1話
目が覚めるとそこは小さな個室だった。
大人が十人ほど寝そべれば床が埋まってしまう程の狭い部屋。
壁は煉瓦造りで少し湿ってる、全体的にカビ臭く冷たい印象を受けた。
陰気な部屋だ、そして知らない部屋だ。
ここはどこだろう?
どうして僕はここにいるのだろう?
記憶を遡ってみるが何も思い出せない。
壁には宗教画なのか、羽の生えた幼児がラッパを吹きながら飛び回り中心に美しい女性が佇む絵が掲げられている。
そして部屋の中央にはテーブルが一つと椅子が二つ。
片方の椅子には自分が座り、残りの一つには。
「おや、目が覚めたかね」
背の高い人間の男性が座っていた。
上から下まで真っ黒い衣服に身を包んだ、眼鏡姿の初老の男性が座っていた。
「え、あの……どちら様で……?」
「待ちなさい、先に私の質問からだ、君は部外者で私はこの建物の偉い人なのだからね」
「偉い人……」
自分で言うんだ、自分のこと偉い人って。
「ここは女神様を奉る正教会の総本山だ、私は神官長を勤めている」
「教会……」
「そして君はこの教会の最深部、大事な大事な聖泉に侵入していた不審者だ、警戒すべき賊と言い変えてもいいね」
自称偉い人の目つきが鋭くなる。
眼鏡越しでもわかるほどこちらをキツく睨みつける。怖い。
「なので私は君に質問する、君は誰だ? どこから来て何の理由で聖泉に侵入した?」
目が覚めていきなりの質問攻め、状況に頭が追いつかない。
ただ、一つだけはっきりしている事は。
僕はこの神官長と名乗る自称偉い人の気を損ねる事をしてしまったらしい、という事だけ。
下手をしたらこの人に殺されてしまうかもしれない。
なぜ僕はここにいるのか、僕は誰なのか、速やかに答えなければならない。
……答えなければならない、のだけれど。
「わかりません」
何も思い出せなかった。
どうして自分がここに居るのか、ここに来る前は何をしていたのか、まったく記憶になかった。
自分の名前すらわからない!
「ほう?」
「あ、いや、あの……記憶がないんです、気づいたらここにいたんです」
「それを信じろと?」
自称偉い人はそう言うと懐から短剣を取り出し机に置いた。
マズい、脅されてる! 何とかしないと殺される!
何でも、何でもいいから過去の記憶を……
……
……
「あ」
「どうしたね?」
「一つだけ、覚えてる事が」
「それは?」
「神様に会いました、真っ暗な海で」
「そ、そうか……」
必死に脳内の情報を漁っていると記憶の一番底の方に一つ、星明りしかない真っ暗な海の風景があった。
「真っ暗な海で漂っていた僕の前に一人の女性が現れたんです」
「それが神様だと?」
「はい、その人が自分から"私は神だ"、と」
「へぇ……」
どうしよう、自称偉い人は僕の事を完全に頭のおかしな人を見る目で見てる!
しかしそれしか覚えてないのだ!
本当にそんな記憶が頭に残っているのだ!
「あ、あの、本当なんです、本当にこれしか覚えてなくて」
「ふむふむ、なるほど? では、君が出会った神様とはこんな姿だったかね?」
自称偉い人が壁にかけてあった宗教画を指さした。
絵に描かれているのは目も腕も足も2つの美しい女性。あるいは女神。
「違います、目は4つで腕は6本でした」
「化け物じゃないか」
「で、でも本当にそんな人と会ったんですよ!」
そしてその化け物じみた女性は自分に向かってこう言ったのだ。
「よしよしきちんと動いてるな天使10号! 早速お前に命令だ、ササッと地上へ行き我が与えた権能を用いてパパっと魔王を倒してこい! これは天上神からの至上命令である!」
「随分軽いね、ノリが」
「はい、凄い軽い調子でそう言われました、魔王を倒せと」
「それで後は気がついたら聖泉にいた、と」
「そうです、聖泉というかこの部屋ですけど、信じられないとは思いますが本当にそうなんです……」
正直僕がこの話を聞かされる立場であったならまず信じないと思う。
僕は神らしき者に作られた。
そしてその神からすごい力を与えられ魔王を倒せと命じられた。
それ以外の記憶はない。
……あまりにも馬鹿げた話だ。
だが、他に本当にこれしか覚えていない。
あまりに酷い記憶すぎて泣きたくなる。
自称偉い人の視線が痛い!
