4話
虫の皇討伐から約10時間後。
「天使君、天使君起きたまえ」
「大丈夫です……起きてま、す……」
僕は気がつけば微睡みの中馬車に揺られていた。
港が魔物に襲われる、と聞いて急ぎ馬車にて向かっていたのだが、向かっている途中でその街は壊滅。
街を襲った魔物が次に向かった方角の港町へ先回りするために、馬車は少し遠出をする事となっていた。
「そろそろ起きたまえ天使君、目的地が見えてきたよ」
「でも、目的地は120㎞先……」
「もうすぐそこだよ、君、ほとんど寝て過ごしてたねぇ」
「……え!? そんなに寝てました!?」
「そりゃもうぐっすり、ほら、起きて外を見てみたらどうだい?」
雀さんの声で体を起こすと、潮風の匂いがして目が冴えてきた。
どうも海の近くまで馬車が到達したようだ。
目的地、悪魔が向かっているという港町の近くに。
「見たまえ、この国最大の港、貿易の要、城塞都市エピダムノスだ」
雀さんに促され座席を飛び出し、御者席の横から景色を望む。
小高い丘を越えた馬車の正面には、なだらかな下り坂とその終点にそびえたつ巨大な城壁に囲まれた街が見えていた。
そしてさらにその街の向こうには青い水平線がどこまでもどこまでも広がっている。
海、初めて見る景色だ。
そして目の前に佇む大きな街は、一体どんな街なんだろう……
「んぁ……港、ついた……?」
「!?」
未知の街へと思いを馳せていると、突如聞き慣れない陰気な声が僕の近くから湧いて出た。
発言者を探すと僕の座席のすぐ下にぐったりと横たわる狼の姿が……
「うわ!? 何、誰、狼!? いつの間に!?」
「落ち着け天使君、ウィルミナちゃんだよ」
「人狼さん? 完全に狼になってるじゃないですか!?」
「この子こっちが素なんだよ、人と狼で狼の血の方が濃いらしい、んでもって潮風が苦手らしい」
「……じゃあなんでこの人呼んだんです?」
「恩赦欲しいから今回の仕事も付いてく、絶対行く、って無理矢理付いてきた」
「あぁなるほど……自業自得ですね」
「うん、ほっといていいよ」
狼さんを向かいの座席に乗せ直し、毛布をかぶせると馬車が大きくがたりと揺れた。
外を見ると下り坂が終わりいよいよ大きな城門が間近に見えてきていた。
到着まであと数分とかからないだろう。
「あぁところで天使君、お腹の具合はどうだね?」
「え、お腹? 大丈夫ですけどなんで急に?」
「大量の水を窓で運んだと聞いたからね、また空腹で死にかけてるかと思ってたんだ、君の能力は使うと使うほどお腹が減るんだろう?」
「まあそうですけど……? 水を運ぶと何が起こるんです?」
「水って結構重いんだよ」
「水が、重い?」
頭の中には、水1ℓあたり1㎏の重さ、という知識はある。
だが、それと水が重いという認識が繋がらない。
タライや桶で掬えるような水が重い、とは、どういう意味だろう?
何か重要な質問なんだろうか?
「まあ大丈夫ならいいさ」
「え、あ、はい……」
「しかし、そうか、重いものを沢山運ぶより空間を裂く回数の多い方が負担がかかる、と、考えてみればそれもそうか」
「はぁ……」
雀さんはその後も何やら1人でぶつぶつとつぶやいている。僕への説明は当然ない。
この荒野で暮らすと目の前の人への説明を放り投げる癖でもついてしまうんだろうか。
そんなことを考えているとやがて馬車が止まる。
「目的地だ、着いたぞ」
御者席から鉄仮面さんの声が届く。
説明のあった目的地、貿易の要、城塞都市へと到着したようだ。
「そしたら荷物おろします?」
「いや、しばらく待つ必要が……」
「長旅お疲れさま、要請に応じて貰い感謝するわ」
「ヒィィ!? 殺人シスター!? なんで!?」
城塞都市に着いて早々、僕らを出迎えたのは先日僕を殺そうとしたシスター、ジェミネさんだ。
「なんで? って言われても、今回は私達から手伝ってほしいって要請したもの」
「……そうなんです?」
