1. バカ
「あ。」
月だけが鮮明に見える薄暗い夜空の下、ある人が真っ暗な草原の上に寝ていた。
「あの月のように、」
その男性は両手を枕の代わりとして頭の下に置き、月を見上げていた。
「この真っ暗な夜空を照らしていられるなら」
蛍一匹いないその草原は、決してその青年の表情を写すことはなかった。
「またこの世に生まれてきてもいいけど」
しかし、その男の子は突然、左手を頭の下から外し
「オマエは生まれ変わっても」
誰かに話しかけているような言い方で
「誰からも愛されず
また嫌われ
同じような人生を繰り返すだけ。」
ボソボソと独り言を喋っていた。
「だから、今オマエにできること、」
その子は外した左手を夜空の近くまで持ち上げ
「いや、オマエが唯一望めること。」
手のひらを伸ばし
「それは、この世に存在していたことすら忘れられ、」
そのまま、月の横に移した。
「誰からも気付かれることなく」
そして、このバカは視野から月を隠した。
「完璧に消えることだ。」
How to Disappear Completely
1. バカ
もう三年も前のことになるのか。いや、このつまらない日々をいちいち考えると、まだ3年しか経っていないことに吐き気がする。とはいえ、3年前のあの日に戻れるとしても、全く同じ選択をしてしまうのだろう。あの日に出逢ったヤツは、今とはまるで別人のように見えていたからだ。当時のアイツは今すぐにでも自殺しそうな目で、自ら命を絶ちたくて仕方がないような雰囲気を纏っていた。映画とは違って、激しい雨でずぶ濡れたありきたりな演出のせいで余計にそう思えた可能性はない。その日は、夏休みを迎えた子供たちが虫取りでもしているような、ごく平凡な真夏の晴れの日だったからだ。なのに、未だ死ぬことなく、今こうして横で呑気に寝ているとは。全てはコイツが作ったあのくそみたいな死ぬための三つの条件のせいだ。いや、それ以前に、コイツは、本当に死にたいかですら迷っているように見えるほど、「バカ」だからだ。
あっ、くっそ。ていうか、なんで神という存在は、太陽なんかを作ったんだ。どうせ作るならもっと暗くしてもよかったものを。神はきっと人間の苦しんでいる姿を単なるエンターテインメントとして観覧しているのに違いない。
そんなことより、このバカはいつまでこんなところで寝ているつもりだ。馬鹿すぎて夜中そのまま寝落ちたのに決まっている。左手もおでこの上にある。月を隠そうとしていたくせに、途中寝落ちて手を頭の上に落としたのだろう。本当に情けない。何時なのか気にはなるが、このバカは、時計はもちろん、今やこんな田舎でも誰もが使っているスマホすら持っていない。まあ、何時であろうがこのバカには関係ないし、別に知る必要もないか。こんなバカ、さっさと死ねばいいのに。
バカがいきなりビクッとした。こんなバカでも一応生きてはいるのか。感覚は鈍くても、何かを感じてはいるようだ。眉を顰めている。多分、コイツも眩しいのだろう。嫌ならさっさと起きればいいのに、動かない。いや、動かないというか、動きが遅すぎると言った方がいいだろう。
バカの顔が段々真っ赤になっている。太陽のせいか?いや、バカがゆっくりと左手をおでこから外しているってことは、太陽のせいではないようだ。それならバカが左手を地面の上に置くことはないはず。そのまま、バカは、ただ緑に戻っただけのなんの罪もない雑草を両手でぎゅっと握り締めている。同時に、頭と足が少し浮き上がっているのを見ては、おそらく身体中に力をいっぱい入れているのだろう。だからと言って、雑草を引き抜いているわけではない。こんな雑草なんか全部抜いてやりたいと思っていながらも、我慢しているようだ。まるで、何か叫びたいことでも我慢しているように。
なんだかんだ三年も一緒にいるわけだし、このバカが何をそんなに悔しんでいるのかなんて、大抵予想は付く。今頃死んでいることを望んでいたが、普通に目を覚ましたことに対する悔しさだだろう。山とはいえ、こんな低いところに熊とか出没するわけないのに、何を期待してたんだ?寧ろ、ただ真夏の夜、外で涼しく寝たくらいにしかならない。そんなに死にたいならさっさと自殺すればいいものの、誰にも被害を与えたくないやらなんやら、いつも変な理由を付けまくる。死にそんな贅沢なことなんてあるか?ていうか、このバカはいつまでここにいる気だ。
太陽がこのバカの真上にいるってことは、もうお昼か。バカもそろそろ手の力が尽きたのか、雑草をゆっくりと離した。今度は足か。やっぱ、足も汚いな。まあ、いい歳して仕事もしてないし、清潔なわけないか。靴は、一回も洗わずに十年くらい毎日履き続けたと言っても信じるくらい汚いサンダルを履いている。そこから見える裸足は、見るだけでも臭いが伝わるほど不潔だ。足の爪なんか最後に切ったのはいつだろうか。伸びすぎて下の方に向かって曲がっている。なのに、遺伝のせいか、肌だけはエステに何百万も費やしている女性芸能人並みに白い。豚に真珠とはこういうことを言うのだろう。
バカは何分もかけて膝を曲げ、踵をお尻に当てた。たったそれで疲れたのか、暫く休憩を取って、今は上半身をあげようとしている。けど無理のようだ。太っているわけでもないのに、背を上げることすらできない。どうやら諦めたようだ。結局、体を横に転がそうとして左右に揺らしている。これは流石にこのバカでもすぐできるか。もう横に転がってお腹を地面に着かせている。おい、待って。また休憩する気か?バカが動きを止めた。服が汚れようがどうがなんて全く気にしないようだ。確かに、いつ洗濯したかわからないくらい、垢で黄色く汚れた白のTシャツではある。ただ黄色かった服が茶色くなるだけだし、別にいいだろう。
本当に腕の力が尽きたようだ。あとは両手の平を地面に着かせて肘を伸ばせばいいだけなのに、それすらできないとは。本当にみっともない。結局、そのまま腰をあげることをしたのか、脚で雑草を摩る音がする。そのせいで、回りの草が何十本も抜けていく。自ら命を絶つこともできないくせに、他の生き物は平気でいくつも殺しているのだ。なんの罪もない草を手で引っ張ったり、脚で擦ったりしながら、このバカは今日も死ぬふりをして生きようとしている。このバカは、生きているだけでもこの世に迷惑ばかりかけている、不要な悪でしかないのだ。とにかく、もうすぐで起き上がれそうだ。両膝をお腹辺りまでは持ってきている。あとは上半身を持ち上げて脚を伸ばすだけだ。どうでもいいから、早くしろ。
こう言っても、このバカのむかつくほどの遅い行動が理解できないわけでもない。ここから出るとしても、このバカに向かえる場所なんて限られているからだ。「家」。バカにとっては思い出したくもない場所。「あの場所」に誰かいるわけではないが、恐らく、誰かがあの場所に存在していたことを思い出したくないのだろう。だから、夜もここで過ごしたのだと分かる。まあ、こんなことは後で考えてもいいか。その前に嫌な場所二つもあるし。
まず一つ目は、あの場所へ行くまでの道だ。当たり前だが、このバカは貧乏だから、潰れる寸前のマンションに住んでいる。そこへ辿り着くには二つのルートがある。一つはこの町の周りを囲んでいる山をぐるっと回って行く道だ。このルートは流石に遠回り過ぎるし、傾斜も激しい。戦争で避難でもしない限り、誰も歩こうとしない道だ。もう一つは、市場を通り抜けて行く道だ。みんな貧乏で小さい町だからなのか、町の構造も変なのだ。市場が中心にあるのではなく、市場という入り口を通らないと住宅街には行けない構造になっている。そして、その市場にはこのバカを軽蔑する目で見る人間しかいない。でも、このバカは商店街の方を選ぶだろう。
二つ目はこの山の出入り口だ。小っぽけな山とはいえ、一応、市から管理はしているらしい。この町は、詐欺とかのお金目当てや選挙の票集め目的でない限り、外部から人が来ることはまずない。観光スポットなんて一つもないし、こんな貧乏くさい奴らに会いに来たがる親戚とかもいない。何かを奪う目的でないと、誰も来ない町なのだ。こんなところだから、町内会長かなんか知らないが、この山を管理するという名目で、裏で税金を自分の金にしている。それでできたものの中の一つが、この山の出入り口だ。例えば、この出入り口には管理人が常に在住している。市から老人を何人か最低時給より安い給料で雇って、ローテーションしながら酷使させているらしい。しかも、2~3人体制のはずなのに、いつも管理人が一人しかいないのを見ては、支払うべくの何人分の給料を偉い奴らが都会にある高級焼肉店に使っているのに違いない。まあ、今はそんなことどうでもいい。問題はここだ。ここの管理人の一人が、このバカとすれ違う度にしつこく話をかけてくるのだ。理由は多分このバカが不審者に見えるからだろうが、とにかく面倒くさいくそじじぃだ。
