【29】初めての(アルフレッド視点)
頼んでいた、大型船などに取り付けられている救命用の浮き具が従者によって届けられ、浮き具とはどんな仕様か夕食後にでもゆっくり見てみようと思いながら食事をしていた。
食事が終わり、茶と食後のフルーツが運ばれてくるのを待っている時に陛下からお声がかかった。
「アルフレッド、このあと私の談話室に来なさい」
この頃は陛下も自分も忙しく、なかなか『家族』で夕食のテーブルに着くことも無かった。そんな中での今夜だったので、陛下の食後酒に付き合わされる……くらいの軽い気持ちで談話室に向かった俺を待ち受けていたのは、思いもかけない話だった。
***
「……では、愛の女神像から二人で泳いで戻るという『今年度の作業』は、罪を告白して受け入れられた後の『試練』であると、こういう意味だとおっしゃるのですか?」
「そうだ。アルフレッドよ……私は学生時代、王太子となったら品行方正を求められると思い、学生のうちに……少し羽を伸ばそうと……愚かで不埒な行動をとっていたことがあった。
私は学園を卒業する前に、当時は婚約者だったイヴァンジェリンに己が罪を打ち明けて謝罪をすると、彼女は私の愚行の数々をすべて知っていたのだ。
ちょうどその年が、女神像十二年ごとの『試練』のうち、一番厳しいものの年だった。
罪を告白した者が挑むための『試練』だ。
罪を打ち明けた時点でその年はもうふた月もなかった。
もはや湖で泳ぐような季節でもなかったが、この年の『試練』を逃すわけにはいかず、さりとてイヴァンジェリンに我が贖罪のために冷たい湖を共に泳いでくれとも言い出せずにいた。
だが、イヴァンジェリンは私を赦し、共に凍えるような湖を泳いでくれたのだ。
……情けないことに私は途中で足が攣ってしまい水を飲んで沈みかけた。イヴァンジェリンに助けられながら必死に水を掻き、どうにか岸に辿り着いた。
湖から上がり、息も絶え絶えの私は言葉も発せられなかった。
歯の根も噛み合わぬ私に、彼女はこう言ったのだ。
「殿下の抱えた罪の重さで、あと少しで二人揃って沈んでしまうところでしたね。でも、助かったということは、罪だけが湖に沈んだのです。私は殿下を赦せますわ」
「母上……!」
「イヴァンジェリン……」
談話室にやってきた母上が、凛とした声で当時言ったという言葉を発した。
以前、叔父上から『学生時代の兄上は奔放だった』と聞いたことがあり、勝手に父である陛下に親近感を覚えた。
だが、今の陛下のお話と母上の言葉を聞いた上では、別の思いがこみ上げる。
俺は、陛下の贖罪と母上の赦しの先に生まれながら、陛下が必死で湖に沈めた罪と同じ過ちを……。そのことがどれだけお二人を、特に母上を傷つけたのだろうか。
「……母上、今更ですが、こんな息子で申し訳ございません……」
「アルフレッド、あなたが謝るのは私たちにではないわ。あなたが陛下の若き日の過ちと同じ轍を踏まないように、そう教えられなかった私たちにも非はあります。
きちんとアリシアさんに罪を告白してからでなければ、女神様の『試練』から何も齎されないことをしっかり理解しなさい」
「無様に、ひたすら無様に何も纏わず赦しを乞う──我が愛の女神様に背いた者にできることはただそれだけだ、アルフレッドよ」
陛下は絞り出すように言った。母上の顏をまともに見られないまま談話室を出た。
どうやって自室に戻ったか、あまり記憶がなかった。
食事に行く前に届いた明るいオレンジ色の浮き具は、身の置き所が無い今の俺のようにこの部屋から場違いに浮いている。
過去の愚かな自分が、何度も何度も今の俺を殴りつけにやってくる。
アリシアに罪を告白して謝罪するのは当然のこととして、今の今まで思い出すこともなかった女性のことを思うと、心がさらに沈んでいく。
同意の上とはいえ、彼女もまた今の俺のように、過去の自分に叩かれるような思いをするのだろうか。
女性が受けるかもしれない俺のそれとは違う『痛み』の種類を思うと、暗澹たる気持ちになる。
楽しみにしていたアリシアとのデートなどという浮かれたものは、もう存在しない。
だが腹を括り、アリシアに会わなければ。