「あの、本当にこれしか覚えてないんです! どうか信じて」
「……ふむ、いいだろう」
「へ?」
「君の証言を信じていいだろう、半分だけね」
「は、半分?」
なんとも意味不明な回答が返ってきた。
信じる信じないに半分も五分もあるのか?
そもそもこんなすっ頓狂な話をまともに受け入れているのか?
「実はね、この聖泉には君と同じように不可思議な侵入をした者が過去9人存在している、つまり君で10人目だ」
こんな馬鹿げた事例に前例があったんだ!?
「そしてその者達は皆同じように化け物姿の女神の話をして、同時に人知を超えた能力を備えていた」
「人知を超えた能力……!?」
「君にもそのような力が備わっていたなら、君の証言を完全に信用しようじゃないか、魔王を倒すという言葉もね」
「な、なるほど、だから半分信じるって……」
記憶の中の神様らしき化け物は、僕に権能を与えたと確かに言っていた。
ならばきっと僕にもそれが備わっているだろう。
……そうであると信じたい。
「シスター! シスター・ジェミネ!」
自称偉い人が大きな声で誰かを呼ぶと、僕の後ろ側から音がした。
修道服を着た背の高い女性が扉を開け部屋に入ってきたのだ。
「シスター、権能が目覚めるまで彼を世話したまえ」
「天使殿、こちらへ」
「え? あ、大丈夫ですよ自分で立てるので」
椅子を引いたり、立ち上がるのに手を貸したり、ドアを僕のかわりに開けたり。
シスターはこちらを王侯貴族のように扱った。
なんだかやり辛い……
「君が神の権能に目覚めた暁には大きな仕事をしてもらう、魔王と戦うという大仕事をね」
「そのために待遇がいい、って事ですか?」
「そういうことだ」
なるほど。
これはきっと今までの9人の天使達がよく働いたおかげなのだろう。
正直まだ実感は沸かないが、なにはともあれ。
自分は魔王を倒すという命令を受理し天使として生を受けたらしい。
そして仕事をこなせば良い扱いを受けられる。
そうであるならば、前任者に恥じぬよう頑張ろう。
天使としての仕事が、魔王と戦うとはどんな物なのかはちっとも知らないけど。
とりあえず頑張ろう。
そんなことを考えながらシスターによって開けられた扉をくぐり廊下に出る。
「奥に食事を用意しています、どうぞこちらへ」
「ごはん!」
食事、という言葉に脳が反応したのか、急に僕のお腹が空腹を訴え始めた。
緊張が解けたからだろうか、一度気にしだすとどんどん空腹が大きくなる。
おなかすいた、この先に待つ食事とはどんなものだろう、おいしいといいな。
これから起こる未来に期待が膨らんだ。
その時……
「あぁそうだ天使殿、最後に一つ質問が」
「はい?」
未だ部屋に座り続ける自称偉い人から言葉が投げかけられた。
「この部屋にいる間、何か気がついたことはなかったかね?」
実に唐突な質問が投げかけられた。
気付いたこと、とは。
少し考えたけど何も思いつかず、扉の先の自称偉い人の座る部屋を改めて見回す。
が、やはり特にこれといっておかしな所は見当たらない。
強いて挙げるなら天井と壁の境目、高さ3mほどの場所に窓があることを見落としていた程度。
窓の外は真っ暗で今が夜であることを示している。
「すみません、特に何も……」
「そうかありがとう、では食堂へ行きたまえ天使君、引き止めて悪かったね」
自称偉い人がそう言うと修道服の女性によって扉が閉められ会話は終了する。
最後、偉い人の僕への呼び方が変わっていた。
「天使殿」から「天使君」へ。
表情は笑顔のままだったが、眼鏡の奥の眼光がきつく睨んでいたように思えた。
何か気に触ることをしてしまったのだろうか。
あの質問に「わからない」と答えるのが、何か宗教上のタブーに触れていたのだろうか?