こんなくだらないことを考えていたら、いつの間にかバカが地面の上に立っている。何してるんだ?太陽に当たり過ぎて感覚が麻痺しているのか?瞬きもせずに太陽を睨みつけている。服に付いている土が気にはなるけど、どうせ払い落とす気なんてないだろう。だからと言って、こっちから払い落としてあげるつもりもない。あ、もう十分睨んだのか、急に顔を横にした。そして、小幅でゆっくりではあるが、足を動かしてバカの右隣にある森の中へ入ろうとしている。特に表情が変わったわけではないが、何かに呆れているように見える。バカのくせに。
このバカが立っていたところから森までの距離は百歩もない。草原とは言ったものの、平地に草が生えているだけで、広くはない。そもそも、こんな低くて小っぽけな山に、大地の草原なんてあるわけがない。だから、このバカの変な歩き方でも、あまり時間がかかることなく、森のすぐ前まで行ける。ていうか、もう、あと一歩で森の中に入れる。なのに、なぜ入らないんだ。影を目の前にして足を止めた。太陽を見つめ過ぎたせいで残像が残って目がくらくらしているのか?あ。一瞬横に倒れそうになった。てことは、多分そうだな。やっぱ、コイツはバカだ。
3分くらい経った。まだ残像が残っているのか?そろそろ太陽の光で体が焼けてきてもおかしくないのに。あ、バカが何かの決心でもついたのように、また足を動かして、やっと森の中へ入った。たった一歩の差だが、まるで別世界に来たかように、目に写る光景がガラッと変わった。この一歩で、暑かった太陽の光は一切感じず、緑と茶色に黒が染まった世界が広がっている。そして、今すぐにでも吹き飛ばされそうな森の奥からの強い風で寒気すら感じる。バカは突然暗くなったこの世界に目が追いついていけないのか、なかなか前に進めないようだ。まあ、太陽に笑われるよりはマシだし、ここからはゆっくりでもいいか。
もちろん、普通の散策路もあるが、このバカは、わざわざない道を選んで進む。さっきまで寝ていた草原だってそうだ。普通の散策路でを歩くと、この草原の存在なんて知らずに通り抜ける。なのにバカがこうする理由なんて別に大したことでもない。ただ、人とすれ違うのが苦手なだけだ。バカは自分の視界に人が入ること自体を嫌う。この草原も、人の気配がして逃げようとしたとき、足の踏み間違えで転んで、偶然見つけた場所だ。でないと、このバカにこんな草原なんて見つけられるわけがない。正直、こんな小っぽけな山にくる人なんて所詮一日に10人いるかいないか程度。わざわざない道を歩くのは無駄なことでしかない。だけど、このバカは死ぬまでそれに気付かず、変な道を選び続けるだろう。
遅いスピードで森を歩いてから何分か経った。思ったより木の葉っぱたちの間を通り抜けて入ってくる光は殆どない。このバカもそろそろ慣れてきたのか、先程のようにふらふらはしていない。寧ろ、光を浴びなくて済むと思っているからか、少し楽そうにも見える。とはいえ、このバカはまともに前を歩けることなんてできない。なんなら、このバカが途中転けるかどうかを誰かと賭けでもしたいくらいだ。もちろん、転ける方に全額ベットで。とりあえず、このまま様子を見てみよう。
もう後ろを振り向いても、光の見えないところまで歩いてきた。このバカはさっきから足を引きずっているような歩き方をしているが、これは決してスリッパを履いるからではない。いつもこんな歩き方なのだ。砂を擦る音もしないし、足をあげる程度がとても低く、ただ引きずっているように見えるだけだ。こんな歩き方だから、上半身が真面に動いているはずがない。変なところを中心として力を入れているせいで、上半身は説明しづらいくらい変な動き方をしている。それに、服も汚いし、ゾンビに見えるらしい。実際、子供たちがバカに向かって「ゾンビだ!」と叫びながら石を投げたこともある。その時死ねばいいと思ってはいたが、たかが子供が投げた石。死ねるわけがない。バカは無視しながら今とあまり変わらないスピードで道を歩き続けただけだった。子供たちは、自分たちがご当地ヒーローにでもなったかのように、バカを追ってまで石を投げ続けたが、なんの反応もしないバカに飽きたのか、「死ね!」とか言いながら離れた。とにかく、バカはゾンビ扱いされても気にしない。逆に、バカは、それをきっかけに死ねるかもしれないと無駄な考えをしながら、少しは嬉しく思っていたのかもしれない。
既に目は暗闇に慣れているが、森の中はどこも同じで、今どこを歩いているかは分からない。初めての道ということだけは確かだ。何?突然、このバカの体がビクッとした。別に恐怖や不安を感じているわけではなさそうだ。もしそうなら、今までの死ぬ話はなんだったんだとなる。だとしたら、このバカは何にビクッとしたのだろうか。ただの体温の変化による動きだったのか。なら、もっと前に起きたはず。密かに流れる風音とバカの足音しか聞こえないし、人の気配も感じない。来たことない場所だし、昔の記憶が蘇ったわけでもないだろう。理由はバカにしか分からないが、死体の筋肉が収縮して発作が起こったわけではないということが非常に残念なだけだ。
バカがビクッとしてからもう少し歩いた。そろそろ森の出口の方へ向かっているのか、少しずつ明るくなっていく気がする。全開だったバカの瞳孔も小さくなっていく。あ。バカが足を止めた。まだ出たくないのか、それともここが気に入ったのか。バカはゆっくりと首を左右に振りながら、変な夢から目が覚めた人みたいに、ぼっとしながら周りを見渡している。口も少し開いていて、顔までちゃんとバカになっている。何を考えているのだ?いや、果たして何かを考えてはいるのか?
何かを見つけたのか、体の向きを変えた。何を見ているのか目線を追ってみよう。なんだ。岩か。座りたいだけだったのか。もう疲れたのか?それとも、あの岩が気に入ったのか?バカはボロボロのスリッパを履いた足を岩に向けて動かし始めた。足音に変わりがないということは疲れてはいないはず。じゃ、ただあの岩が気に入ったのか?いや、そうでもなさそうだ。もしそうなら、途中もっと座り心地良さそうな岩もたくさんあったからだ。ということは、余計に日差しに当たるより、ここにいる方がマシだと思っているとしか思えない。死のうとしているヤツが何贅沢言っているのか。
結局、バカは岩の上に座った。もちろん、岩の上に先に座っていた砂や木の枝は払い落としていない。服は既に汚れているし、別にどうでもいいが、それで座り心地はいいのか?感覚もバカなのかコイツは。また寝る気か?バカが目を閉じた。このバカが、自然を感じながら、瞑想でもしているとは思えない。別にバカが何しようが興味はないが、見ているだけでムカついてくる。
どれくらい時間が経ったのか。バカが目を開けた。寝ていたのかどうかは分からない。暗いせいで目が赤くなっているかどうかも分からない。なんだ?バカが何かに気付いたかのように顔を下の方に向けた。猫背がどんどん前方に曲がっていく。一体何を見ているんだ。なんだ。蟻か。人間は嫌いなくせに、足が六本もある昆虫には興味あるのか。おそらく、バカは蟻を見下しているだろうけど、あの蟻の方が実はバカより立派なの存在であることには気付かないだろう。あの蟻はちゃんとした組織の中で、ルールに従い、生き残るために、仲間のみんなのために、こうして食べ物を一生懸命に運んでいる。今日だけではない。毎日のように遠くまで歩いて、食べ物を探して、みんなの前まで持って帰っているのだ。それに対し、このバカは、周りに誰もいない、ルールなんて考えたこともない、無職で隠遁生活、食べ物は盗んで食う。このバカの存在価値なんてこの蟻より遥か下だ。なのに、何がそんな偉いのだ、このバカは。
しかし、あの蟻、食べ物を持って帰っているのか。いや、違う。食べ物じゃない。あれはプラスチックだ。バカもそれに気付いてこんな変な姿勢で見ているのか。しかし、蟻がプラスチックなんて持ち歩いているはずがないのに、なんで?ちゃんと見ようとしても、小さすぎて無理だ。この暗闇では、虫眼鏡でも使わない限り、確認はできなさそう。でも、あの蟻、歩き方も変だ。プラスチックが重たいせいもあるだろうが、それだけではない気がする。方向感覚がおかしいのか?もしかしたら、触角を失ったのかもしれない。蟻について何一つ知らないし、そもそも詳しいわけがないが、あの歩き方から何か障害があるというくらいは分かる。だから、プラスチックも食べ物だと勘違いして運んでいるのかもしれない。そう考えると、このバカが蟻にこんなに夢中になっているのが理解できなくもない。そして、何を考えているのかも分かる。
このバカは、
