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【1】お妃教育の最中の婚約破棄(アリシア視点)

お妃教育の日は、午後に食事休憩も兼ねたお茶会のレッスンがある。

主催として客を招いたときのふるまい、客として招かれたときの会話のマナーやテーブル作法などを学んでいる。

では実際にお茶を淹れてみましょうと先生が立ち上がった。

ようやくお菓子が食べられる!

私はこの時間だけを毎日楽しみにしていた。

今日も朝から休みなくお妃教育を受けていた。

先生方は科目によって一人ずついらっしゃるので疲れているのは私だけ。

お妃教育のこのカリキュラムで出されるお菓子は、レッスン用であっても王宮の製菓部門で作られている立派なお菓子だ。

果物もたくさんある。

美しい飾り切りを施されている果物をどう優雅に食べるかもレッスンの一つなのだ。

とてもいいバターの香りのお菓子を前に、先生がお茶を淹れてくださるのを待っていた時だった。


「邪魔をするよ」


「アルフレッド殿下……」


婚約者のアルフレッド殿下が突然やってきて、私の向かいの椅子に横座りした。

この時間は学園に行っているはずなのにどうしたというの……。

アルフレッド殿下は学園の制服姿で、ジャケットを着ているには少々暑いからか、タイを緩めてシャツの一番上のボタンを開けていた。

殿下は本当に綺麗だ。

男性に綺麗というのはおかしいのかもしれないけれど、綺麗としか言いようがない。

指どおりのよさそうな金色の髪に深い青色の瞳。

目や口元といったそれぞれのパーツが美しいだけではなく、その配置のすべてが奇跡のようだった。

整いすぎて恐ろしいと感じてしまうくらいの神様の傑作が目の前にあって、思わず手を合わせそうになる。

端正な顔立ちでやや制服を着崩しているというところが、もう……言葉にならない。


マナーの先生は突然の殿下の登場にも特に驚く様子も見せずに、優雅にお茶を淹れて殿下に差し出す。


「どうぞお召し上がりください。わたくしはこれで失礼いたしますのでごゆっくりお過ごしください」


そう言って下がってしまった。

急に殿下と二人きりにされて私はどうしたらいいのか分からず、ティーカップを持ったまま、その美しい顔に釘づけになる。


「アリシア、とりあえずそれは飲んだらどうだ?」


取ってつけたような笑顔でそう言うと、殿下は自身のお茶を煽るように一気に飲み干した。

はしたないと叱られそうなくらいにその顔を見つめてしまう。

めったになかった至近距離で殿下に接する機会が向こうからやってきたのだから、少しくらいは許してほしい。

お茶の席のマナーレッスン中に婚約者が突然乱入してきたときの対処法があったか思い出せないくらいに舞い上がった。

とりあえず飲んだらどうだとのことなので、お茶をひと口飲んで気持ちを落ち着ける。

でもお茶の味も温度さえも分からない。

顔を上げると、アルフレッド殿下がじっと私を『見定めている』。

婚約者からの視線を『見つめる』ではなく『見定めている』と言うしかないほどの冷たい顔に、ふわふわと舞い上がっていた私はどすんと地上に落ちた。


「アリシア・ノックスビル公爵令嬢。君との婚約を破棄させてもらいたい。

細かいことは追って君の家に伝える」


婚約を破棄……?

そうとしか聞こえなかったから、たぶんそう言われたのだろう。

どれくらいの間、自分が黙って固まっていたのか分からない。


「何か言うことはないのか」


「……殿下が……そうお決めになったのでしたら、私が何か言うことに、何の意味もございませんので……」


「ずいぶんあっさりしたものだな。まあここで泣いて縋られるよりはよいか。

お茶はゆっくり飲んでいってくれ。帰る際にこの菓子は全部持ち帰るといい」


アルフレッド殿下は言い終わらないうちに席を立って、早足に行った。

まるで明日も普通に会うかのような軽い去り方に、ぽかんとその後ろ姿を見送ることしかできなかった。




婚約破棄──。


つい最近のこと、このヴェルーデ王国の隣のフォートナム王国の王太子が婚約破棄をして、その話はこちらの国でも話題にのぼった。

どこまで真実かは分からないが、パーティ会場外の暗がりで婚約者である令嬢の身体を男がまさぐっているところに王太子と護衛騎士が偶然通り掛かるというできごとがあったという。

男は婚約者令嬢に誘われたと言い張ったとかで、王太子はふしだらな女と結婚することはできないと、婚約者令嬢の弁明を一切聞かずに婚約破棄を宣言した。

うわさでは、王太子の手の者が婚約者令嬢に一服盛り、気分を悪くした婚約者令嬢が休んでいるところにこれまた王太子の命を受けたものが手を出したと、そう囁かれている。

そして王太子殿下は婚約者を叩き出した椅子に平民あがりの男爵令嬢を座らせたから、うわさは国境を超えて一人歩きしていた。


この話はそうしたうわさ話が耳に入ってくる環境にあまり居ない私の耳にも届いたくらいで、お父様の執務室に呼び出されて注意せよと言われたのだ。

アルフレッド殿下と私の婚約は王室側が望んだものとはいえ、公爵家である我がノックスビル家にとっても願ってもない縁だった。

隣国のうわさのようなことに遭わないよう、父からはたとえ友人であっても幼馴染であっても男と気安く口を利くなと言われ、パーティ会場では何も口にするなと言われ、話の最後にはお妃教育で王宮に出向く以外は外出するなとなった。

