるんだ?」
城田の異能は己の肉体年齢を操作する。前後二十年までなら自由自在だ。実際に十八歳になれる上、人好きのする容貌と高い社交性を持つため、まず捜査官とばれることはなく、懐に張り込むのも上手い。
そして佐倉の異能もまた、別の方向で密偵向きなのだ。制約はあれど、離れた場所のことをそこにいるかのように知ることが出来る。そのため、今回佐倉はその能力で、相手の深部まで入り込んでいる城田の状況確認を日々行っているのだ。
「城田さんの安否はわりとオレにかかってんだろ? なもんだから、要約すると、『城田さんになにかあったらすぐに教えろ。城田さんを無事に旦那さんと家族の元に戻せなかったら、情報網を操作して社会的に殺すことも辞さない』的な脅しを受けたんだよ」
「こっわ。本気のじゃん」
「宮前には実行できる腕があります」
真顔の北瀬に対し、なぜか誇らしげに藤間は頷く。佐倉のぱっと見た印象では、藤間と宮前は仲良くなりようのない人種同士に思えていたが、実際はどうやら違うらしい。
「旦那さんは、確か城田さんの契約者でもあったな」
「しかも元警察官でバディでしょ。お子さんが産まれて家事育児に専念するって退職されたけど、こっちの事情いろいろ分かってくれてるから、城田さんの潜入捜査も協力的に支えてくれてるって聞いたよ」
「ああ。つまり、家族は危険を承知でこっちを信頼してくれてるっつうことだ。まあ、だから、宮前に脅されるまでもなく、オレもそいつには応えてぇよ。九歳の子どもから、母親奪いたくねぇしな」
無意識に、佐倉は深く腹の底に込めて決意を誓った。それにふわりと、北瀬は頼もしげに口元に笑みを灯す。
しかし次には、軽薄な声音は勢いよく藤間を振り返っていた。
「藤間ちゃん、いまの佐倉の発言、宮前さんに五割り増しぐらいで伝えといて。失敗したらお手間は取らせず腹切りますっつてたぐらいに」
「承知しました」
「ばっ! 宮前、そういうの真に受けそうだろ! 藤間も承知すんな!」
「お疲れ~、藤間ちゃん! 資料ありがとう~!」
佐倉が藤間に黙秘を懇願する前に、北瀬はふたりの間に割っていって彼女の背を押した。そんな彼らを脇目にすらかけず、静かに調書をめくる那世も相変わらずで、藤間はその賑やかさにほんのりとはにかんだ。やれやれとばかりにアレクサンドリアのぎょろ目が揺れる。
皆さんも適当に上がってください、と残して、家路につくため、藤間はその場を辞していった。
その背とパープルピンクのかたまりを見送る視線を隣に滑らせて、佐倉はにこにこと手を振る男を睨む。
「てめぇは人を易々と売るな」
「別に佐倉、しくじらないでしょ?」
「それはそれ、これはこれだよ!」
涼しい顔で雑に信頼を示す男にがなりながら、佐倉は浮かした腰をどかりと椅子に沈め直した。
「で、実際のところはどうなんだ? 合同捜査の進展は」
「細かくはいえねぇけど順調だよ。とはいえ、城田さんの潜入も長いからな。きな臭くならねぇうちにって、急いじゃいる。けどたぶんもうじき、令状も取れるし、いまの状態でいきゃぁ立件でも勝てんだろ」
「子どもを食い物にする悪党をぶち込めるわけか。いいね。俄然やる気が出る。本来業務と応援の二重生活の疲れも吹き飛ぶよ」
那世の問いかけに佐倉が答えれば、北瀬が薄く形のいい唇に、にんまりと鋭い笑みを刻んだ。滲む凄みさえなければ美しいだけだろうに、いまの表情なら捜四でも十分通用しそうだ。そんな妙な感嘆まじりに、佐倉は北瀬へ投げかけた。
「お前、これ割と前のめりに気合入ってるよな」
「俺、子どもの頃にこの手の連中に誘拐されたことあってさ。だから、子ども狙いの犯罪は断然燃える。がんがん追い詰めたくなる」