この蟻は、今日も食べ物を得たと、自分の役割を果たしたと、嬉しく思いながら、みんなから褒められ、みんなとこれを分け合い、くだらない会話をしながら、食事を楽しむ幸せな想像をしているはず。実は、命懸けで持ち上げているのが食べ物ではなく、プラスチックだということにも気付かずに。このまま戻ったら、絶対皆から馬鹿にされ、食事も分けてもらえないかもしれない。もしかしたら、処刑になるかもしれない。少なくとも、もう食べ物の探索能力がないということで、捨てられるだろう。このようなことが自分だけにならまだしも、もし、蟻社会に家族という概念があるとしたら、その家族にまで恥をかかせることになる。時間が経てばある程度収まるかもしれない。だけど、茶化されるのは一生続くはずだ。
そんな悲劇を一生味わうより、一瞬。ほんの一瞬だけ我慢する方が良いだろう。その一瞬だけ我慢すれば、仲間たちは人間に殺されたとか言いながら名誉ある死だと扱ってくれるかも知れない。自分の人生が楽になるだけでなく、自分の家族にも誇らしい一員として残れる。蟻社会では英雄として名を残す可能性すらある。やはり、この蟻は、巣に戻らず、ここで死んだ方がいい。
という風に考えているのだろう。だから、今こうやって右手の人差し指で、ゆっくり蟻を追っている。これは絶対殺す気だ。でも、このバカに二つ聞きたい。一つは、このバカにあの蟻を殺す資格はあるのか。死にたい言っているヤツが、自分は死なないくせに、他の命を奪える権利なんて持っているわけがない。殺したいなら、オマエから死んでこいという話だ。
もう一つは、このバカにあの蟻が殺せるのか。こんな鈍いバカが指一本で正確に蟻を押しつぶせるわけがない。だって、今、自分の体のバランスもどれだけ不安なのか気付いていないからだ。蟻ばかりに気を取られて、上半身が前に出過ぎている。蟻を潰すどころか、自分が転倒しそうだ。じゃあ、予言してみよう。あと3秒だ。あと3秒でバカは転ける。3、2、1。
はい、予言通り。しかし、思っていたより派手に転んだな。まるで、事件現場の人間型の白い線のようだ。ざまあみろ、このバカヤロウ。もちろん、蟻は殺せていない。ただ何もない地面に人差し指を着けて、そのまま、見事に顔面から地面に激突しただけだ。服は既に汚れていたし何も変わらないが、ズボンの膝のところに穴が空いた。運が良かったのか悪かったのか。倒れる時、膝がちょうど石とぶつかったようだ。膝辺りから血がズボン染まりつつある。自ら命を絶とうとしているくせに、痛みは嫌なのか。少し眉を顰めている。このバカ、一体どうやって死ぬつもりだ。
とにかく、蟻はプラスチックを持ったまま、全力疾走している。相変わらず方向感覚はおかしいが、必死なのは伝わる。バカは、地面に直撃した顔面を持ち上げ、逃した蟻をじっと見ている。あの蟻を殺すのが自分の使命だと勘違いしているのか?顔に付いている土のせいで、右目は開けないまま、左目だけで蟻を追っている。殺せていないことに未練でも残っているようだ。
このバカは、もう一度、蟻を殺そうと思っているのか。腕を蟻の方に向けてはいるが、潰すにはもう遅い。蟻は、もう見ることすら難しいところまで行ってしまったからだ。なのに、このバカの腕はまだ蟻の残像を追っている。もう指が届くはずもないのに、まだ諦めが付いていないようだ。
もう力が尽きたのか、無意味な嘆きなのか、それとも諦めの印なのか。バカは差し伸べた腕を地面の上に落とした。蟻の姿ももう見えない。もう自分の巣へ戻ったかもしれない。なのに、このバカは、片目で蟻の残像を離さない。多分、蟻の生涯を勝手に想像しているだろう。本当諦めの悪いヤツだ。
また休憩なのか、バカは、転んでいるまま、暫く動かなかった。今やっと足をビクッと動かしたくらいだ。草原の上でのように、立ち上がるまでまた何十分もかかりそうだ。もしかしたら、膝の怪我のせいでもっと時間がかかるかもしれない。だからと言って別に責めるつもりもない。変な優しさとかではなく、面倒くさいし、何より暇だからだ。正直、このゆっくりな動きに退屈を感じてはいるが、ここは黙って待とう。
予想が外れることはなかった。さっきよりも時間がかかった。もしかしたら、倍以上かかったのかもしれない。もちろん、服に付いた土は払い落とそうとしない。膝の怪我は土である程度隠されているが、出血もそろそろ目立とうとする。でも、歩くのは問題なさそうだ。瞑っていた右目も開いたし、そろそろこの森から出てもいいだろう。
バカの歩くスピードが速くなった気がする。気のせいか?いや、違う。微妙な差ではあるが、確かに速くなった。その理由もいくつか思い浮かぶ。もうこの森に飽きてしまったかもしれないし、蟻を殺せなかった現実から逃避したいのかもしれないし、蟻に複雑な感情を抱いているのかもしれないし、ただ自分にムカついているだけかもしれない。どうであれ、悪いのは全てこのバカだ。初めて来た場所なのに、嫌な記憶だけを作ったのは誰でもなくバカ張本人だからだ。なら、もうここも来ることはないだろう。
あと何歩で森から出られる。だが、問題はこのバカが森の外まであと一歩のところですっと出られるかだ。さっきは太陽の見過ぎによる残像で森の中へ入れなかったが、今度は逆に太陽が眩しすぎて進められないだろう。草原でのように、一瞬で睡眠という暗闇の世界から現実という光の世界へ移動するような感じもするだろう。森から出る瞬間、その眩しさにバカは八つ当たりがしたくなるだろうが、今度は引っ張る草もない。自分で全部飲み込むしかなくなる。あ、あと五歩くらいだ。
突然、バカが歩く幅を縮めた。元々大きくなかったし、大差はないが、いつか受け入れなければならない運命の前で、躊躇している鼠のようだ。あと四歩。目の前に壁でもあるかのように、手の平を前にして拒否しているようではあるが、中途半端なせいで、腕は下ろしているままだ。何か恥ずかしいのか、それとも伸ばしたところで変わらないと気付いたのか。どっちにしろ、あと三歩だ。目の瞳孔が少しずつ小さくなっていく。一歩進む毎に光が強くなっていく。影もこのバカの汚い足の爪先まできた。次はこのバカに光が当たる。残り二歩。太陽の光がこのバカの膝の上までを掴んでいるツタように見える。このまま、光に引っ張られ、もう抜けられないような感じにも見える。あと一歩だ。光がバカの首まで上がってきた。バカは予想通り足を止めている。ここから出たら二度と戻れないとでも思っているのか。嫌なら今すぐ後ろに進めばいいだけなのに。まあ、戻ったところで、蟻への未練を引きずるだけだろうが。
今のバカには三つの選択肢がある。あと一歩進んで光に慣れるか、日が沈んだら外に出るか、今すぐ舌を噛んで死ぬか。特に、3番目の選択肢は影と光の境界線で死ねる素敵なチャンスではないか。こんなところで死んだら誰も分からないだろうし、自然の餌にもなれる。
随分と時間が経った。草原で起きてからだいぶ時間が経ったと思うが、真夏のせいなのか、まだ太陽が堂々とこの世界を見下している。この色だと、まだ夕方でもない。でも、そろそろバカの心に整理が付いたのか、足を動かそうとしているようだ。足の甲でスリッパを何センチくらいか持ち上げた。あとはこの足を前に置けばいいだけ。バカが目を軽く瞑った。光がバカの顔を登っている。バカの持ち上げた足は、まるで月で人類が初めて足を踏んだ歴史的な瞬間のように、地面の上に重く着いた。この一歩でこれだけの時間をかけたくせに、バカは次の一歩をすぐに踏んだ。どうした?バカが後ろを振り向いて、一歩前に自分がいたところを見ている。足跡なんて付いていない。土までバカの存在を否定しているかのようだ。なのに、バカは満足げにすぐ前を向いて、もう一歩進んだ。
バカがどこか遠いところを睨んでいる。何に対してそんなに軽蔑しているのかは、バカの瞳の中に写っている。山の色とは全く調和しない黄色い屋根とピンク色の壁の建物。ちょうど一年前くらいに町内会で山をリニューアルすると言って、たったの一日で終わった塗装だ。別に業者を呼んだわけでもなく、ペンキとブラッシュだけを警備員に渡して塗らせた。しかも、黄色のペンキが足りなくて塗ったのがピンク色だ。その逆ではない。もちろん、たまに音がするほどの壁の罅は直してない。変わったのは、くそダサい塗装と、「祝〇〇山リニューアル(〇〇町内会一同)」と書かれてある段幕と、町内会関係者たちの財布の事情だけだ。とにかく、バカはその管理所を睨んでいる。バカの歩き方だとここから管理所まで30分はかかるし、それまで何も考えずに歩こう。
どうした?バカの体が突然大きくビクッとした。まるで虎が接近していることに気付いた兎のようだった。なるほど。確かに、人の気配を感じる。遠くからではあるが、おばさん二人くらいが話しているようだ。問題は登山か下山かだ。声はバカの後ろの方から聞こえる。登山ならすれ違うことないが、下山ならすれ違う可能性が高い。バカもそれがどっちなのか気になっているのか、足を止めた。
これは下山だ。さっきより明らかに声が大きく聞こえている。なのに、バカは何かに期待でもしているのか、感覚が鈍くて分からないのか、足音まで聞こえるくらい大分声が大きくなってから動き始めた。これだとバカの歩くスピードじゃ絶対すれ違ってしまう。さて、バカ、どうする?
