第一章 燻り
錆色の螺旋階段を降りる度に金属の板を叩く音がする。酷く規則的なようでムラがあるくぐもった音だ。
辺りの景色は紫でどす黒く染まっていた。囚人の牢屋にかかっている鉄格子のような隙間から、覗くとそこは世界の果てのような、放射線物質で汚染されて二度と入れない地域のような印象だ。
空とビルの境界線すら存在せず。まるでそんなものは最初からなかったかのように、酷く空間的ではない。
階段も同じで、降りても降りても出口はない。仮に出口があっても、どす黒い紫の景色が広がっているだけだろう。
俺は浅い眠りに落ちると、こんな夢を三日に一回は見る。半年以上前から同じ夢を見るが、どうこうする気もない。巨大な蜘蛛の巣にとらえられて衰弱した蝶みたいに抵抗力がない。
縛られている感じだ。その糸を全て切る力などないのが皮肉だ。俺が繋がっている糸など、こんなにも脆いのに。恍惚感のない鈍い光の糸が俺にまとわりつく。今日もそんな感じだった。
浅い眠りから覚める前から何となく聞こえる声。この品性のない猥雑な印象を孕む声は奴等しかいない。俺の意識が少しずつ覚醒していく。
「ひゃははは!まじ受けるぜぇ!お前、ワルだなあ」
「おいおい、ちょっと借りただけだぜ?」
「借りるだけで、家まで集金に行ったのかよお!?」
「おーおー、その時のそいつの顔が酷くてよぉ。思わず、頬をつねったり」
「ははは、なんだそりゃ?」
うるせえと思いながら、もう慣れていた。コイツらの話は同じ話の使い回しでループばかりしている。会話ばかりでなく毎日、同じことの繰り返しなのだろう。
だが、別にそんなことはどうでもいい。馬鹿ってのは扱いやすい。馬鹿にされれば気が狂ったようにキレるが、褒めれば馬鹿みたいに喜ぶし、変に勘繰ったりしない。
無茶があれば捨てゴマとして使い。失敗したら制裁を加えればいい。生かすも殺すも俺達の采配しだい。そのためには一緒にいて仲間意識を造っておく必要がある。俺は、只それだけのために一緒に過ごす時間が多いだけだ。
うっすらと目を開ける。ポケットをまさぐって煙草の箱を探す。少し潰れてた箱から取り出した煙草に火を点けた。息を吸い込むと先端がじりじりと燃え始めて赤く光る。吸い込んだブラックミントの煙が頭と肺を満たし、少し楽になる。中毒になった煙草はおしゃぶりの代用品だと聞いたことがある。いわゆる、乳離れの時期を逃した奴が煙草に手をつけるらしい。これは、あくまで心理学的な観点らしいが、そういう連中が多いってのは不思議だと思ったりすることがある。
「あっ!学さん。起きたんすか?」
「ああ」
重苦しく息を吐き出す。自分でも眉間にシワを寄せてるのがよく分かった。
「また、あの夢だ。くっだらねえ」
吐き捨てて黙り込んだ。
「あの夢?」
前にいる四人が目を泳がせる。全員黙った。寝起きの俺は機嫌が悪い。この四人のうち三人はそれを知っている。付き合いは短いが下手なことは言ってこないだろう。だが、一人は知らないから能天気に失言した。
「ああ、女っすか?学さん。好きな女とかいたんすか?それとも現在進行形で―――」
「おいっ!やめとけよ。マサキ」
潜めるような声でカエデが然り気無く会話を中断させようとする。が質問が矢継ぎ早に続いた。黙って聞いてれば、芸能人に例えると誰に似てるのかやら、何処まで進んだのやら、くっだらねえと思ってる感情にくだらねえ話をされて感情に熱が走って沸々と泡立った。
「おい、お前? ドライアイとか心配じゃねえか?」
不意に違う話題に振ると、マサキは何だそりゃ?って小馬鹿にしてきた感じだ。目は口ほどに物を言うのは本当だ。大体、それで争いが起きる。まあ、それを一般人に適用する不良も腐るほどいるが。例えば、『ガンつけた』などと言って金を搾取したり、なかったらボコったりする。
だが、ここでは、その話とは違う。今はあくまで俺の領域だ。良いも悪いも俺が決める。俺に歯向かう要素、それらにはしっかり教えてやらねばならない。
「十秒以上、目を開けてられない人はドライアイです、だそうだ。お前は開けてられるか?」
学が立ち上がった。意図の曖昧さ。それが向こうには不気味な印象だろう。
「余裕っすよ? なんすか? 開けれたら小遣いでもがっ!」
頬を思い切り掴んで喋れないようにする。口に加えた煙草の先端を目の10センチ先に構える。
「左目、潰してやろうか?」
何の躊躇もない振りをした、挨拶でもするかのような言い回し。相手の目が見開き、みるみる間に不安と恐怖に押し固まる。
目を押し付ける仕草をする。その距離は少しずつ縮まっていく。相手も両手を必死に使って抵抗するが俺の握力は捕まれたら簡単に引き剥がせない程に強い。周りの三人が控え目に止めるが、お構いなしだ。
「おい、俺は片手しか使ってねぇぞ」
「やめ……てください」
俺は、そこで気が変わったというばかりに手を離した。拘束から逃れた相手が後退する。
「ムカついたか?」
「いえ……」
マサキは下を向いたまま放心している。
「さっさとアイツを探してこい。俺はもう待てねぇんだよ」
狂気を孕んだその声に空気が電気のようにビリビリと震える。
俺が探している、あいつとは、親父のことだ。母親と俺に毎日のように暴力を震い。金は女と酒に注ぎ込み、最後は愛人を作って出ていったクソ親父。そして母親が死ぬ前も死んだ後も戻ってくることはなかった。世界の果てだろうが地獄の底だろうが必ず追い詰めて、たっぷりと礼をしてやる。世の中も人生もどうでもいい。俺は、そういう価値観を持った。だが、これは範囲外だ。
俺はクソ親父に贖罪をさせて見せる。
――――絶対に!
俺は、ぎりりと奥歯を噛むと同時に煙草の真ん中を指で押し潰した。