【28】先を行く人たちの言葉(アリシア視点)
朝の清々しい空気の中で、ノックスビル公爵家自慢の厩に入っていく。
ヴェルーデ建国からノックスビル家は、馬の育成と馬具の製造改良技術によって今の地位がある。ノックスビル家の紋章には蹄鉄がその意匠に使われている。
ノックスビル家の男子は誰もが長髪だ。平和が続いている今も、家の慣習として短くすることはない。お父様はもちろん、弟のハーヴェイも背中の真ん中あたりまでの長髪だ。
もっとも二人ともいつも後ろで一つに髪を縛っていて、下ろしたところはほとんど見たことがないけれど。
今は兜をつけての騎乗の機会が無くなったお父様も、若かりし頃のヴェルーデ最後の戦では、長髪を編んで兜の中に入れ込み戦地に赴いたという。騎馬では自身の髪が兜の安定を扶けるため、男子は皆長髪なのだ。
ノックスビル家の女たちは戦支度をする夫の髪を編む際に、魔除けのリボンを編み込んで無事の帰還を祈ったと、子供の頃に聞かされたわ。
我がノックスビル家は馬と共にここまでやってきた。
今日はこれから、アルフレッド殿下と愛の女神様のところへ行くことになっている。
シャーリド視察の時に私を乗せて支えてくれた、アルーブ種の馬『レニ』に乗って。
アルフレッド殿下が迎えにいらしてくださる約束の時間にはまだまだ早い。
でも、少し考える時間が欲しくて早朝にここにやってきた。
先日、王妃殿下から私への登城の要請を、お父様を通じて受けた。
アルフレッド殿下には内緒でとのことで、名目は王妃殿下と小さなお茶会ということになっていた。
通常ならこんな急にお声がかかることはないけれど、お父様は何か知っていたのか、
『王妃殿下のお話をよく聞きよく考えなさい』と送り出された。
緊張感に震える思いで、婚約が決まった時にお会いして以来の王妃殿下の御前に赴くと、王妃殿下はお優しい声で『急なことでごめんなさいね、楽にしてね』とおっしゃり、手ずから私にお茶を淹れてくださった。
「たくさん話したいことがあるのだけど、まずはシャーリドで大変な目に遭わせてしまったことを王妃としてお詫びします」
王妃殿下のお話は、私などに頭を下げてくださったところから始まりすぐに本題に入られ、それはとても長いお話になった。
***
アルフレッドがアリシアさんと愛の女神像に行くという話を小耳に挟んで、これはアリシアさんと直接お話をしなくてはならないと思ったのよ……。
陛下と私も、二十四年前に愛の女神像の前でその年の『試練』を受けたの。
ああ、あの頃は今のように『二人の作業』とは言われていなくて『試練』と呼ばれていたのよ。
それで、二十四年前と言ったら気づいてくれたかもしれないけれど、そう今年の『二人の作業』と同じ内容のものだったわ。
『愛の女神像から泳いで戻る』という十二年で一番苛酷と言われているもの。
どうして十二年に一度、他の『試練』とは比べものにならないほどに重いものがあるのか、これには訳があるの。
かつてヴェルーデの何代目かの王が王妃との愛を裏切り、秘密裡に囲った女性が子を産んだ時ヴェルーデの水が干上がったという伝承は、アリシアさんも聞いたことがあるでしょう。
愛の女神の『十二年で一巡する試練』は、どうやらその後に創られたもののようなの。
生涯の愛を誓った者がその愛に背いた時、愛の女神の試練を受けることによって贖罪とするという趣旨のようね。
ヴェルーデは一夫一婦制で、国王も側室を置くことは法で禁じられている。
陛下はわたくしとの婚儀以来、当然それを遵守していて他国からは『固い王』と呼ばれているようね。
大きい声では言えないけれど、そんな『固い王』も学生時代はそれなりに自由に振舞っていらした。わたくしは同級生だったから、視界にも耳にも入ってきたの。
月日が経って『固い王』と呼ばれるまでになった陛下は、自分の息子がかつての自分と同じ振舞いをしていると、『王の三つ眼』からの報告の前に膝が崩れる思いがしたそうよ。
陛下が過去を反省し女性を遠ざけ、勤勉に実直に王政に励んで二十年ほどもかかって手にした『固い王』という二つ名をあざ笑うかのように、過去の自分と同じことを息子がしている。