バカがまた歩き始めたと思いきや、また散策路ではない道を選ぼうとしている。そこに行くのか?バカはとりあえず、この山から離れることしか頭にないのか、とにかく下へ進もうとしている。おい、そこはかなり急だぞ。あ。バカがバランスを崩した。うわっ。最悪。ぐるぐる回っている。そのまま石かなんかにぶつかって死んでしまえ。
バカが止まったのは麓。管理所がすぐあそこだ。そのまま死ぬのはもちろん気絶すらしていないことには正直がっかりだが、かなり滑稽な転び方だったし、まあよしとしよう。上手く説明はできないが、バカの転び方は、まるでアクション映画のスタントマンのように派手だった。あんな派手な転び方をしたから、おそらく、おばさんたちにも気付かれたのだろうけど、まだ特におばさんたちの声が聞こえてはいない。あっ、しまった。大丈夫ではない。錆がついた鉄のドアが開く音がした。
「おい!青年!大丈夫かい?」
最悪。面倒なことが起きた。あのくそじじぃ、いたのか。この山の警備員のくそじじぃがバカに近づいている。よりによって、今日はあのくそじじぃか。これから厄介なことが起こるぞ。あのくそじじぃは、さっきも言った、いつもバカに話しかける、かなりのお節介な奴だからだ。
「大丈夫なん?」
バカは今何を思っているのだろう。自分を責めているのか、おばさんたちを恨んでいるのか、くそじじぃに怒っているのか、神という存在に憎悪を感じているのか。誰のせいにしようが、全ての責任は足の踏み場を間違えたこのバカにある。ていうか、あの関西弁。聞くだけでもムカついてくる。別に関西弁が嫌いなわけではないが、このくそじじぃの関西弁は聞くとなぜかムカついてくるのだ。
「何がおったん?」
くそじじぃのお節介が始まった。くそじじぃは、このバカが何も言わなくてもいつもしつこく話をかけてくる。その歳なら、返事がないというのはほっといて欲しいというサインだということくらいは分かっているはず。なのに、なんで毎回声をかけるのか全く理解できない。バカがいつも一人でいるから可哀想とでも思っているのか?いつもこの山に来ているから少しは仲良くなったと勘違いでもしているのか?絶対迷惑だと分かっているはずなのに、これだけしつこく話しかけるのは、いくら考えてもただの嫌がらせだとしか思えない。いい歳して何やってんだ、このくそじじぃ。
「ちょっと、立てるかい?」
くそじじぃが突然バカの右腕を掴んだ。人間が視界に入るだけでも嫌がるくせに、意外とバカは抵抗しない。気力がなくて抵抗もできないのか?それとも、こうしているとくそじじぃが諦めてどっか行くとでも思っているのか。バカは寝ている状態で、くそじじぃが持っている腕だけを上げている。死体のようだ。しかし、くそじじぃは諦めないようだ。それもそうと。今までしつこく話しかけてきたくそじじぃにとっては、今が絶好のチャンスだからだ。そう、今この状態は、ただこのくそじじぃといる時間を引き延ばしているだけ。まあ、そんなことにも気付かないからバカだろうけど。
「立てへんのか?ピーポーピーポー呼んだ方がええんかこりゃ?」
くそじじぃ、何を言ってるんだ。何を大事にしようとしてるんだ。バカも「ピーポーピーポー」という単語に反応した。バカならあのトラウマで一瞬警察を思い出したのかも知れない。まあ、くそじじぃの曖昧な表現で、バカがどっちで捉えたかは分からないが、ゆっくりと体を動かし始めた。なんだ。力残っていたのか。バカは先程までは見せなかった速さで左肘を上に持ち上げ、左手を地面に着かせた。これならすぐ立ち上がれそうだ。
「なんや、立てんのかい。ゆっくりでええよ。」
今のくそじじぃのツッコミみたいで別にツッコミでもなんでもない言葉に、バカが少しイラッとしたようだ。一瞬、バカがくそじじぃの顔を見ようとした。しかし、怒りが治ったのか、くそじじぃの顔が見たくないのか、それとも人間の顔を見るのが無理なのか、途中やめて、顔を下に戻した。そんな感情に振り回される暇があるならさっさと起きやがれ、このバカ。ていうか、くそじじぃがバカの右腕を掴んでいるせいで、起き上がるのが余計に難しそうに見える。バカのバランスがおかしくてすぐにでも倒れそうだ。くそじじぃもいい加減離せばいいのに、ずっと掴んだままだ。
「怪我はねぇか?」
てめぇのせいでまた怪我しそうだよ、くそじじぃ。くそじじぃが何を言おうが、バカが何も言わないのは分かっているはず。なのにまた質問をしてくる。ひょっとしたら、このくそじじぃも馬鹿なのか?まあ、だとしても、このバカほどではないだろうけど。バカがようやく地面から両膝を離した。まだ完全に立っているわけではないが、バカにしては、まあ、悪くはないだろう。ていうか、くそじじぃ、いつまで掴んでる気だ。
「おい!怪我しとるやないかい!」
バレたか。老眼なら引っ込んでろ。何見つけてんだ。バカの怪我はさっき森の中で石にぶつかった怪我しかないのか?坂から転んで出来た怪我は特になさそうだ。そう。バカはこんなにもついていない。ていうか、くそじじぃ、何をそんなに見てんだよ。くそじじぃが元々ちょっと曲がっている腰をもっと曲げてバカの膝の怪我を見ている。バカも嫌なのか、くそじじぃが掴んでいた腕を後ろに振って引き離した。これなら掴んでいるのが嫌だったと伝わったはずなのに、くそじじぃの表情に変化はない。いつも通りのキョトンとした顔だ。ていうか、いつまで見てるつもりだ、くそじじぃ。
「ちょっと来てみ?わし絆創膏持っとるで。」
くそじじぃが自慢でもしてるかのように、バカの左肩に手を軽く置いた。バカは掴まれた左肩を後ろに動かしたが、ただの反射神経なのか、拒否反応なのかも区別できないくらい、小さな動きだった。嫌なら今すぐ走り出せばいいのに、なんで普通に立っているんだ?バカだから走り出すという選択肢を思い出せないのか?くそじじぃが怖いのか?もう一つの理由は思い浮かぶが、それの可能性は低いだろう。くそじじぃの偽善に頼っている可能性だ。
なんだ?バカが何かに耐えているように見える。バカが顔を下の方に向いているから、どんな表情をしているのかは見えない。だけど、バカの顔が赤くなっているような気はする。その赤は、恥じらいや悲しみからの赤ではない。顔に力を入れたり、息を止めたりするときの赤だ。くそじじぃが手に力でも入れているのか?どうやらそのようだ。バカが足を少し前へ動かした。なぜだ?どうしてバカはくそじじぃの思い通りに動いているんだ?バカは何を考えているんだ?
「よし、行くで。ゆっくりでええよ。」
バカがまるで戦争の捕虜のように、くそじじぃに連れて行かれている。汚れた服、膝からの血、ゾンビみたいな歩き方、そして、バカの薄っぺらい体が余計にそう連想させている。だからと言って、くそじじぃが勝ったようにも見えない。くそじじぃも中々終わらない戦争で大分疲れたトラウマだらけの兵士にしか見えない。警察が犯人を捕まえたような光景とは全く違う。
「歩けるかい?」
くそじじぃ。バカが嫌々歩いているのを見ているくせに、なんでそんなことを聞いてくるんだ。くそじじぃもコイツを馬鹿にしているのか?馬鹿にされるのも当然のことではあるが、このくそじじぃがコイツを馬鹿にするのは気に食わない。まあ、でも、よく考えたら、バカのことだし、別にいいか。
バカがやっとくそじじぃの手を追い払った。3歩くらい歩いてからだ。何か考えている内に、やっと自分が馬鹿にされていることに気が付いたようだ。このまま出口の方へ進んでここから出ればいいんだが、まだバカがどっちへ進むかは分からない。くそじじぃを気にして管理所へ向かうかもしれない。まあ。怒りと恐怖。どっちが勝つかによるだろう。今までのバカを見ると、まだ決まってはいないはず。おそらく、どっちを選ぼうか直前まで迷って、結局は足が止まるだろう。どっちを選んでも恥じになるからだ。そして、その恥ずかしさを無理矢理隠そうとするだろう。その結果、面倒臭いという言い訳で決めつけることになるのに違いない。
それにしても、くそじじぃ。バカが出している雰囲気が読めないのか、真後ろでバカの歩き方を楽しんでいるかのようにゆっくりと付いてきている。バカが出口の方へ進んだらまた腕でも掴む気か?果たしてバカはそれに気付いてはいるのだろうか?もし、気付いているとしたら、それに悔しくもないのか?くそじじぃがわざわざ馬鹿にしながら合わせているのに、何とも思わないのか?本当に馬鹿すぎる。
「手は大丈夫なん?」
くそじじぃ。なに計算しようとしてんだ。バカがそろそろどっちに進むか方向を決める時点でわざわざ聞きやがった。これは、バカを出口の方へ向かわせないための質問に決まっている。こんなわざとらしい質問が、またコイツを馬鹿にしているとしか思えない。さて、そろそろ決めなければならない。さあ、バカ、どっちへ進むんだ?