「天使殿、さぁこちらへ」
「へ?」
「何か気になる事でも?」
「あ、い、いえ、すみません何でもないです今行きます」
考えがまとまる暇も与えられず、修道服の女性によってドアから右手側の方向、食堂の方向へと連れていかれる。
外の廊下は緑の光で溢れていた。
シスターの説明によるとそれは魔法の光、窓がないから火が使えず代わりに魔法を使っているらしい。
窓が無い。
変な建物だ、普通じゃない。
短い廊下を進むと突き当たりには大きな観音開きの扉があった。
扉を開いたその先には広い食堂、テーブルの上には豪勢な料理。
ふわふわのパン、色合い鮮やかな野菜と暖かなポタージュ状のスープ、肉汁溢れる子羊のステーキ、赤ワインにレモンの輪切りを添えた鰻のムニエル。
食欲をそそる食べ物たちが視界一杯に出迎えた。
眼の前の料理はとてもおいしそうだ。
……
……
……なのに、心がざわめいている。
何だかわからないが、このままでは危険な気がする。
食堂と呼称されるこの部屋には、廊下と同じく窓が一つもなかった。
冷たい煉瓦の壁に囲まれたこの食堂は、なんだか牢獄のように感じた。
◆
「すいません、トイレってどこにありますか?」
「あぁそれなら部屋の奥にありますよ、わざわざ外へ出なくても」
「そうなんですか、ありがとうございます」
食堂に入ってから約5分。
テーブルの上の食事は食べ終えたものの、なんだか居心地の悪さを感じ適当に理由をつけて離席することにした。
シスターの視線を背に感じながらトイレに入る。
狭い個室でようやく一人になれたが、それでもなんだか落ち着かない。
食堂に入ってからずっと嫌な予想が頭の中でぐるぐるしている。
先程あの自称偉い人は今回が10人目の天使だと言った、では前の9人は今どこにいるんだろう?
それにこの建物、廊下にも食堂にも窓が一つもないのはなんだか不自然だ、不便じゃないのだろうか?
そして僕を案内したシスターが部屋に入ってからずっと出口を塞ぐように立ち続けていたのは、はたしてどのような意図によるものだ?
確証はないが、今の僕はあまりよろしくない状態な気がする。
考えれば考えるほど、今の自分の立場が危険な状態に思えてしまう。
知りたい、何でもいいから情報が欲しい。
シスターか偉い人か、どちらでもいいから話が聞ければ……
そう考えていると。
「……? うわ?! なにこれ!?」
右手が光った。
すごく青く光った。
今トイレを照らしている魔法の緑光と同じくらい光る。
闇夜も照らせそう、こわい。
「え、何これ……と、とりあえず消さないと!?」
とにかく光を消そうと腕をブンブン振る。
すると。
「へぁっ!? 今度は何!?」
今度は何もない空間を僕の指が引き裂いた。
まるで障子を指で引っ掻いたような裂け目が青い光を帯びて何も無い空中に浮いている。怖い!
しかし怖がってもいられない、トイレに裂け目が空いたままでは後の人が用を足せなくなってしまう。なんとかしないと。
とりあえず裂け目の正体を探るため中を覗いてみる。
するとそこには……
「シスター……と自称偉い人?」
先程通った食堂の扉の前で、シスターと自称偉い人が会話をしている映像がその裂け目に映っていた。
「神官長、何か御用で? まだ監視の途中ですが」
「ちょうど元老院の会議が終わってね、その報告さ」
それに会話も聞こえる。
これがあの化け物女神様が自分に与えたという権能だろうか。
なるほどこれは便利だ、便利ではあるけど、これでどう魔王とやらと戦えと……
「会議が終わった、という事はあの天使君の処遇が決まったのですか」
!?