「うん、なにせここら一帯の食糧事情に関わるからね、荒野の集落からも応援を寄越す事にしたのさ」
「食糧事情……?」
そういえばここに来る前「このままだとこの国一帯の食料が無くなる」と話していた。
しかし港町一つ襲われる事と国全体の食料、これがどう繋がるのだろうか。
「あぁそういえば君には説明し忘れてたか」
「よかった、そこは説明あるんですね」
「まず第一に覚えておいてほしい事として、我々が今立っているこのルバニアの国は農耕には適していない土地なんだ」
「気候とかそういうアレですか?」
「一番の理由は魔物の活動が活発な事かな」
「畑なんて作った日には畑に関わる時間より魔物と戦う時間のほうがずっとずっと長くなるでしょうね」
なるほど、畑作業中の農家なんて魔物からしたら餌が自分から城壁や集落の外に出て来てくれてるようなものだ。
真っ先に狙われるだろう。
「まぁそういった理由があるから大規模な耕作地は作りづらく、特に稲や麦は他国からの輸入で大部分を賄ってるんだ」
「輸入、ですか……」
「だからこの街が壊滅してしまうと連鎖的に国の食糧事情が一気に傾いてしまう」
「でも港といっても他にもあるんじゃ?」
「うん、あったよ」
「あった……? 過去形?」
「ここ以外にも3つ大きな港があったよ、でも昨日一昨日で3つとも滅ぼされた」
「2日で3つも……!」
シスターがわざわざ助力をお願いした、という意味がよくわかった。
これは非常時だ。
「そういう事態だから、検問なんかも敷いてるけど、大人しく協力して頂戴ね?」
「検問?」
シスターに誘導され馬車を降り、城塞都市の城門へと視線を向ける。
本来馬車ごと通過できるであろう大きな城門は締め切られており、代わりに小さな通用口と即席の丸太小屋が作られていた。
あれが検問か。
「なんでこんなものを?」
「襲われた3つの港を調査したんだけど、共通の疑問点として外壁付近での戦闘跡がほとんどみられなかった、というのがあるの」
「……つまり?」
「城壁を外から破られ侵入されたのではなく、なんらかの手段で内側から門を開け放ち外の魔物を招き入れた、その可能性が高いという事よ」
「なるほど、だから検問を」
シスターの話を聞いて、潮風でダウンしてしまっている人狼さんを横目で見る。
普段は人間の姿をしている狼の事を。
人狼さんにできているのだから、普通の魔物でもこれと同じ様な事ができて不思議ではない。
「ベルナドットやウィルちゃんもこの検問を通って貰うから、街の中に入るには時間がかかるわ」
「あ、じゃあ僕はしばらく馬車の中で眠……」
「君は例外、私と一緒に来てもらうわ」
「えぇ!? なんで!?」
「昨日渡したでしょ審問官の香料を、アレが有れば検問は不要よ」
確かに渡された。紫の小瓶を。
審問官の仲間と認めた証という名目で。
だが、これはどう考えても僕から雀さんや鉄仮面さんを分断する意図を感じる!
「な、何を企んでいるんですか……」
「あらあら企むだなんて人聞きが悪いわ、ただ私は面倒な手続きはカットしたほうがいいかなって」
「だったら小瓶全員分用意したっていいじゃないですか」
「全員分ってなるとウィルちゃんにも渡さなきゃいけなくなるでしょ」
「それはまぁ……どんな悪用されるか、です、ね」
人狼さんは食い逃げの罪から逃れるために、他人と共同で得た手柄を独り占めするような人だ。
そんな人に小瓶を渡したら何をしでかすかわからない。
そこは理解できる、理解できるが!
「そういう事だから大将、ベルナドット、この子しばらく借りてくわね」
「え、あ、待っ」
「まぁ安心したまえ天使君、シスタージェミネもこんな非常時になにか悪事を企むほど非常識じゃないよ」
「じゃ、そっちはよろしく」
それだけ言うとシスターは僕を小脇に抱え馬車を飛び出し、高い高い城壁の下端に魔法も使わず手をかけた。
そしてそのまま、高さ30mはあろう城壁をその身一つで駆け上っていく!
速い、高い、とにかく怖い!!