「へぇ〜!そうなのかしら?」
くっそ。なんでこんなについてないんだ?突然、遠くから話し声が聞こえてきた。これは、バカが転び落ちる前に聞いていたばばあたちの声だ。間違いない。しかし、わざとらしい大きなリアクションで一瞬聞こえただけで、また静かになった。てことは、まだここまでくるには時間がかかる。そのばばあたちの声のせいなのか、バカはやはり予想通りの動きをした。方向を決めることもできず、足を止めたのだ。もう、どっちにしろ馬鹿な行動になる。手遅れだ。
「よし、入ろう。」
バカヤロウ。多分、今やっちゃったって思っているはず。くそじじぃがバカの肩を掴んだ。ここまで予想通り。くそじじぃが迷惑と説く偽善にしか見えない優しさを装って、バカを無理矢理連れて行こうとしている。なのに、バカは抵抗していない。何だ?くそじじぃが止めなくても管理所へ向かうつもりだったのか?それとも、ただ肩に手を置いたくそじじぃの行動のせいで気持ちが変わったのか?それとも、どっちへ進むべきか分からなかった中、くそじじぃに決めてもらえて内心ほっとしているのか?どっちにしろ、もうこのバカは管理所行き決定だ。
「今日は何しとったん?」
くそじじぃ。やっぱ、完全にこのバカのことを舐めている。さっきまで怪我がなんとか言っていたくせに、急に話題を変えてきた。バカに勝ったと思って余裕でもできたのか?別に興味もないくせに、返事が来るわけのない質問をしてくる。そもそも、バカが何かするわけないだろう。何もすることなくてこの山にきているのを分かっているくせに、わざわざ聞く。そんなこと絶対ないだろうが、万が一バカが答えたとしても、くそじじぃも夜には忘れるだろうし、誰も得しない。ただ、この一瞬だけの生命力を持った、目に見えないくらいの小さな欲求を満たすためだけの暇つぶしの一言にしか聞こえない。だからこそ、このくそじじぃの質問には腹が立ってくるのだ。
「今日来るの見えへんかったんけど、いつ来たん?」
くそじじぃが質問を変えてきた。警備員という名目でこの山に来た時間を聞きながら、その中に無理矢理親しい感じを混ぜてきた。しかも、「いつもは来るのを見ている」とも解釈できる、相手によっては怖い言葉にも聞こえる質問でもある。何か余計な期待でもしているのか、ただコイツをバカにしているだけなのか。それとも、他の警備員たちと賭けをしているのかもしれない。バカを喋らせたらビールを奢って貰えるとか。そうでないと、こんなにしつこく話をかけてくる理由なんてないからだ。どっちにしろ、確かなのは、このくそじじぃがウザいということだ。
「あと少しやねん。ちょっと我慢しな。」
バカが答えないからなのか?くそじじぃが今度は返事のいらない言葉を言った。だからと言って、諦めたわけではない。他の人ならこれだけ質問して一言も帰って来なかったら、イラッとしたり、傷付いたりするかもしれないが、このくそじじぃは別にそうでもなさそうだ。くそじじぃは頭に浮かぶ言葉もない、なのに静かな空気は嫌、だから適当に何でも放ったのに違いない。とにかく、くそじじぃの思い通りになった。あと何歩で管理所に着く。
割と早めに管理所に着いた。早く面倒なことを済ませてさっさとここから出るためなのか、ばばあたちと遭遇する前に管理所に隠れようとしているのか。この二つのどっちかだろうが、もうどうにもできないだろうし、正直、どうでもいい。そもそもバカがくそじじぃの厄介な行動に耐えればいい話だ。
バカが、管理所のドアの前で足を止めた。だけど、ドアを開けようとはしていない。ドアノブを掴もうともしていない。さっさと済ませようとかばばあたちから逃げようとか思っているんじゃないのか?なんだこの迷いは?もしかしたら、突然、新しい迷いが入り込んでバカの行動を邪魔しているのかもしれない。これから管理所の中で起こりそうな出来事が今更よぎって、バカの考えを脅しているようにしか見えない。
「やっぱ手も怪我してんちゃうか?」
くそじじぃがまたコイツを馬鹿にしているような質問をしやがった。くそじじぃからすれば、バカはとても若い。絶対知識も浅いだろうし、若さの強みなんてこのバカには該当しない。ただ年が若いというの数字以外は何一つ勝てるとこはない。だからと言って、バカがくそじじぃに子供扱いされる筋合はない。バカの味方をするつもりではない。普通に考えてそうなのだ。ここまでくると、このくそじじぃ、絶対いい奴ではないということだけは確信できる。
くそじじぃはバカに躊躇する暇も与えず、自分で管理所のドアノブを握った。さっきまでは時間に随分余裕があるように見せていたくせに、あまりにもゆっくりなバカの行動がじわじわ頭にきているのかもしれない。やはり、このくそじじぃの行動は偽善だ。人が転び落ちたから、仕事だから仕方なくこんなことしているだけ。バカに会う度に話かけてはくるが、今日くらいしつこかった日はなかったからだ。あ。くそじじぃがドアを開いた。
「やー、汚いっしょ?」
なんだここは?廃墟よりも酷い。こんな汚いところで働いているのか、くそじじぃ。まるで発掘したての遺跡地のようだ。ドアを開けただけなのに、埃が飛び散る。電線一本で危い命綱のように繋がっている電球は浅い呼吸のような光で中を照らしている。いつもくそじじぃが座って外を眺めている椅子は、いつ壊れてもおかしくないほど、ボロボロの状態だ。肘掛けも今はないが、元々付いていたように見える。シートも千切られてスポンジがいっぱい出ている。座ったら寧ろ腰が悪くなりそうだ。そして、何よりとても狭い。この管理所自体は広いかもしれないが、この椅子と、ボロボロで斜めっているシングルベッド、色んなものが散らかってあるデスクが全部だ。それ以外の裏の広い空間は全部倉庫として使われているように見える。そのベッドの後ろと倉庫の間にはプラスチックの板で適当に作った壁が置かれてある。その壁と天井の隙から古くて壊れているものだけがたくさん積んであるのが見える。くそじじぃがベッドで寝ている間に倉庫のものが落ちたら、多分死ぬだろう。こんな汚いところだが、バカはなんとも思わない。それもそのはず。あの場所の方が汚いからだ。とりあえず、くそじじぃとバカが中へ入った。
「座りな。ボロボロやけど、一応、座れんねん。」
くそじじぃがボロボロの椅子を指差しながら言った。でも、バカは座らないだろう。別に、椅子がボロボロだからではない。老人を目の前にして自分が座るのが申し訳ないという理由はありえない。特に何かがあるわけではないが、ただ反抗期の奴が思うようなくだらないことで座らないだけだ。バカはもう反抗期の歳でもないのに、高校生で時が止まったかのように何一つ成長していない。
「遠慮せんでええよ。ワシはあっちから取ってくるからな。」
くそじじぃ。またバカのことを知り尽くしているかのように言いやがって。ていうか、あそこから持ってくる気か。椅子一個取り出そうとして全部倒すような真似はしないで欲しい。くそじじぃが死ぬのは大歓迎だが、警察がきて事情聴取したりするのは面倒だからだ。ていうか、こんな狭い通路に椅子が二つも置けるのか?置けたとしても、ドアが開けなくなる。もし誰かが入っていたら、くそじじぃはドアに直撃する。正直、それは少し見てみたいな。くそじじぃがドアに直撃して椅子から転び落ちる場面か。面白そうだ。
くそじじぃが椅子を取りに奥へ入った。何かをガタガタしている音は聞こえるが、奥はこの生命力の弱い電球じゃ光が届かない。暗くてくそじじぃの姿も見えない。そういえば、あのくそじじぃ、幾つなんだろう?杖は使ってないけど、背はある程度曲がっている。そんな体で制服なんか着てもみっともなく見えるのは変わらない。シワシワな顔のせいで貫禄があるように見えるかもしれない。けど、こんな仕事以外には必要ともされない衰えた人間とも見える。そんなくそじじぃが椅子を取りに暗闇の中へ入る瞬間が、まるで死を迎えるのを描写しているように見えた。
それはさておき、もしここから出たかったら今しかないぞ、バカ。駄目だ。さっきからバカはもうあのボロボロの椅子から目を離していない。今が逃げれるチャンスなのに、何を考えているんだ?もう逃げるという選択肢は頭の中から消したのか?別に今逃げたとしても、このちっぽけな山、出入り禁止されるわけないぞ。何を恐れているんだ?そもそも、死のうとしている奴が何で恐れているんだ?バカはもう自分だけの世界に入りすぎて他のことが考えられなくなっているようだ。あの蟻の時のように。
あ、ガタガタしている音が止まった。取り出したのか。バカはその間何もできず、ただ椅子を眺めていただけ。やはり埃が多いのか、くそじじぃが椅子を叩いている音が聞こえる。まるでバカがここから出る最後のチャンスを逃したと知らせているアラームのようだ。あと少しでくそじじぃは暗闇の中から出てくるだろう。
「座っとるか?座らねぇと椅子置けんかんな。」
くそじじぃが暗闇の中から言った。その声でバカは自分の視野が狭くなっていたことにやっと気付いたのか、椅子から目を逸らした。何?今出ようとしてるの?何で今更ドア見てるの?もう遅いぞ。今から出ても多分あのくそじじぃに捕まえられてここに連れ戻されることになる。このバカに残っている選択肢はおそらく一つしかない。とりあえず座ることだ。
このバカももう座るしかないと断念したのか、椅子に近づいている。デスクの上に両手の指を軽く置いた。デスクも拭いてないのか、バカが指を置いただけで指周りの埃が飛んだ。ここの奴ら、どんだけ面倒くさがり屋なんだ。あまりやることもないくせに、掃除くらいはちゃんとしろよ。こんな給料泥棒たち、全員クビになっても何一つ文句言えないだろうな。
バカが肘をゆっくり曲げながらお尻を椅子の方に置こうとしている。座り方はくそじじぃみたいな年寄りの人間たちと変わらない。あまりここの管理人の奴らと変わらなさそうだし、何なら雇ってもらえるかもしれない。おい、バカ、履歴書でも送ってみたらどうだ?あのくそじじぃの後輩になれるかもだぞ?