まさか、今まさに自分が知りたい情報が手に入るなんてありがた……
「あぁ殺処分だってさ、あの仮称10号は殺処分に決まった」
!!?
殺処分、つまり殺される!?
何で、どうして!?
「筋力量は平均以下、魔力に至ってはほぼゼロ、そして極め付けはあの面接、あれほど隣の部屋から殺気が飛んでたのに無反応ではねぇ……」
殺気!? 生まれてすぐ最初に殺気を察知しろって何!?
「なるほど武闘派な議会上層部の方々が嫌いそうな要素しかありませんね」
武闘派な議会上層部って何ですか!?
議論のかわりに拳を交わしてるのか!?
「一応あの子の持つ神の権能を見てからでもと具申したのだが、権能だけを奪ってより優秀な人間に移し替えればよいとの結論となった」
「あの貧弱そうな体では魔物との戦いですぐ死んでしまうでしょうから、仕方ありませんね」
二人の会話が進めば進むほど事態は深刻になる。自分の死が確定事項として話が進められていた。
さしずめ先程のご馳走は最後の晩餐と言ったところなんだろう、おいしかった。
能天気にご飯を食べていた自分が暢気すぎて嫌になる、でもおいしかった。
しかし、なにはともあれ。
逃げなければ。
このままでは殺されてしまう。
シスターと偉い人が部屋の外で話している今、逃げるチャンスは今しかない。
急いでトイレから出よう……
と思って。
そういえば空間の裂け目が自分の目の前にある事に気付いて。
とりあえず避けて通ろうかな、なんて思って動いたところで。
壁に腕がぶつかった。
空中に浮く青い裂け目に集中しすぎてすっかり忘れていた。
自分は今狭いトイレの個室にいる。
つまり下手に動けば壁に腕がぶつかる。
腕がぶつかれば……
「あ」
「「あ」」
当然、音が鳴る。
裂け目の向こうに音が届く。
「ッ!!」
「シスター、君は直接向かえ!!」
気付かれた!
寒気がするほどの怒気が両人からこちらに届く!
この窓、向こうからも見えてる! 双方向コミュニケーション可能だ!
便利だけどその便利さが今は恨めしい!!
「と、閉じなきゃ!!」
「シィ!!」
窓の向こうの自称偉い人が、こちらに向かって光る何かを投擲してきた。
急いで窓を閉めようと体勢を崩したのが功を奏した、自分の頬のすぐ横を"それ"が通過する。
青く光る裂け目を両手で挟み潰すのと、銀に輝く"それ"が音を立ててトイレの壁に突き刺さるのがほぼ同時であった。
「な、ナイフだ……」
ギラリと光る刃物が深々とトイレの壁に突き刺さっていた。
この壁、煉瓦なんですけど……?
「うわ!? 今度は何!?」
そして呆然とする間もなく今度はトイレのドアがガタガタと音を立てはじめる。
何が起こっているのか?
考えるまでもなかった、誰かがドアを開けようとしている。
誰が?
考えるまでも無い! 自分を殺しに来たシスターだ!
「に、逃げなきゃ殺される……」
これまた分かりきっていることだ、逃げなきゃ殺される。
でもどこにどうやって逃げる?
考える間にドアは音を立てて軋む! ドアを支える蝶番から嫌な音が鳴り響く!
せめて「待て!」とか「開けろ!」とか言ってほしい!
無言でドアをガタガタされるのは別な意味で怖い!