十二年で一番苛酷な『試練』を、その真の意味も知らずにアリシアさんと行おうとしていることを懸念した陛下は、アルフレッドに伝えたようね。
真摯に自分の裏切りを告白し赦されてこそ、あの『試練』の意味があると。
陛下とわたくしが愛の女神様に愛を誓ったときは、もっと寒い季節だった。
そんな日に陛下の今更な告白を聞いて、私は赦そうと思ったのよ。
それは陛下のためではなく、わたくし自身のため。
陛下を赦さずに生きていくことは、わたくし自身を縛り付けてしまうと思ったの。
わたくしは女神でも聖女でもない生身の女だから、ずるいことや悪いことをまったく遠ざけて生きていくことはできない。
陛下に対して少しの駆け引きをしたり、甘えたり、何かを護るために小さな嘘をつくこともあるかもしれない。
そんなとき、陛下を赦さなかったわたくしが、自分を赦せるかしら。赦していいのかしら。
陛下の謝罪は心からのものだったし、わたくしは必死で謝る陛下を可愛いとさえ思ってしまったの。
わたくしを裏切ったことだけではなく、そのためにわたくしまで冷たい湖を泳がなくてはならないことに、本当に心から謝ってくださった。
あの日の『試練』は、文字通りの試練になってしまった。
ヴェルーデ王族の男子が泳ぎを厳しく叩き込まれるようになったのは、実はそれからのことなの。それまでは嗜みとして泳ぎを教わる程度だったようなのに、そこから訓練のようになった。
陛下がどれだけ泳ぎ切るのにご苦労なさったか、陛下がお可哀相だから聞かないであげてね。そううっかり言ってしまうわたくしのことを、わたくしはおかげで赦せるわ。
アリシアさん、あなたにアルフレッドを赦せと言うつもりはまったくありません。それはアリシアさんのお心のままで、誰かに強制されることではないの。
すべてはアルフレッド自身が自分で始末をつけることです。
ただ、母として、やはりアリシアさんにお詫びをしなければなりません。
不肖の息子で、結果的に教育も行き届かなく本当に申し訳なく思います。
『試練』をデートだなんて浮かれていたアルフレッドは、陛下から真実の話を聞いて、今頃青ざめていることでしょう。
アルフレッドは、十歳を過ぎて本格的に第一王子としての教育が始まってから、感情をどこかに封じこめてしまったようになった。
王家の者として正しい成長だと思おうとしたけれど、やはりどこか歪になっていたのね。
アリシアさんと婚約を結んだ当時は、アリシアさんを大切にできなかった。一方で寄ってくる令嬢を適当に扱って平然としていた。
そんなアルフレッドが陛下にシャーリドのことをアリシアさんと共にと命じられてから、瑞々しい感性を取り戻したようになった。それと同時に、過去の行いがアルフレッドの頬を叩きに来た。
私たちはアリシアさんに感謝の気持ちでいっぱいなのよ。アリシアさんは湖にアルフレッドを蹴落としてもかまわないわ。
アリシアさんの心が決めたことに、いつもまっすぐにね。
さあ、お茶のお替わりを持ってこさせましょう。
アリシアさんがお菓子を好きと聞いていたので、急にわたくしが言ったけれどうちの製菓担当の料理人が食べられる花を飾ったミニタルトを作ったの。
あら、とても気に入ってもらえたようでよかったわ。
食べきれなかった分のお菓子は、是非お持ち帰りになってね。
***
王妃殿下のお話を思い出しながら、アルフレッド殿下の裏切りについて考えていた。
学園に弟ハーヴェイの忘れ物を届けた日のことを。
『アルが足枷と言っていた婚約者じゃないの』と私に言った、上級生のリボンをつけていた女性のことを。
後で殿下から『足枷というのは婚約そのものをそう感じていた』と言われたけれど、あの上級生から言われたとき、私自身を殿下が足枷と言っていたように受け止めてしまった。
あの時の、胸を掴みたくなる苦しみ、背中に水を流し込まれたような冷たい感覚は今も覚えている。言葉よりもはっきりと伝わるものがあった。
もしもアルフレッド殿下が婚約者である私をあの頃裏切っていたとしたら、あの上級生なのではないか。