お父様に言われなくても、もともとそんなに出歩くことはない。

お妃教育のために学園を退学し、友人たちとの交流もそれから途絶えている。

多忙な私を気遣ってくれているのか遠巻きにされているのか、声がかかることはない。

退学したのは、婚約が決まった時点で結婚まで一年半しかなく、のんびり学園生活を送る余裕はないと王室側に判断されたためだ。

ヴェルーデ王国の歴史や諸国との交易の流れ、特に南方諸国の言語を、通訳を介さずとも政治や貿易の話ができるくらいに習得するというのが私に重くのしかかっていた。

遊ぶ暇など言われなくても最初からなかった。

お妃教育と家との往復だけの毎日で、眠る直前まで本を手放す時間もないほど頑張ってきたけれど、たった今、理由さえ告げられずに婚約破棄を突き付けられた。


お父様はお怒りになるだろうな……。

婚約破棄だなんてノックスビル公爵家を揺るがす大騒動だもの……。

そう思うと気が重い。

重いなんてものではなく、まるで頭の上に城がひとつ乗っているようだわ。

このまま紙一枚の厚さくらいまでペラペラになりそう。


殿下がお茶を飲んでこのお菓子も持って帰ってよいと言ったことを思い出して、ペラペラになる前にまずは持ち帰りにくい果物を食べることにする。


「美味しいわ……こんなときでも、王宮で出される果物は瑞々しくて美味しいのね」


つい独り言を声に出して、テーブルにあった果物各種をあれもこれも全部平らげる。

手で持ってかぶりつき、こぼれそうな果汁は舐めとった。

マナーの先生が見たらひっくり返るだろう。

繊細な模様のティーポットの蓋をあけ、そこに果物を入れる。

果物の香りが移ったお茶をゴブゴブと注いで、冷めているのをいいことにどんどん飲む。

最後はポットにフォークを突っ込んでふやけた果物を全部食べた。

クッキーとチョコレートは二つ同時に口の中にいれると、上品な甘さがたちまち頭の天辺に届く。

どれもみんな本当に美味しい……。

二つ同時に口に入れるなんていう乱暴なことをせずに、穏やかにゆっくり食べればたぶんもっと味わえるはずね。

本当に家に持ち帰ってひとりでゆっくり全部いただくわ。

膝に置いていたナプキンを広げてお菓子を包み始めたところで、ナプキンにぽたぽたと涙が落ちる。


突然の婚約破棄が悲しいのではなくて、悔しかった。

学園には友人もたくさんいて、楽しい毎日があった。

それを全部捨てるように諦めて、王室が要求したお妃教育を、時には身体を壊して伏せるくらいに頑張ってきたのに……。

それが何一つ報われることがないまま一方的に婚約破棄と言われてしまった。

殿下本人からそう言われては黙って受け入れるしかないことが悔しかった。

私の気持ちというものは、アルフレッド殿下にとってこの世に存在していないものだ。

うっかり殿下のことをお慕いしてしまった私が悪い。

ただの政治的な婚約として、もっともっと割り切っておくべきだった。

子供の頃にパーティで殿下にお会いして以来、私の王子様だった。

あんなに光り輝く人の隣にいたら日に焼けてしまわないかと、子供の私はお父様に尋ねたらしい。

婚約が決まったときにはその話をいろいろな人に言って回るくらい、お父様はこの婚約を喜んでくれていたのに。

涙が次から次と溢れて、こみ上げる嗚咽も止まらない。

お父様、ごめんなさい。



どれくらいそうして泣いていただろうか。

もうここに来ることもないのだと思うと、淋しさのようなものを感じた。

帰ろう……。

もう眠る前に貴族名鑑のような重い本を読まなくていい。

苦手な異国のダンスの練習で足に豆を作ることもない。

そうやって、殿下の婚約者ではなくなって軽くなったことだけを数えよう。

気を取り直してサンドイッチもクッキーもスコーンもチョコレートもみんな一緒にして包んだ。


「……だいたいこの菓子は全部持ち帰るといいって何なの。

このお菓子が婚約破棄の慰謝料だとでもいうの? 

美味しいから全部いただいていくけれども!」


お菓子を包みながら、悔しさや悲しさを怒りに変えないように言葉にして吐き出した。

そのとき、ふっと息を漏らすような笑い声が聞こえた。


「ごめん……笑うつもりはなかったのだけど、つい……」


「……リカルド殿下……いつからそちらに……」


「マナー講師が下がったところあたりかな」


ほぼ最初からいらっしゃった……。

ということは、先ほどの婚約破棄の言葉も聞いていらしたということ……?。

リカルド殿下はアルフレッド殿下の一つ下の弟君で、同じ年の私が学園に通っていたときは隣のクラスだった。

直接話したことはほとんどなかったけれど、アルフレッド殿下に似た面差しのリカルド殿下をよく図書室で見かけた。

いつも友人に囲まれているアルフレッド殿下と違って、リカルド殿下は図書室でみかける時は一人だった。

まさかこんな誰とも会いたくない場面で会うなんて。


「……見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした。失礼いたします」


「ノックスビル公爵令嬢、見苦しかったのは兄であってあなたではなかった」


リカルド殿下の言葉に応えず頭だけをしっかりと下げ、私は包んだお菓子を掴んで逃げるように王宮を後にした。

馬車の中で、頭の中のノートに『婚約破棄の理由は?』と書き込んだ。

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