……混乱する頭で必死に考えるも答えは一つしかなかった。
窓だ窓しかない。
青く光る自分の右手、空間を繋ぐ神窓の権能、今僕の使える手札はこれだけだ。
「どこか、どこかに繋がって下さい!!」
祈るように空間を手の平で薙ぐ。
薄紙を裂くように空間が裂けた。
青く光る裂け目が広がる、神の窓が繋いだ先は……
「あ」
「あ」
さっき開いた場所と全く同じ、食堂前のドアに繋がった。
当然目の前には自称偉い人。
どうもこんにちは。
そんな言葉も聞こえるかのような双方無言の会釈の後。
二本目のナイフが飛んできた、窓を閉めるのと同時に二本目のナイフが壁に刺さる。
「今度は避けた! 予測して自分で避けた! 確実に僕は成長して……ヒィっ!?」
マヌケな失敗とヤケクソ気味な鼓舞をしている間に今度はトイレのドアの蝶番から釘が一本外れて落ちた。
ドアがずれて隙間が生まれる、そこから漏れ出す空気がなんだかとても悍ましい何かに覆われていた。
なるほどこれが殺気か。すごくこわい。ここがトイレで本当に良かった。
もはや猶予は数秒と無かった。
今自分の命を支えているトイレのドアは5秒とかからず壊れそう。
あの無駄な失敗のせいで時間を失った。
でも、おかげで失敗の原因はよく分かった。
窓の開く先を指定しなかったからだ。
この神の権能はどこでも繋がってくれはしない、自分が指定した場所にしか繋がらないのだ。
だから適当に開いた結果一つ前に指定した場所に繋がった。
次は安全の確保できる場所に窓を確実に繋げなくてはならない。
どうする、どこに繋ぐ。
選択肢は一つしかなかった。
蝶番が壊れドアがこじ開けられる音を背中に聞きながら、急いで窓を開き中へと飛びこんだ。
窓が繋いだ先は僕が最初に目覚めた場所、自称偉い人に詰問された場所。
この建物の中で唯一外に繋がるガラス窓を見た場所だ。
空間と空間の境目を通り抜ける不思議な感覚に酔いそうになりながら、冷たい石の床に着地した。
そのまま落ち着く間もなく青く光る裂け目を急いで閉じる。
閉じる間際、窓の向こうからこちらに手を伸ばそうとするシスターと一瞬だけ目があってしまった。
怖い、いや怖かった、今はもう見えない。
開放感から足がすくみ、安堵のあまり床に倒れ込んだ。
助かった。
思わずそう声に出しそうになりすぐに口を手で押さえる。
部屋の外、少し遠くから誰かの声が聞こえる。
今この部屋は食堂のすぐ近く。
自分はまだ追われている、声を出せば場所が特定される、油断するのは安全になってからだ。
震える足に必死で力を込め立ち上がり、部屋を見回し安全を確認する。
椅子、着席無し。
ドア、閉まっている。
窓、閉じてる、それに真っ暗。
とりあえず目につく物を確認、誰もいない。
安心。
と、安堵し一息ついたところで。
"それ"に目が止まった。
……
……顔が浮いていた。
人間の顔だけが浮かんでいた。
部屋の四隅にある柱の内の一つに、人間の顔が浮かんでいた。
正確には埋め込まれている、という表現が正しいか。
「観光地の顔出し看板」「学芸会の木の役」といった意味不明な単語群が頭に浮かぶ。
「おい」
しかも喋った。その顔が喋った。
こちらに向かって話しかけてきた。
こわい。なんだかわからないがはやく逃げなくては!
「おい馬鹿どこへ行く、こっちに来て隠れろ、急げ」
顔だけオバケは今度は腕を生やし、逃げようとした僕の体をつまんで柱の方へ引きずりこんだ。
恐ろしい早業だ、抵抗も空しく柱の中へ取りこまれていく。
「もうだめだ」そう思った瞬間、個室のドアが開いた。
誰かが助けに来てくれたのか。
そんな淡い希望は訪問者の顔を見た途端に消え失せた。
シスターだ、自分を殺しにシスターが現れたのだ!