そしてアルフレッド殿下は、私に本当のことを打ち明けてくださるのか。
もし打ち明けられたとして、そのことに謝罪があったとして、私は王妃殿下のようにアルフレッド殿下を赦し、一緒に湖を泳ぐことができるのかしら。
私はいったいどうするべきなのか……。
私の心が決めるものとはいっても、その心がどう決めるべきなのかが分からない……。
考え事を中断して、レニの首の横を撫でる。
「ねえレニ、私はどうしたらいいのかしら。殿下のため、公爵家のため、国のため……私がどうするのが一番いいのか、分からないの」
レニが何か答えてくれることはなく、気持ちよさそうに首を撫でさせてくれているだけだ。
「いくら同じ女とはいえ、その子が答えるのは難しいわねえ」
「お母様! ……お父様まで」
こんな早朝だというのに、お父様とお母様が厩にいらした。
「アリシア、あれこれ考えたとしても、こういうのは勉強のように明確な答えなど出てこないものよ。あなたが殿下と向き合って、その時のあなたの気持ちに忠実に従えばいいのよ」
「お母様、その私の気持ちで決めたことが間違っていたらと思うと……」
「間違ったと気づいたら、そこからやり直せばいい。やり直せないことなんて、人生に思うほど無いわ。ちょっと面倒くさいだけよ」
ちょっと面倒くさいだけ……。『進む道に小石が落ちていたら蹴り出す』お母様らしい言葉だわ。
「アリシア、少なくともアリシアの結婚を考える時に、公爵家のためだとか国のためだとか、そういうことは考えなくていいんだ。それは私と陛下がそれぞれ考えるものだ。
アルフレッド殿下のことを……そうだな、ほんの少しだけ考えて差し上げれば良い。
大事なのはアリシアの気持ちだ。その先にある面倒くさいことは父親である私と、アリシアを望んでいるアルフレッド殿下が引き受けるべきものだ」
お父様……なんだかお母様の考え方に寄ってきていないかしら?
お二人とも、私の気持ちのままにと、そう言ってくださっている。
それは先日の王妃殿下の言葉とも重なるものだわ。
私の気持ち……。
もしかしたらそれが一番難しいような気がする。
誰かのためにと考えたほうが実はとても易しい。そして誰かのためだとかあなたのためだとか、一見素敵な考え方のように聞こえるけれど、どこか押し付けているようにも感じる。
私は私のためを考えて、自分の感情を大事に考えて、その決めたことから生まれたものを全部私が引き受ければいいだけなんだわ。
間違ったらやり直せばいい。自分で自分の決めたことの後始末をすればいい。
今日の私に考えることができる最高の答えに従って間違ったのなら、それはもう仕方のないこと。考えずに間違うこととはまったく異なる。
今の私が考えに考えたことに、私はまっすぐ進んでいこう。
「お父様、お母様、早朝からありがとうございました。私は私の思うように、その結果の後始末は自分ですると覚悟を決めてまっすぐ行ってまいります」
レニが首を前後に揺らし足を踏み鳴らしている。まるで頷いてくれたみたいに。
「そうか。アリシア、決まり事や伝統的なことの中にも自由はたくさんある。ぜひ楽しんでおいで、今日のレニはいい調子で仕上がっているようだ」
「昔ね、大切な友人が覚悟を決めて未来を託せる人の手を取って歩いていったわ。
私にはその相手がいい加減な人に見えて、友人にそんな人やめてしまいなさいなと言ってしまったのだけど、友人は笑って言った。
私があなたなら同じことを言うわって。
結局、私のほうがアドバイスめいたことを言ったのを後悔することになって、友人は幸せになった。きっと選んだ道に一片の後悔もないのよ。
何が正しいのか、決められるのはいつも自分だけね。
気をつけていってらっしゃい。アリシア、私たちはいつでもここにいてあなたの選んだことをただ見守るわ」
私はお父様とお母様に再びお礼を言おうとした。
「アリシア、どうやらせっかちなお方がお見えになったようだ」
「……早くてすまない。出かける前に君と話がしたかった」
振り返るとそこに、アルフレッド殿下がいらっしゃった。