「――さらっとすげぇ過去ぶち込み過ぎじゃねぇか?」
日常の調子でするりと滑り込ませられた非日常に、思わず佐倉の反応は一瞬遅れた。昨日の夕飯の報告ではないのだ。聞く方にも覚悟の準備というものがある。
「別に話す機会がなかっただけで、隠してるわけじゃないし。チームのみんなは知ってるしさ」
確かに那世に動じた様子はない。だが誘拐と聞けば凄惨な内容などいくらでも思い浮かぶのがこの職業だ。佐倉の人相の悪い顔には、このまま軽い調子で流していいものかとの戸惑いが、分かりやすく表れていた。
その人の良さに、北瀬はふっと、わざとらしく小馬鹿にした哀れみの笑みを向ける。
「過去が赤裸々にされてる佐倉に比べたら、まあ、俺のなんて知られてない方だけど」
「あれは早乙女さんの酒癖のせいだろうが!」
「話の内容が戻ってる。戻るなら捜査資料に戻れ」
苛立ちを誘う表情に思わず佐倉が怒鳴って返せば、そばから那世が次の助け舟を淡々と差し挟んでくれた。「佐倉は下手に人情に篤いからなぁ」と、相変わらず褒めているのか貶しているのか分からない軽薄さが歌いながら、相棒の言葉どおり藤間から受け取った資料をめくる。そうなればもう、変な憚りを引きずるのも無粋だろう。佐倉も同じく、資料に目を落とした。
「へぇ、被害者は瀬津川組の組織員だったのか。で、銃は三十八口径。弾丸、貫通してなかったのは良かったけど、データベースで線条痕に一致はなし、ね」
「だがナイフの型が古い。藤間の調べによると、七十六年イタリア製か。さっき過去の資料で見たな。容疑者が瀬津川組の奴だった」
「組が同時期に輸入したもんの残りなら、瀬津川組の内部抗争か? あんまそういう話は入って来てねぇけどな」
「こいつ末端構成員みたいだし、下っ端同士の小競り合いが暴走しちゃった感じじゃない?」
「まだこれだけで内部と決まったわけじゃない。敵対組織の線での検討も引き続き忘れるな」
一応釘をさす那世に、分かってるよ、と笑ってコーヒー缶を傾けながら、北瀬は広げていた過去の調書たちにも手を伸ばした。
「処刑スタイルの殺しの場合、動機を見ると敵対関係の場合は利権絡みがほとんどだね。内部の場合もだいたいは金目のいざこざか」
「あとは痴情のもつれだな。兄貴分の愛人を寝取ったような案件がいくつかあった」
「金と愛が生む怨恨はだいたい人が死ぬねぇ」
からかうようにぼやくわりには、長い指先は憂鬱げに頬に流れかかる金糸を掬って、耳元へとかけた。見るとはなしに視線が追う、絵になる仕草だ。
「あとは――この手の組織の場合にはそいつに加えてもうひとつ、よくある動機があんな。義理人情」
「筋を通さないってやつね。嫌われる」
「なら、こいつはわりと嫌われていそうだな。麻薬使用、窃盗、暴行で何回か喰らってるが、薬は売り物だろうし、暴行相手は一般人だ」
「厄介者っつうわけか。おーおー、クズだぞ、こいつ。暴行相手、みんな女性。おまけにひとり未成年」
「自分より弱い相手に暴力ふるうクソ野郎か。多少やる気が削がれるけど・・・・・・ま、それでも、殺されていい理由にしてはならないね」
口悪く罵ったわりに、現場写真を見つめる青い眼差しには、冷静な哀悼があった。腫れあがった顔、割られた膝の皿――ほかにも渡された資料の検死報告からは、死の間際に相当な苦しみがあったことがうかがえる。
「善人だろうが悪人だろうが、人が殺されてはいけない。それがどれだけ、腹立つ理不尽であってもさ。そこ守んないと・・・・・・大事なものから守れなくなるから」
ひとりごちるような澄んだ音色が、ゆるりと尾を引き、揺蕩う静謐を生んだ。そうした端々で、彼は奥底の芯の強さをのぞかせる。辛きに易く心を鈍らせず、かといって、突きつけられる悲嘆に膝を折りもしない。