……
……が。
「ダメですね、ここにもいません」
どうやら向こうからこちらは見えていないようだった。
「そうか……だが、権能に目覚めて間もない以上それほど遠くへはいけないはずだ」
「出入り口を審問官に張らせましょう、それと城門の警備にも教会の手の物を」
「くれぐれもオズワルドとダニエラの耳に入れないよう……」
「……解しました、あとは上層部への……報告と根回し……」
「そちらはすでに済……残るはオズの大将……」
個室のドアが閉められ、シスターと偉い人の声が遠くへ消えていく。
思わず大きく息を吐いた。
助かった、とりあえずシスターも偉い人もしばらくこの部屋にはこないだろう。
当座の危機は去った。
……
……で。
「あの、そろそろ離してもらっても……?」
次は謎の顔だけお化けの対処をしなくては。
というかこの人は一体何なんだろう? 敵? 味方?
教会の人ではなさそうだけども。
「そうだな、離してやってもいいが」
「……?」
「代わりに俺の頼みを聞いて貰おうか」
一つだけ確信を持って言えることがあった。
この人も、絶対に、ロクでもない人だ。
◆
顔だけオバケから解放されると、取りこまれた柱が緑の光と共に霧散していく。
これも魔法の力だろうか。
緑の光が消えると自分を匿ってくれた顔だけお化けの詳細が見えてきた。
身長180cm前後、細身、二十代前半の男性。
自称偉い人とよく似た黒い服を着てはいるが、言葉遣いや立ち振る舞いから少し粗野な印象を受ける。
「あの、頼みって一体……」
「まず頼み事その1、その窓から外に飛び降りろ」
「と、飛び降りろ……?」
慌てて椅子に登って、部屋の高窓を覗き込む。
眼下には夜を照らす街の灯が遠く下方に広がっていた。
遥か下方に街の灯が広がっていた。
遥か下に。街。
つまり、今自分のいる階、とても高い!
「いやいや、無理無理無理です! ここ何階建ての建物ですか、見た感じ4階から5階くらいありますよ!? ここから飛び降りたら死んじゃいますって!?」
「頼み事その2、街を囲む外壁を越えてこの街の外に出ろ」
「もうやだこの人、他人の話聞かない!」
窓から見たところ街を囲む外壁はこの建物よりもさらに高い、10階から11階建ての建物程の高さであった。
メートル法にするなら30mくらい、どう越えろと!
「無理だ無理だって言うけどなぁ、お前、この部屋にどうやって入って来たよ?」
「どうやってって、それはこの窓で……」
窓で、神の権能を使って、物理的にありえない位置からこの部屋に辿り着いた。
辿り着きたい場所を強くイメージして、ここに辿り着いた。
うん? つまり?
……ふと「もしかして?」という閃きが舞い降りた。
きちんと場所の指定ができるなら、その場所を訪れた事がなくても繋げられるのでは?
窓から見た、すぐ下の地面をイメージして右手を振るう。
薄紙を裂くような感覚と共に青い裂け目が開かれる。
「つ、つながった!」
イメージした通りの地面が、今居る建物のすぐ近くの石畳が、自分の目の前、開いた窓の外に現れた。
「女神から何か力を貰ってんだよな? ならそれくらいは出来て当然だ」
「おぉ……おぉ……! 確かに、神様の力ですもんねこれ、これくらいできますよね!」
「なにやら感動してるところ悪いがまだ俺の話は終わってないぞ」
「あ、はい、すみません」
「頼み事その3、この窓から見える西の外壁の外でオズワルドって人が待機している、そいつに会え、これが最後の頼み事だ」
先程隠れている時に自称偉い人の挙げた名前が、顔だけおばけから告げられた。
「いいな? この建物を出て西の外壁を越えてオズワルドに会え、そいつに会えばお前は助かる、これがやるべき事だ分かったな?」
「は、はい、ありがとうございます、助けてもらった上に頼れる人の紹介まで!」
「感謝なんてしなくていいぞ、こっちは仕事でやってんだ、それに……」
「……それに?」
「今からお前に酷い事をするからな」
「へ?」
「俺は神様から素敵なパワーを貰ったりはしてないからな、脱出するにも一工夫要るんだよ」
顔だけオバケは、唐突になにやら宗教的モチーフらしき銀細工を胸に掲げ始めた。
「異端審問官の証」という謎の単語が頭に浮かんだ。
「え? あの、何を」
「お前を囮にさせてもらう、悪く思うなよ?」
「は……?」
顔だけオバケは大きく息を吸い込むと。
「いたぞおおおぉお! 天使がいたぞおおおぉおお!」
僕の居場所を大声で晒した。
「な、ちょ、なんてことしやがるんですか!!」
部屋の外が目に見えてざわめき始める。
「文句言ってる暇あるのか? 早く逃げないと死ぬぜ?」
言うが早いか顔だけオバケは緑の光と共に綺麗さっぱり消え去った。
おそらくは先程シスターから庇ってくれた時のように、視界に映らないだけでそこにいる。
が、そんな人に関わってる暇は無かった!!