「もうすでに非常識極まるんですけどぉ!!」
城壁を越え、空から見た風光明媚な城塞都市の街並みは、綺麗とか美しいとかよりも先に怖いという印象を僕に強く強く植え付けた。
◆
よく晴れた昼下がり。
城塞都市エピダムノスの街並みは、貿易の要と言われるだけあり異国情緒溢れる商店が多く見られた。
何に使うかわからない木彫りの置物。
どう使うかわからない曲がった形状の刀剣。
これは食べ物なのかと疑問符を浮かべる気持ち悪い形と臭いの果物。
目に移る景色すべてが新鮮味溢れていた。
きっと、こんな非常時でなければさぞ活気あふれて賑やかなのだろうが。
今日、商店の店員やすれ違う人々からは魔物に街が狙われているという焦燥感が見え隠れしていた。
街を訪れる人は多いのに宿屋は閑散として、露店を利用する人は多いのに料理屋や酒場で食事をする人は全くいない。
誰も腰を落ち着けるような事はせず、いつでも逃げられるようにしておきたい、という意図をすれ違う人々全員から感じた。
この街がやがて戦場になる事を皆が予見しているようであった。
「……」
「今は準備期間みたいなものだからそんな気を張らなくていいわ、本番は夕方よ」
「いや、気張ってるとかじゃなくて貴女を不審に……え、夕方? 何でわかるんです?」
「船が到着するのよ、それもとびきり大型の船が」
「大型船!」
「街を滅ぼす要因となった魔物が紛れてしまうとしたらまずそこでしょう、それ以外の小型船や陸路で来たとしても検問で十分締め出せるもの」
「なるほど」
「だから今は、街の探索をして君がすぐ窓を開ける場所を増やしておきましょう、ね?」
どうやら僕だけ検問をスキップして先に街の中へ入れたのには、ちゃんとした理由があったようだ。
こんな非常時に悪巧みするほど非常識ではない、そんな言葉がようやく腑に落ちた。
納得とともにシスターの後をついて城塞都市を巡る。
城門から街に入ってすぐの場所は衛兵の詰め所や住宅、訓練場等の背の低い建物が多かった。おかげで視界も通りやすい。
一通り見回り情景を頭に収めた後、街の中心部へと歩みを進める。
衛兵の住宅地を過ぎ、大通りに一歩足を踏み入れると世界が一変した。
露天商人の客引きの呼び声、異国の言葉で歌う踊り子、人混みを掻き分け進む馬車とそれに怒鳴る通行人。
雑踏と呼ぶにふさわしい混沌が目の前に繰り広げられていた。
「そういえば天使君はこういう場所は初めてだったかしら」
そう言うシスターの両肩にはどこから買ったのか大量の食料品の入った袋がぶら下がっていた。
いつですか、いつ買ったんですかそれ?
「あら? もしかして人混みは苦手?」
「いやそういうのでは無いんですが」
そんな会話をしてる間に気がつけばシスターの持つ買い物荷物が倍に増えていた。
何をしたらそうなるんだ、気になってそれどころじゃない!
「あぁもしかしてお金を貰ってきてなかったとか? それなら私が代わりに経費で立て替えて……」
「おお? シスタージェミネじゃねえか、久しぶりだなぁ!」
もはやサンタクロースじみた巨大な袋となった買い物荷物を肩に下げたシスター。
その言葉を遮り商人の男が一人話しかけてきた。
知り合いだろうか。そしてシスターの買い物袋はいったいどこまで大きくなるのか。
「どうだいシスター! 再開祝いに今夜一発、な?」
「今日はあいにく仕事中よ、あなたも知ってるんでしょう? 死にたくなければ退避準備しときなさい」
「あぁなんだ、やっぱり噂は本当だったか……船の荷受け取ったらさっさと王都にでも行くか」
「そうした方がこっちとしても助かるわ」
「じゃあそうさせてもらうよ、またな」
何やら暗号めいた会話を少しだけしたあと、その商人らしき人物はさっさとどこかへ行ってしまった。
急に表れて急に消えた。
なんだったんだあの人は。
それに、会話の中に気になることも。
「今日は……?」
そのせいで、思わずデリカシーのないことを口にしてしまった。
「あら意外?」
「あ、いや、その……すいません、シスターという職業と乖離してる気がして」
「シスターはシスターでも異端審問官よ、魔物滅殺のためならどんな事でもするって言ったでしょ? 情報収集も立派な戦いよ?」
そういえば必要なら媚びを売る、といったこともシスターは言っていた。
となると先程の人は有力な大物商人とかそういうやつなのか。
「どうせ増やすなら敵の数より味方の数、そうは思わない?」
「おぉ……」
これが大人の世界、なんだかカッコいい!