だからやはり、この見目ばかりは儚げな男は、刑事に向いているのだろう。
声音に引き寄せられて盗み見た先、線の細い横顔に佐倉がそんなことを思った、直後。
ばちんと紙を弾いた音がひそやかな思考の渦をかき消した。静けさを生み落としたのと同じ声の主が、被害者の写真にでこぴんを食らわせたのだ。引き上げられた口角が、いつものふてぶてしい調子に戻って言う。
「どんなクソ野郎でも被害者なら、ちゃんとその犯人捕まえて、ぶち込んでやんないとね」
「――もう少し、藤間の資料と過去の資料、照らし合わせて洗うか」
涼やかな低い声が、元よりの勝手知ったる調子で答える。その心地よさに、ふわりと青い切れ長の瞳は嬉しげな色をさざめかせた。
「あとちょっとだけね。明日も応援だしさ。ベッドでの睡眠は欲しい。佐倉はどうする?」
「とりあえず、今日はつきあってやるよ」
これで帰れるかよ、とでも言いたげに、ぶっきらぼうな面倒見のよさが返ってくれば、よし、と北瀬は意気込んだ。
「んじゃ、とりあえず、誰が夜食買ってくるか腕相撲で決めよう」
「汚ねぇ! おい、那世! こいつ堂々と自分の有利な勝負で勝ちを取りにきやがったぞ!」
「大丈夫、佐倉もそこそこ馬鹿力だよ」
すでに勝者の笑みで、ぽんと北瀬が幅広い肩を叩く。それを佐倉は力いっぱいに振り払った。
「てめえの馬鹿力は格がちげぇんだよ! 那世、いますぐてめぇの異能切れ」
「任せろ」
「あ、裏切り者! 分かったよ! じゃんけん! 公正にじゃんけんにしよ!」
切り札を切られては仕方ない。試合内容変更の申請を余儀なくされて北瀬は叫んだ。気合の入った掛け声が、いくどか熾烈に繰り返され、そして――北瀬の握り拳は、ふたつの大きく広がった手のひらに敗北を期した。
「え? なにこれ、めちゃくちゃ悔しい」
「不正を働こうとした罰だな」
「おら、とっとと買いに走れ、負け犬」
「むっかつく!」
にべもない相棒と、ひらひら容赦なく追い払うように振られる佐倉の勝利の手のひらに、怒りに身悶えしながら舌打ち混じりに北瀬は尋ねた。
「で? ご注文はいかがしますか?」
「オレ、あの黄色いひよこの鶏ガララーメンな。温玉つけといてくれ」
「俺はいつものカップ麺でいい。あと抹茶白玉生どら焼き」
「ひと手間増やす~。君らカップ麺だけで満足しといてよ」
どうせ買いに行くなら同じだろうに、不本意そうに唇を尖らせて、北瀬は財布片手に小部屋をあとにした。それだけで、急に静けさが降ってきたようになるのだから不思議なものだ。
「・・・・・・あいつ、存在がうるせぇんだな」
「いまさらの気づきか?」
不意な納得をもらした佐倉に、平淡な声音が、それでも呆れた様子をのぞかせて返す。
「大学時代からあれが隣にいりゃ、そりゃ、逆に無口になんのも分かる気がするわ」
「別に、それはあいつのせいというわけでもないがな」
低音は変わらず淡々としており、黒い怜悧な瞳は凍てついた赴きのまま表情を灯さない。雰囲気と言動を見るだけならば、彼は北瀬とはことごとく正反対だ。だが、それでも――
「那世、お前さ・・・・・・警察になる決め手ってなんだったんだ?」
当たり前の答えを直接聞きたい気分に駆られて、佐倉は唇を引き上げた。ちらっと投げられた面倒くさそうな視線が、分かりきったことを、と、言外に溜息をつく。
「言っただろ、出会ったのが運の尽きだ」
静寂を踏み荒らす、春の香りを纏ったひねくれ者。その騒々しさではぐらかす奥底のしなやかな正義に、抗いようがなかったのだ。
「あいつに誘われたから。――他にあるか?」
買い出しに席を外した春の嵐が戻るまで。束の間の夜の静謐に、存外満足げな響きは溶けて消えた。