「どこだ、どこで発見報告が!?」
「応接室だ! 急げ!」
扉のすぐ近くから声がした!
2秒とかからずドアが開け放たれる!
「あぁもう、この恨み忘れませんからね!! あと恩も!!」
恨み節を吐きながら、先程開けた神の窓へと急ぎ飛び込み窓を閉める。
飛び出た先は大きな教会のすぐ近く、露店らしき建物が並んでいる街道だ。
建物の外には出られたようだ。
しかし、安心するのもつかの間。
「いたぞ! 露店街のそばだ!」
居場所がすでに把握されていた。
ゆっくり隠れて移動などできそうもない。
すぐに窓を開き移動しなくては。
「と、とにかく言われた通り外壁へ!」
急ぎ外壁を見てそれをイメージし空間を裂く。
青い光とともに窓はすぐさま開かれた。
……が。
「なんだお前は!? おいお前その魔法はなんだ!?」
「し、失礼しました!!」
開いた先には警備兵!
外壁の上には見張りの兵士が配置されていた。
上からの脱出は難しそうだ。
急ぎ窓を閉め脱出ルートを思考する。
こうなるともう城門から出るしかないのでは?
……と、考えた所で近くから誰かが走ってくる足音が聞こえた。
追手がそこまで迫っている!
あれこれ試している時間はない、まずは別などこかへ逃げなくては!
とにかく急いで周囲に視線をやり、目についた中で一番遠い場所に窓を繋いで飛び込んだ。
辿り着いた場所は街の中心と思わしき噴水の広場。
右方向には歓楽街らしき喧騒と人混み、左方向には住宅街らしき団らんの声が聞こえてくる。
まだ夜は浅いようだ、どこもそれなりに人が多い。
とりあえず人混みに紛れば城門まで安全に行けるだろうか?
安易な考えが頭にちらつくが、それは一秒と経たず容易く打ち砕かれた。
「神父さん、あっち! 青い光ならあっちで見たよ!」
僕の後方から大声が聞こえた!
どうやら周囲の視線は全て敵。
足を止めている時間は無さそうだ。
急ぎ逃走ルートを探し周囲に目をやる。
すると、大きな道の向こうに……
「あ、門!」
外壁の門を視界に捉えた。
1000m近く離れた長い長い直線の先に街の外へ出る門を見つけたのだ。
さらに幸運にも、門を塞いでいるのは扉ではなく格子状の木柵、いわゆる落とし格子。
これなら外が見える、そのまま外に窓を繋げられる!
遥か遠く、格子の隙間から僅かに見える外を強くイメージし一気に外までの窓を裂き繋ぐ。
青く光る空間の裂け目、繋がった窓の先、外壁の外へと思い切って飛びこんだ。
僕の体は石畳の広場から消え去り一瞬で土の道へと着地した。
周囲には木々が生い茂っている。
現在地は林、或いは森。
ごみごみとした住宅街は遥か後方。
「外だ、外に出れた……!」
急いで窓を閉じ安全を確保。
安堵が心を満たし思わず足から力が抜ける。
……と、同時に。
僕の体に異変が起こった。
「お腹すいた……」
空腹。
至って普通の生理現象。
いやそんなことはない。
どう考えてもおかしい。
お腹の減りが早すぎる。
つい先程あの教会で、僕は山のように積まれたご飯を平らげたばかりなのだから。
これはどう考えても異常事態だ。
心当たりは一つしかない。
「まさか、窓のデメリット?」
どうもこの力は、好きなだけ使い放題というわけにはいかないようだ。
このまま使い続けたらどうなるんだろう……?