くそじじぃが足を引き摺っている音が聞こえる。椅子の音はしない。両手で抱えて持ってきているようだ。バカはその引き摺る音がすると同時に、椅子の上に座った。力がないからか、怪我で膝が痛いからか、それともくそじじぃの足音にびっくりしたのか。椅子のシートまであと20センチくらい離れているところから腕の力を抜いてお尻を落とし、少し強めに座った。これくらい、普通の椅子なら大丈夫だろうが、このボロボロの椅子はパキッと音がした。どうやらもっと壊したようだ。一瞬、バカが後ろに倒れそうになった。
「大丈夫かい?」
バカが倒れそうな瞬間、くそじじぃもちょうど暗闇の中から椅子を抱えて生還した。大丈夫かと聞きながらも、顔は全然心配しているように見えない。別に、心配して欲しいわけではない。ただ、心にもないことを社交辞令のように適当に喋ったのがとても不気味なだけだ。心の中では笑っているのに違いない。単純にバカが倒れそうになったのが面白かったのかもしれない。しかし、この椅子で倒れそうになったのはバカだけではないはず。他の管理人とかがこの椅子に座ろうとして何度かバカみたいに倒れそうになったはずだ。このくそじじぃだって、何回もそうなってたかもしれない。過去の倒れそうだった瞬間を思い出して、やっぱ若い奴でもこうなるのかと思いながら、心の底で笑っているような気がする。
「よいしょ。」
くそじじぃが、持ってきた椅子を床の上に置きながら小さく言った。くそじじぃもこんなこと言うのか。こんなこと言っても何も変わらないし、全くかわいいとも思わないのに、何でわざわざ言うのかが理解できない。ただ気持ち悪いだけだ。気持ちが悪すぎて、イラッとする。多分、座る時も言うだろう。
しかし、くそじじぃが持ってきた椅子も相当ボロボロだな。もしかしたら、バカが座っている椅子よりボロボロなのかもしれない。あの椅子、今は黒だが、元々は違う色だったように見える。プラスチック製だから単純に変色したせいもあるだろうが、垢で色が変わったように見える。何なら、戦場から拾ってきたようにも見える。肘掛けは、左側は壊れていて、右側しか残っていない。背もたれも半分くらい壊れている。誰かが蹴ったり、投げたりしてたかもしれないが、よく見ると、火に焼けた跡が見える。この山、昔、火事にでも遭ったのか?もしかしたら、本当に戦場から持ってきたのかも。まあ、そんなことどうでもいいか。とにかく、くそじじぃが持ってきた椅子は、脚に罅がたくさん入っている。これこそ、いつ壊れてもおかしくない椅子だ。こんな椅子に座るなら、ベッドに座った方がいいんじゃないか?バカに同情でも買おうとしているのか?好意でも見せて、できるだけ偽善を善に装って見せようとしているのか?いや、椅子を持ってきたのは、ただバカをここから出させないためかもしれない。とにかく、くそじじぃ、行動一つ一つ、全部が気に食わない。誰かドアを開けろ。
「その椅子危ないねん。気付けた方がええで。」
早く言えよ。やはり、このくそじじぃ、バカが倒れる光景が見たくてわざとここに座らせようとしたのか?やはり心の底では笑っているのに違いない。そうじゃなければ、最初から伝えたはず。あ。変な音。くそじじぃが椅子に座るや否や何かプラスチックの変な音がした。椅子の脚にある罅がくそじじぃの軽い体重に押されて、隙が見えるところが何箇所もある。これは今すぐにでも壊れそうだ。早く壊れろ。
「えーっと、確か絆創膏はここにおるはずや。」
くそじじぃが左手でデスクの棚を開けながら言った。電球が弱すぎてちゃんと見えてはいないが、くそじじぃが引き出したところに色んな物が雑に入っているのは分かる。いつ蜘蛛が出てきてもおかしくないだろう。あまりにも色んな物を詰め込んだせいか、中々探せないようだ。何やってんだ?くそじじぃが中の物を一つずつ取り出して、デスクの上に置いている。その殆どは普通に業務用の工具だらけだ。えっ、パン?どうしたらそれがそこから出るの?いつ買ったんだよ。紙屑もたくさん出てくる。遺書でも書き直しているのか?このくそじじぃ、物が捨てられない強迫症なのか?どうせ直に全部いらなくなるのに。
「ここにおるはずやのにな。おかしいな〜。」
どんだけ入れてんだよ。そんな入る棚でもないのに、元々ゴミいっぱいのデスクの上に山がもう一つできた。こんなんでよくもクビにならないな、このくそじじぃ。それもそうか。区役所の奴らは自分の腹さえいっぱいになれば、どうでもいい奴らだからな。必ずなんかやると言い張って、国からできるだけ予算を引っ張ってくる。だが、言い訳ばかりで全ての企画を無くして、吸っている途中ポイ捨てしたタバコみたいなのを芸術作品だと嘘をつきながら巨額で買う。もちろん、作者とは口を合わせて裏に金を回す。この山の頂上にある像がまさにそうだ。ミニマリズムだ何だとか言うが、誰一人その意味も知らないし、見にも行かない。
「よー!おったで!」
くそじじぃがようやく見つけたようだ。左手に絆創膏の箱を持っている。思っていたよりデカい箱だ。箱に書いてある商品名はくそじじぃの指のせいで半分しか見えないが、メーカーはちゃんと見える。でも、聞いたこともない会社だ。何だこの百均でも売ってなさそうなデザインは。誰が買ったか知らないが、薬剤師かペテン師かに騙されたな。いや、区役所の奴らが裏で金を取るために安い物を発注したのかもしれない。どっちにしろ、効果は全くなさそうだ。
「これな、結構デカいねん。多分、1枚ずつ貼れば、大丈夫やと思うで。」
くそじじぃが箱から絆創膏を二つ取り出した。いや、くそじじぃだから指に感覚がないのか一気に3枚を取り出した。そして、一旦、デスクの上に置いて、1枚は箱の中に入れず棚の中に投げた。それにしても本当にデカい。小さめの湿布くらいある。この大きさの傷なら、絆創膏では済まないだろ。全く実用的ではないサイズだ。安くて大きければなんでもいいとでも思っているのか?とにかく、バカは自分の悪い頭のせいで、こんな変な絆創膏まで貼られる羽目になった。バカに今何を思っているのか直接聞いてみたいくらいだ。
「脚出してみ?」
くそじじぃが言ったことに従うようなヤツではない。心の底ではきっと出鱈目な理由を付け、くそじじぃを恨んでいるはず。脚もチッとも動かさない。管理所に入って椅子にまで座ったくせに、まだプライドが残っているのか?くそじじぃもバカが脚を出すはずないってことくらいは分かっているだろう。くそじじぃが上半身を少し前にしている。そして、絆創膏を持っていない手でバカの脚を掴もうとしている。いや、場所が狭いせいで、もう掴んでいる。くそじじぃのゆっくりな動きにも、バカの脚はすっと引き摺られていく。まるで動きたくない、指輪をかけられた子犬が道端で飼い主の力によって無理矢理引っ張られているようだ。
くそじじぃがバカの傷を見ながら眉間に皺を寄せている。何?老眼か?それとも自分の無知にテンパっているのか?もしかしたら、思っていたより軽い症状だからなのかもしれない。まあ、どうであれ、あと何秒くらいで分かるだろう。このくそじじぃは、シーンとしている空間が嫌いで、すぐなんでも言っちゃうからだ。
「結構血出とんな。よう見えへん。」
正解は老眼か。そうか。絆創膏があれだけデカい理由も分かった気がする。よく見えないから適当に貼っても大丈夫なものを買ったのか。それなのに、血のせいにしてなんとか自分が老眼ではないことをアピールしたがる。もう誰が見てもくそじじぃだし、それくらい認めたらどうだ?