僕はこのシスターが自分を殺しに来たことなど忘れすっかり手の平を返してしまった。
「なるほど! じゃあシスターの背中にある大量の買い物も何か魔物討伐のために?」
「………………いえ、これはただの職権濫用よ、審問官の活動経費で趣味の買い物してるだけ」
「……」
僕は返した手の平をそっと伏せ直した。
開いた口が塞がらなかった。
禁欲主義とか教義としての清貧とかそういう問題の話ではない。
職権濫用、犯罪でしょうがそれは。
「あぁ勿論まったく役に立たないものなんて何一つ買ってないわよ? ただ、もしかしたら、使わない、かもしれない……ってだけで?」
「あっ、はい、そうですか」
「そうそうそれに買い物の過程で得られる商人との会話も重」
もはやシスターの言葉など耳に入らなかった。
以前聞いた、自分を殺しに来た時の言葉の調子とも、魔物討伐のための会話をしている時とも違う、少し焦ったような口調をシスターがしていたからだ。
あまり人との会話の経験を積んでいない僕でも分かる、嘘をついている。或いは誤魔化している。
「それに教会の求める清貧というのはあくまで信仰を妨げる欲望の増大を抑えるものであるから決してこのような行いを禁」
シスターはこちらの不審にも気づかずまだ述懐を続けている。
それといつの間にか近くの店から追加で大きな袋を貰っていた。
が、もう僕にはそれにツッコむほどの気力も無かった。
「そうそう、それと天使君にも最低限の防具がないとね! いくら魔物に埒外の腕力があるっていっても防具があるのとないのとじゃ生存率が違うから!」
「そうですね」
「いい? これは決して上層部に告げ口してほしくない賄賂とかそういうのじゃないから」
「アッハイ」
「それじゃあ少し寄り道して西の金物屋に行って、それから途中の火薬管理局にも」
「まだ買い物するんですか!?」
シスターの犯罪行為に半強制的に付き合わせられながら、街の中心部から海岸沿いへと向かう大通りを下っていく。
海に近づくほど出店や客引きの数が減り、代わりに大きな交易所らしき建物、そして船乗り向けの宿屋らしき背の高い建物が増えてきた。
やがて海岸の波の音が聞こえるほどの位置までくると、街の中でも一際大きな建物が嫌でも視界を占拠する。
「あれがエピダムノスの貨物集積所、船で持ってきた荷物をあそこに集めた後周囲にある競り場へと運ばれていくわ」
「一度あそこに集まって、各地に渡る……つまり」
「荷物に紛れてくるタイプならあそこに隔離しておくだけで対応できるでしょう、問題は……」
シスターの言葉を遮るように大きな音が鳴った。
鐘の音だ。
この街の事を知らない自分でも、沖を見るだけでその鐘の音の意味がわかった。
船だ。
この音は船の到来を告げる音なのだ。
4階建ての建物ほどある大型の木造帆船。
そしてその甲板には沿岸に向かって手を振るたくさんの船員達。
「あの水夫の中にもし魔物が紛れていたら……少々骨が折れそうね」
シスターの言葉からはすでに散財の述懐をした時の慌てふためく調子はすでに無かった。
傾きかけた陽光は鐘が一つなる毎に沈んでいき、空の色は青から赤へと少しずつ変わっていく。
夜がすぐそこまで迫っていた。
◆
夕闇の波止場は混乱の極みであった。
大型船が運んできた解決すべき問題が、山のように積み上げられていたのだ。
百人近い船員の身体検査、それによって発生する船の荷下ろしの遅れ、集積所に押し寄せて「さっさと荷を降ろせ!」と騒ぐ商人達への対応。
そして極めつけは大型船の責任者の体調不良だ。
貨物集積所から少し離れた、小高い丘の上の診療所。
長い船旅で精神錯乱を引き起こしたのであろうか。
大型船とその貨物の責任者たる船長が、ベットの上で暴れていた。
「セイレーンが、セイレーンが俺達を見てる! 助けてくれ! どこでもいい、遠くに俺を連れて行け!」
「天使君はそっちの腕抑えて!」
「わかりま、痛ったぁ!?」
錯乱する船長は船乗りの長だけあって力が強い。
医療従事者だけでは抑えきれず診療所から審問官に助力を求めてきたのだ。
結果、戦闘に心得のある人間4人がかりでおさえつけて、ようやく鎮静剤の注射に成功した。
しばらく押さえ続けていると少しづつ動きは緩慢になり。
5分ほど経過してようやく船長は眠りについた。
「これで、起きる頃には錯乱も落ち着いてるでしょう」
診療所の医師が一息つく。
船長を抑えていた僕や審問官の人達も緊張が解けほっと胸をなでおろす。