「おいお前、そこで何している!」
突然の空腹に戸惑っていると、門の方から怒鳴り声が飛んできた。
門を守る衛兵らしき人物が僕を補足したのだ。
まだここは安全圏ではない。
もっと遠くに逃げなくては!
空腹で弱る体に鞭をうち飛び起きる。
急いで窓を開き、視界の届く限り遠くに繋ぐ。
門の外、木々の生い茂る深い森を、窓を使ってさらに一気に飛び越える。
窓の外に転がり出るとそこはすでに森の外の荒野、巨大な外壁は遥か後方。
砂の混じった乾いた土に体が着地する。
さすがにもう安全なはず。
衛兵の声も聞こえない。
が、先程よりさらに激しい空腹が体を蝕む。
足に力が入らない!
これが窓を使い過ぎたデメリットか。
立ちあがり歩くことすらできないほどに、体の力が空腹に奪われてしまった!
どうすればいい?
嫌だ。
天使とか10号とか、役職や番号で呼ばれたまま死ぬなんて絶対に嫌だ。
名前も貰えないまま、自分の顔すらも見たことないまま死ぬなんて嫌だ!
食べ物だ、空腹が原因なのだから何か食べ物を食べれば……
必死に探すが手の届く所にはよく踏みならされた土と砂しかない。
だだっ広い荒野が目の前に広がっている。
視線の先、少し遠くに辛うじて草木が生えているが、手を伸ばそうにももう手足が動かない。
どうすれば……
絶望に暮れていると、突然頭の中に情報が流れてきた。
「土食文化は世界各地で見られている」
「主に土中に含まれるミネラル摂取が目的」
「結論、土は食べられる」
「※ただし適切な処理を施した場合に限る」
食べる……?
土を……?
絶対に選ぶはずのない選択肢。
なのに。
死にたくない。
意思とは反対に空腹に喘ぐ自分の体は食物を求めて勝手に口を動かしそれを喰らう。
……不味い。
何が不味いってすごい臭い、土臭い、土なのだから当然なんだけれども。
口に入れた途端不快な臭いが口いっぱいに広がる。
食感も最悪、じゃりじゃりしていつまでも口の中に残る。
味の良し悪し以前に不快さで体が受け付けない、ものすごい勢いで胃液がせり上がってきた。
食べてはいけないものだと本能が告げている。
なのに、体は食べ物を求めそれを飲み込もうとする。
空腹と吐き気と疲労で意識が薄れていく。
もういやだ。
そんな感覚だけが僕のすべてを満たした。
このまま死ぬのだろうかと、絶望が完全に意識を閉ざそうとした……その時。
「おや、随分衰弱しているな」
近くから男の声がした、それも知らない人の声。
「まったく杜撰な仕事だ、指定した場所とまるで違うじゃないか」
「オズワルド様、これが例の……」
聞いた名だ。
助かった、のだろうか。
残された僅かな気力で顔をあげる。
「し……死にたく、ない……助け、て……」
「やぁ天使君、始めまして」
視線の先にいた人物は。
「私はオズワルドという者だ」
「……人? ……じゃない!?」
雀であった。
手のひらサイズの小鳥が目の前で喋っていた。
「安心したまえ、我々は君の敵ではない」
だからってこんな小動物に味方されても、どこをどう喜べばいいんだ!?
声にならないそんなツッコミとともに、僕の意識は途切れて消える。
「あぁいかん、ふたりとも急い……この子を馬車に載……」
「それとベルナドッ……連絡……」
「虫……警戒……」
「安心……天使君は我々が…………」
生後一日目、最悪の誕生日は雀の笑顔で幕を閉じたのであった。