***
前日に先触れを出したとはいえ、こんな早朝にやってきた俺をノックスビル家の家令はにこやかに厩に案内してくれた。
そこにはアリシアだけではなく、ノックスビル公爵と夫人もいた。
「……早くてすまない。出かける前に君と話がしたかった」
公爵と夫人は俺に丁寧に挨拶をしてくれ、早すぎた到着に驚いたままのアリシアを残し屋敷のほうへ戻って行く。
「アルフレッド殿下、おはようございます。さすがに厩でお話という訳にもまいりませんから、どうぞこちらへ」
厩の外にある馬柵で囲われた土が、朝露でしっとりした色を見せていた。そこにちょうど一頭の馬が連れて来られたところだ。
アリシアはその馬柵の横を通り、木々を抜けて小さな設えの庭に入る。
緑を這わせたパーゴラの下に、丸テーブルと椅子が二脚向かい合わせに置かれていた。
「堅い椅子で申し訳ありませんが、こちらでお話を伺いますわ。まもなくお茶が届くと思います」
茶が出されるのであれば話を始めるのはそれからのほうがいいだろうから、それまで先ほど馬柵内に放された馬のことなど、とりとめのない話をする。
ほどなくして、丸テーブルに小さいが張りのあるクロスが敷かれ茶器がセットされた。
朝の涼やかな空気の中、温かい茶にほっとする。
従者は下がり、アリシアの侍女もジャンも見えない場所まで下がった。
「愛の女神像に行く前に、言わなければならないことがあるんだ」
アリシアは驚く顏もせず、まるですべて知り尽くしているような落ち着いた表情を浮かべていた。懸命にそう見せようとしているのか、それともこれから俺が言おうとしていることを判っているのか、表情の裏の裏まで考えられる余裕もなく、喉につかえている言葉を外に出してしまうことにした。
「アリシアに間違った婚約破棄を伝えてしまうより以前、俺は婚約者を持つ身でありながら君を裏切るようなことをした。恋も愛もない相手と、同意の上とはいえ不埒なことを。一切の言い訳はできない。ただただ愚かだった。本当に申し訳ない。デートだなんて浮かれている場合ではなかったんだ……」
膝に手を置き、頭を下げる。
少しの沈黙ののち、アリシアの声が俺のつむじ辺りから注がれた。
「アルフレッド殿下、お顔を上げてくださいませ。お隣に移動することをお許しください」
顔を上げると、アリシアが椅子を抱えて俺の椅子の隣に置くところだった。
そしてワンピースをつまんでポスンと座る。
左側は白い花をつけた低い生垣、俺の右側に椅子を置いて座ったアリシアの意図的なものなのかは分からないが、俺の動きを完全に封じるような形になっている。
「アリシア……?」
アリシアは自身の頬をその両手で軽くパンと叩き、まるで敵の陣地に斬り込むような目をして言った。
「アルフレッド殿下、私にくちづけをしてください」
「なっ……何故、急にそんなことを……」
思わず、身体を引いてしまうほどの眼の力で、アリシアはとんでもないことを口にした。
「殿下からしていだたけないのでしたら、私が奪いにいきます」
「待って、分かった、少し待ってくれ……」
どうしてなのかと問わせないアリシアの謎の覚悟の前に、呼吸を整えるのもうまくいかない。
「……手の甲にとか、頬や額に、ではないのだよな……」
「もちろんですわ……おっ思ったより百万倍も、は、恥ずかしいので、できればすぐに、ひと思いにお願いします……」
まるで刺してくれとでもいうようなことを口にしながら、目元まで真っ赤にしている姿を見て、やっと自分を取り戻す。
理由は分からないが、アリシアが並々ならぬ決意で言っているのだけは分かる。
ならば、行くしかない。
アリシアの背中から腕を回して肩を抱き寄せ、反対の手で頬を包むように引き寄せるとアリシアはぎゅっと目を瞑った。苦い薬を飲み込むようなアリシアがあまりにも愛しくて、その思いに押されながらそっとくちびるを重ねる。
思わず頬を支える手に力がこもる。
くちびるを離さないまま角度を変えると、固く閉じた目は柔らかくただ伏せられているだけになった。
そっとくちびるを離し、胸に抱きとめる。
ほっと小さく息を吐いたアリシアは、静かに抱きとめられるままにしていた。
「アリシア……」
愛しさで頭が爆ぜそうだ。
くちびるを合わせることは、こんなにも心が震えるものだろうか?