山積みになっていた問題の、とりわけ大きな課題が一つひとまず解決したのだ。
「……あれ? でも、もしかしてこの人が起きるまで積み荷はそのままですか?」
「持ち主の許可無しに勝手に売ったりはできないでしょ」
「それもそうですけど……副船長とかはいないんですか?」
「そっちは航海中の魔物との戦いで戦死したそうよ、他にも水夫長や航海長なんかも大怪我を負って治療中」
「まさか、責任者の代理になれそうな人を魔物が狙って、とか?」
「可能性も無くはない……ってところかしら、仮にそうだとしたら今回の魔物は相当頭が回るタイプかもね」
穏やかに寝息をたてて眠る船長を見下ろしながら、これから戦うことになるであろう大悪魔に思いを馳せる。
そして同時に、今貨物集積所に殺到してる商人達にも。
もし大悪魔がこの夜に襲ってきたらあの商人達は間違いなく巻き込まれるだろう。
……そんなことを考えていると。
「シスター! 船員達の血液検査、全員分終了しました!」
診療所のドアを開けて黒衣の審問官が一人病室に入ってきた。
「結果は?」
「全員シロです、魔物の素養は誰一人発現しませんでした」
「そう、なら船員は数時間の隔離の後で………………」
「うん? シスター、どうしたんですか?」
「……」
突然、部下への指示を止めてシスターは黙ってしまった。
いや、シスターだけではない。
部下の審問官すらも言葉を発さず、一斉に窓の外へ目を向けていた。
「急にどうしたんですか? みなさん、何を」
「見られてる」
「え……?」
「遠くから、何かが私達を覗いている」
診療所は海から離れ少し高い場所に位置していた。
日はすでに暮れ、月も雲に隠れる暗夜ではあったが。
沿岸部に設置された魔物侵入防止用の防壁とその向こうにある波止場、そして真っ暗な夜の海に浮かぶ大型船までもが、松明の明かりに照らされ病室の窓からでもよく見えていた。
街は明かりでよく照らされている。
しかし何かが侵入しているようには見えない。
「透明な何かがいるんですか? それとも松明で照らされてない所から?」
「わからない、ただ、船員達の隔離は夜が明けるまで継続したほうがよさそうね」
シスターは窓の外から視線を外さないまま、何やら考え込んでいた。
「セイレーンが見ている、か……蜘蛛ではない……?」
それはまるで、錯乱した船長の言葉を反芻するようで……
「あらいけない」
と、そこでシスターが急に声を上げた。
「どうしたんです」
「あそこ、見て」
窓の外に何かを見つけたようだ。
「船員が脱走してるわ」
「え? どこに?」
「ほらあそこ」
シスターの言葉を受け、僕も窓の外に目を凝らす。
よくよく街を眺めていると、たしかに水夫服の男が夜の街を駆けていた。
夜の闇の中、白い水夫服は松明の光を反射しよく目立っている。
「天使君、あなたの権能であそこまで繋げられる?」
「あれくらいの距離ならお茶の子さいさいです!」
「じゃあ、お願いね、あとこれはその報酬のパン」
言葉と共にパンを一斤渡された。
出処は昼間に買い込んでいた大きな袋の中。
「あの無駄遣い、役に立ったわね」
「……あっ、はい」
無駄遣いって断言してしまった、もう建前すら投げ捨ててる。
僕が気にする事では無いのだろうけど、無いのだろうけども。
それは越えちゃいけない最後の一線な気がする。
複雑な心境になりながら右手に力を籠め窓を繋いだ。
青い窓が繋いだ先は街の中心街と集積所を繋ぐ細い路地。
そして目の前には脱走した水夫。
激しく息を切らし、よだれを垂らしながら走るその姿はどう見ても異常だ。
「止まりなさいそこの水夫」
「ハァハァ……あっ? シスター?」
「指定の宿舎に戻りなさい、あの船の乗員は全員待機命令が出てい」
「お願いだ助けてくれ、歌が……聞こえるんだ……」
「は?」
逃げ出した水夫はすっかり正気を失っていた。
日が沈み月も雲に隠れる夜、エピダムノスの街はとうに静まり返り昼の喧騒はすでに遠い。
歌などどこからも……
「ちょっと、アナタ」
「ああ、歌が!! 歌がぁ!!!」
「ッ!?」
シスターの言葉を無視し突如叫び声を上げた水夫。
その頭部が2倍近くに膨らんだ。
そして膨らんだ頭部が真っ二つに裂け。
中からぬらついた魚鱗を纏う魔物が現れた!
松明の明かりに照らされた血塗りの魚鱗は、赤く悍ましい輝きを放つ。
魔物だ。
魔物が水夫の中に潜み、血液検査を掻い潜り、そして今その肉を食い破り現れたのだ!
水夫の猟奇的な死とともに、大悪魔との夜戦の火蓋が切って落とされた。