「こりゃー、血拭かんといけんな。拭くもんないんやけどな。」
何してんだ、このくそじじぃ?何スボンの膝の穴の中に指突っ込んでんだ?まさか、指で血を拭こうとしているのか?このくそじじぃは衛生という概念は知っているのか?もちろん、ウイルスかなんかをバカに感染させて、バカを死なせるチャンスなのかもしれない。だけど、こんな汚い生活をしても何も起こらないこのバカにとってはその可能性はとても低いだろう。とにかく、くそじじぃが相手に嫌がられる行動をしようとしている。
「ここか?痛いん?」
なんだ、くそじじぃ?別に血を拭こうとしているわけでもなかったのか?ただ絆創膏を貼る場所を探しているだけだったのか。どうせくそデカい絆創膏出し、適当に貼ればいいだろ。しかも、今まで何も言わなかったヤツが、脚が千切れたわけでもないし、こんなんで痛いとか言うわけがない。やはりこのくそじじぃも頭が悪い。
「血は結構出とんねんけど、大したことではないと思うで。」
何勝手に決めてんだ?自分の傷じゃないからって、適当なことを言いやがる。ただ声出さなければ大したことないのか?医者でもないくせに何勝手に診断しようとしてるんだ?確かに、子供でもよくできるような傷だし、大したことではないだろう。だけど、無理矢理歩かせたり、汚い指で傷を触ったり、痛くさせといて痛いか聞いたり、やっていることが全部非常識で不愉快極まりない。こんなの馬鹿で貧乏ばかり集っている田舎だから済んだだけ。このご時世、都会でこのようなことをしたら、訴えられてもおかしくないだろう。ていうか、このバカは別に大したことでもないのに、くそじじぃなんかに甘えているのか?本当にみっともないやつだ。
「とりあえず、適当に貼っとくから、後は家でやってな。」
やはり、このくそじじぃ、ただここの管理人だから仕事として接しているだけだ。仕事上、適当にでもなんとかしなければならないからやっているまでの偽善なのだ。もう一つあるかもしれないが、このくそじじぃがそれを考えたとは思えない。くそじじぃはどうせ、そんな配慮できるやつでもなければ、そこまで考えられるやつでもない。とにかく、今までの一方的な会話も全部、暇つぶし兼防犯という理由で仕事上仕方なくやっていたということだ。このくそじじぃには嫌味しか感じない。
「よし、反対の脚出してみ。」
くそじじぃどこに貼ってんだ?ズボンの上に絆創膏はるやつなんといるか?しかも、両手を震えながら貼ってちょっとズレているじゃねーか。血も拭かずに貼ったせいで、肌色だった絆創膏の色はすぐに赤に染まった。だけど、傷口は防いでいない。なんなら、ズボンについていた砂のせいで、絆創膏がデコボコしている。くそじじぃ。本当に適当に貼っちゃったのか。反対側も言うまでもない。同じく適当に貼るだろう。
「よし。できたで。」
期待が外れることはなかった。このくそじじぃ、また適当に貼りやがった。こっちもズボンの上に貼られた絆創膏がデコボコしている。しかも、今回はもっと適当だったのか赤く染まらない。なのに、何満足してんだ、このくそじじぃは?いたずら感覚で貼ったのか?もし、バカが管理所に入らなかったら、今頃市場の入り口までは歩いただろうに。このバカが起きてから選択したのは何から何まで全て間違っているし、このくそじじぃのやっていることは全て偽善。どっちも頭が悪いせいか、なぜかこの二人の行動が簡単にまとめられた気がする。
「立てるかい?」
くそじじぃが、バカが椅子から立ち上がろうとしているのを見て言った。しかし、今度は一切手伝おうとはしない。自分の役目はもう終わったということか。バカは両手をまたデスクの上に置いた。そして、尻を持ち上げようとしている。当たり前ではあるが、バカが椅子に座る時をリバースしているようだ。一瞬後ろに倒れそうになったのまで、座った時とそっくりだ。急に力を入れたせいか、バカはまた一瞬後ろに倒れそうになったのだ。しかし、2回目は面白くなかったのか、くそじじぃはあまり気にしてないようだ。ていうか、くそじじぃ、なんでどかないんだ?こんな狭い空間だから、ただ座っているだけでも邪魔で仕方がない。これではバカが出られない。まだ何かでも残っているのか?
「ちょっと待って。」
くそじじぃ、なんのつもりだ?一体何がしたいんだ?バカも何動きを止めているんだ?自分がどれだけ馬鹿にされているのか気付いていないのか?流石バカなだけはある。しかし、バカはいつも通り、くそじじぃを見ていない。今日も一回も見ていない。そもそもこのバカはくそじじぃの顔を見たことはあるのか?
「これ持って行きな?」
くそじじぃの手に、さっき絆創膏を探すときにデスクの上に置いたパンがある。いつ買ったかも分からないパンだ。賞味期限は大丈夫なのか?カビとかは生えてないか?こんなところにあったから余計に不味そうだ。パンもわざとメロンっぽくしようとして緑で作ったメロンパンだ。カビが生えているとしてもバカは気付かなさそうだ。しかも、あのパン屋か。あそこなら、絶対パサパサするはず。飲み物なしで完食は無理だ。今日一日何も食べていないとはいえ、バカはこのパンを貰わないだろう。絆創膏まで貼って貰ったくせに、まだプライドが残っているのか、バカはそのままドアの方へ進もうとしている。
「今食べんでええから。後で食べな。」
バカはくそじじぃを無視しながら、ドアに向かって一歩進んでいる。流石に足が上がらないのか、くそじじぃの膝の前とデスクの間にある隙を無理して通ろうとしている。くそじじぃはそれを見て後ろへ下がった。だからと言ってくそじじぃから優しさが出たわけではない。ただ社会の暗黙的ルールによって無意識でそうなっただけだ。まあ、どうであれ、バカは割とすらっと通れた。貧血か?バカはたったその一歩で倒れそうになって、すぐドアノブを握った。その姿を見たくそじじぃが口を開けたまま、ぼっとしながら見ている。あのあほみたいな面、一発殴ったら気持ちよさそうだ。
バカがドアを開けた。このバカの間違った選択のせいで、とても長く遠回りした気分だ。いや、気分ではなく、事実だな。管理所が暗かったせいか、少しずつ沈んでいく太陽の光にバカが目を細くした。この太陽というやつは、いや、これを作った神というやつはいつまでバカに意地悪する気なのか。いつの間にか、くそじじぃも立とうとしている。バカに付いてくる気なのか?バカは眩しいからか、怪我のせいなのか、ちゃんと歩けていない。これはまた捕まえられる。
「へぇ〜、じゃ、私も誘って?」
このバカはどこまでついてないんだ?ちょうど、先程の下山しているばばあたちが管理所の前を通っている。起きてすぐ神を冒涜するようなことを言ったせいなのか?ここまで付いてないヤツも珍しいだろう。バカはもう引くにも引けない状況になっている。とりあえず、バカは進むことにしたようだ。顔を下に向けて管理所から出た。
「ちょっと待ちな!」
やはり、くそじじぃがパンを手に持ったままついてきた。しかし、まだばばあたちには気付いていないようだ。でも、ばばあたちは、くそじじぃとバカを見て歩くスピードを少し下げた。なんかコソコソ言ってるけど、何言ってるのかは分からない。まあ、いいことではないということだけは確かだ。どうせ、勝手に疑って悪口を言っているだろう。とにかく、バカは予想より早くくそじじぃに捕まえられた。
くそじじぃがバカの肩を掴んだのを見たばばあたちは、事件現場でも目撃したかのように、急に近づいてきた。噂話や悪口を言う素材でも欲しいのか?少し縁を描きながら接近してくる。このばばあたちにとって、この他人事は、ただの娯楽に過ぎないのだ。
「なんか食わんと!」
くそじじぃはまだばばあたちに気付かず、パンをバカに渡そうとしている。バカはそんなくそじじぃの手を避けている。しかし、バカが意図的に避けているようには見えない。偶然、バカの肩の動きとくそじじぃの手が噛み合わないだけのようだ。こんな偶然ではない限り、バカは何もできないのか。くそじじぃはバカがわざと受け取らないと感じているのか、また無理矢理自分の意思だけを強要しようとしている。あ。くそじじぃの手が止まった。どうやら、くそじじぃの視界にばばあたちが映ったようだ。
「こんにちは!」
くそじじぃが顔だけをばばあたちに向け、急いで作った笑顔で話した。ばばあたちは、疑いの目では見ているが、自分たちの望んでいる事件現場ではないということに気が付いて、少しガッカリしたように見える。そのせいか、くそじじぃの笑顔を見た途端、急遽作った笑顔がとても不自然に見える。目が笑っていないのは当然だし、口は感情のないロボットよりも酷い。ばばあたちの皺のせいで余計にそう見えるのもなくはないだろうが。
「あら、こんにちは。」
「こんにちは。」
ばばあたちも仕方なくくそじじぃに軽く会釈している。自分たちがどれだけ硬い笑顔を作っているのかは意識できていないのか、変な表情のままだ。もちろん、バカは、くそじじぃの顔もばばあたちの顔も見ていない。顔を下に向いたまま立っている。ばばあたちも、バカを無視しているようだし、別にいいだろう。