「アルフレッド殿下、はしたないお願いをして申し訳ありませんでした……」
アリシアは緩めた腕からするりと抜け出ていった。
「理由を話してくれるのだろう?」
また椅子を抱え、向かいに座り直したアリシアは冷めてしまったお茶をぐいと飲み干す。
そして胸に手を当てて呼吸を整え、静かに話し始めた。
「愛の女神様の今年の『二人の作業』を受けることが、いつの間にか方々のお耳に届き、どなたも同じことを私に言ってくださいました。
『アリシアの心のままに』と。
私は懸命に『私の心』が何を求めているのかを探しました。
でも、どれだけ考えを巡らせても、王家のことや公爵家のこと、ヴェルーデのことと切り離して自分の心を捉えることができませんでした。
公爵家に生まれ育ったことやこの国の第一王子の婚約者であることと、私個人の境目が分からないのです。
それで、私の心が分からないのなら、身体で考えてみればいいのではと思うに至りました。
私ではないどなたかに触れた殿下に私が触れたならば、私の本当の心が分かるのではないかと……」
「そ、それでくちづけを求めたと……答えは……みつけたのだろうか……」
思わず息を呑む。
アリシアになんと言われるのか……。
逆のことを考えただけで血が沸騰するような思いがする。想像だけでこれなのだ、自分の愚かさという巨大竜巻に空高く連れていかれ、そこから地面に叩きつけられる図が浮かんでしまった。
「もしも殿下に触れられたら、何か、嫌な気持ちがするかもしれないと思いました。でも……そんなことはなく、優しく柔らかく温かい気持ちに包まれたと感じました。
私、とっくに殿下の罪なるものを赦していたのだと思います。
殿下がどなたかにその微笑を向けたと考えると、ぎゅっと胸が苦しくなる思いがします。
でも、ただ殿下のお顔を見ている時も同じなのです。
きっとこれが好きだという感情の泉で、そこから湧くものはすべて胸を突いてくるのですね、いつもずっと苦しいです」
「アリシア……。赦すと、俺を赦すと言ってくれるのか……。こんな俺のことを好きだと……」
「はい、私はアルフレッド殿下のことが好きです」
アリシアの顏が水ガラスの向こうにいるようにゆらゆらと揺れている。はっきり見ようと瞬きをしたら、アリシアが溢れて零れた。
……俺は泣いているのか。
「アルフレッド殿下!? ……フレディ様……」
アリシアがそっと柔らかい布で俺の瞼を押さえてくれた。
俺の手を取り、その甲をゆっくりと撫でてくれている。
いろいろな感情が、記憶が、後悔が、波のように押し寄せて俺の肩を揺さぶった。
こんなふうに泣いたことなど、ただの一度も無かった。
「……子どもの頃に、王子としての本格的な教育が始まってから、泣いたことはなかった。感情を表すことは許されなかった。悲しくても悔しくても、軽々しく涙を見せてはいけないと言われてきた。それなのに俺は……嬉しくて、泣いているのか……ダメな王子だ……」
「フレディ様、どうぞご自身を赦して差し上げてください。私の前ではダメな王子様でもいいのですわ。私もとても弱い人間ですから、互いに涙をぬぐい合って生きていけたらと、そう思います」
遠くかすかに馬の低い嘶きが聞こえる。馬の低い鳴き声は機嫌が良い時のものだ。
そんなどうでもよいことをわざと考えながら、少しずつ感情を整えていく。
アリシアの前ではダメな王子でもいい──それは感情を表してもいいという意味で、愚かであっていいというわけではない。
父上は愛の女神像の湖にその罪を沈めたのだと母上は言った。
俺は愚かさを湖に沈め、罪はそれを忘れないために胸の奥に置いておく。
その重さに克ってはじめて、俺はアリシアを守っていくと言えるのだと思えた。
「涙、止まりましたか?」
「ありがとう、君のおかげで止まったようだ」
アリシアの可愛らしい顏を見ると、もう一度そのくちびるに触れて愛を伝えたくなる。
でも、それは今ではない。
きっちりと己が愚かさを湖に沈め、その時こそアリシアに愛していると伝えたかった。