「そちらの若い方は?」
一人のばばあがくそじじぃに聞いた。でも、バカのことはなんとなく知ってはいるはず。こんな小さな町にバカのことを知らない人はいないからだ。でも、別にバカに興味があって聞いたわけではない。自分たちの暇つぶしとして使えそうな素材が欲しいだけだ。もし、今何か言うとしたら、明日には町の全員に話が渡っていることに違いない。質問をしていない方のばばあも事件の話が聞きたいようだが、自分に被害が当たらないよう、他人に任せているようだ。どっちも嫌悪感しか感じない。
「あ、この青年な!この子は、えっと、よくここにくる子やねん。え、あったことないん?」
普通に言えばいいのに、なんで質問で返すんだ?くそじじぃ、また余計なことしやがって。これは話が長くなる予感しかしない。もしかしたら、このくそじじぃ。若いとか関係なく、性別が女性であれば、誰とでも話したがる変態なのかもしれない。バカに話しかけるのはもちろん、ただの警戒だ。
「へぇ〜そうなんですね!」
「なるほど!そうなんだ!」
全く興味ないくせに、よくもそんなリアクションが取れるな。あの変な表情から見ても、このばばあたちの心の中は全く違うだろう。そんなことはどうでもいいから、早く事件の話をして!私たちを楽しませろ!と思っているようにしか見えない。もし、そうでなければ、どうせつまらないだろうと思って、夕飯何食べようかばかり考えているのに違いない。
「イケメンですね!」
「本当!かっこいいね!」
どこがだ?ばばあたちが、一回バカを見るふりだけをして、またくそじじぃを見ている。そう。バカの顔は一切見なかったし、別に見ようともしていなかったのだ。そもそも、このばばあたちは、バカの顔が見れない。バカが顔を下に向いていることもあるが、ボサボサのロン毛で、慣れていない人はバカが正面を向いたとしてもちゃんと顔が見えないからだ。しかも、こんな泥だらけの服を着たヤツをイケメンと思うやつなんているか?だから、このばばあたちのお世辞には吐き気がする。本当にゲロをあのばばあ面にぶっかけてやりたいくらいだ。
「な?こう見えて、結構いい青年やで!」
くそじじぃもバカについて何も知らないくせに、また適当に言いやがる。今までくそじじぃが一方的に話をかけただけで、バカについての情報は何一つ引き出せていないからだ。「こう見えて」は、まあ、汚い格好をしているから分かる。でも、「結構いい」は絶対嘘だ。今日のことだけ考えても、このバカからいい面なんて何一つ見つけられないからだ。もしかすると、結構都合のいい青年を言いたかったのかもしれない。しかも、あの口調。自分が集めたコレクションのものを人に自慢しているのうに聞こえる。何回か話しかけたことがあるというだけで、自分のものにでもなったと勘違いしているのか?やっぱり、このくそじじぃからも嫌悪感しか感じない。
「そうなんですね!」
「へー、そうなんだ!」
何がへーだ。今のくそじじぃの言葉で何が分かったというのだ。ばばあたち、自分たちがどれだけ気持ち悪いのか考えたことはないのか?別に、そんな大きなリアクションしなくても、別に変わることは一つもないはず。ただウザいと思われるだけだ。もしかしたら、それにも気付かずに、自分たちがかわいいとでも思っているのかもしれない。誤解にも程がある。ただ歳をとっただけで、多分精神年齢はとても低いだろう。
この状況、もしかしたら、バカにとってはチャンスなのかもしれない。ばばあたちを目の前にして、くそじじぃがバカに無理矢理パンを渡せようとするとは思えない。だから、今のうちにここから離れれば、バカはくそじじぃの偽善に飲み込まれなくて済む。やってみる価値は十分ある。問題は、このバカにそれができるかだ。
「何かあっ、」
隣の人にリスクを全任させていたばばあが、もう聞いても大丈夫だろうと思ったのか、噂話できるネタを探ろうとしているようだ。しかし、もう何も言わなさそうだ。突然、バカが出口の方に向かって歩こうとしたからだ。バカの急な行動に、あのばばあは少しびっくりしたようだ。しかし、ひっくりしたのは、単純にバカの行動に驚いたのでも、バカが自分の意図に気付いたと疑っているのでも、自分が嫌なことを聞こうとしていたことを悪く思ったのでもない。このばばあが驚いた理由は、「お前如きが、この高潔な私が話そうとしているのを遮って帰ろうとしているのか?」という、プライドから来る怒りでの驚きだ。あの少し力が入った丸い目が、バカに、「私の聖なるみ言葉をちゃんと聞きなさい」とでも言いつけているように見える。
そんなことより、バカも今がここから離れるチャンスだと気付いたのか。思ったより気付くの早かったな。バカが出口の方を向いて歩いている。とはいえ、まだ2歩しか歩いていない。しかも、幅も短いせいで、くそじじぃが手を伸ばすだけでもバカを掴むことができるくらいの距離だ。だけど、バカがあと2歩くらい歩けば、くそじじぃもパンを渡すのは諦めるはず。早く歩け、バカ。
「ちょっ、これ!」
このくそじじぃが。さっさと歩けば済むだけのことを、くそじじぃが無理矢理バカの手首を掴んで、パンを渡した。だけど、このバカにも苦笑いしそうになる。くそじじぃの手を追い払えばいいのを、パンをそのまま受け取っちゃったからだ。このバカは一体何を思っているんだ?こんなパンなんて貰ってどうしたいんだ?そんなにパンが食いたいのか?そんなの美味しいとでも思っているのか?そんなの貰って嬉しいのか?少なくともこの瞬間だけはあのくそじじぃを恨んでいるのではないのか?ただ避ければいいのを、渡されても捨てればいいのを、それができないのか?自分の全てを否定してまでこのパン一つが貰いたかったのか?そんなにお腹が空いていたのか?死にたいと思っていたわけじゃないのか?やはり、一番憎悪を感じるのは、このバカだ。
くそじじぃも普通に引く時は引けばいいのに、それもできないのか。なんでそんな無理してまでバカにパンなんか渡そうとしてるんだ?人前でバカに恥を書かせようとしているのか?そこまでして、バカを苦しめながら笑いたいのか?人前でこんな偽善でも見せると、あのばばあたちにいい人として見てくれるんじゃないかとでも思っているのか?
無理して体をバカの方へ向くくそじじぃの姿に、ばばあたちは引いたようだ。もしかしたら、くそじじぃの急な言葉に引いたのかもしれない。バカが動いた時、自分の話を遮ったことに対して怒っている、くだらないプライドの持ち主のばばあも同時に「ちょっと!」と言いたがっているように見える。別にバカやくそじじぃに興味があるわけでもなく、ただ噂話のネタが欲しくて近付いてきたくせに、くそじじぃのこういった行動に無礼だと思っているだろう。正直、こっちとしてはざまあみろって感じだ。
「どうしたんですか?」
バカの後ろから、また話し声が聞こえてくる。どれがどっちのばばあなのかは分からないがキャーキャーうるさい。無駄に高い声が余計にムカついてくる。どっちも自分の方が会話の主導権を握っていると思っているのか、どっちもさらに生き生きした声に変わっている。少し離れているからさっきよりはボリュームは低いが、高い音に耳が千切れそうなのは同じだ。しかし、バカは今そんなばばあたちの声に気を取られている場合ではないようだ。くそじじぃが何があったか話すのかに気をとられているようだ。だけど、ばばあたちがうるさくてくそじじぃの声は聞こえない。そもそも、太陽から逃げたり、蟻を殺せなかった森から逃げたり、ばばあたちから逃げたり、くそじじぃから逃げたりした。自分が見たくない現実から逃げまくっているヤツが何盗み聞きしようとしてるんだ。
「あ〜それな、」
くそじじぃの声が一瞬だけ聞こえた。バカがくそじじぃからの暴露を聞いて、自分の行動に恥を知って、そのまま自殺すればいい。しかし、少なくともバカにまだそんなことはできないだろう。ほら。さっきまでの動きが嘘だと思えるくらい、バカが急に走り出した。スリッパを履いているのにも関わらず、足が躓くことなく、よく走っている。こんなに走れるってことは、両膝に怪我なんて大したことないし、別に力がなかったわけでもない。ただやる気がなかっただけだったってことだ。力を隠していたという点で、弱くないと思われるかもしれないが、それはまた違う。力があるのにもやろうとしないヤツは、本当に力がない人よりも弱いからだ。これで、くそじじぃの会話を盗み聞きできる自信もないということになる。全く予想通りの展開だ。こんなヤツが自ら命を絶てる訳が無い。自分が何に対して逃げているのかも分かっていないだろう。くそじじぃに暴露されるのが嫌なのか、それとも自分の行動を全否定したいのか。とにかく、このバカはまた逃げている。まだ日も暮れていないのに、これでもう五回目だ。
コイツは能力もなければ、やる気もない。現実と向き合おうともしない、死にたいと思いながらも死なない。こんなヤツに死ぬ資格も、生きる資格もない。何一つまともにできないくせに、死のうとしているふりだけをしながら生きようとしている、ただのバカなのだ。