灯台は崩壊世界を照らすのか?
数日のあいだ家を空けたあと、飲みかけのコーラがコップに残っていた。コップのそこにはネットリと濃縮されたカラメル色素と砂糖が堆積していた。こういうときほどタイムマシーンがあればいいのにと思う。家を出る前にほんの少しすすいでやるそれだけで結果は大きく違っただろう。
ため息と諦めは同じものだ。
もうどうしようもない。あとの祭りだ。カーニバルである。
とはいえ、私は祭りもカーニバルにも参加したことはない。それはわずか八年前まではここでないどこかで行われていたが、いまは世界のどこを探しても行われていない。なぜなら、世界は別のものに熱狂しているからだ。世界崩壊と第四次生存戦争でどこも手一杯だ。
人類を救う新エネルギーと言われた反物質の大規模流出と対消滅による世界の崩壊は、人類を三つの勢力に分けた。滅ぶ地球を捨てて新たなフロンティアーー外宇宙に選ばれた人類を送り出そうとする脱出派。できる限り多くの人類を救うことを目標に空間転移という未知の技術に賭けた転移派。そして滅びることを受け入れて地球にとどまることを決めた黄昏派。彼らは限られた資源と人材を争って愚かなフェスティバルを繰り返している。
私は? と問われればそのどこにも属していないフリーエージェントという奴だ。
少しの嗜好品とバイクの燃料でどの勢力にも力を貸すし、危なくなればすぐに逃げ出す。それが今の私の在り方だ。断固な意志とか不退転の覚悟なんてものは前の世界に置いてきてしまった。だから、いまの私は抜け殻のようなものだ。
そんな私でも今の世界で気に入っていることがある。パタパタとちょっと間の抜けた唸り声をあげる空冷エンジンとヘルメットを着用しなくても怒られなくなったことだ。かつての世界ならやれ法律だ。規則だ。規制だと言われていることが多かった。それが今はない。もしかすると今の混乱が収まれば世界は元に戻ってしまうのかもしれない。そうなるとこのわずかな楽しみも消え去ることになるだろう。だが、そのときまで私が生きているとは限らないし、世界があるとも限らない。
周囲を見渡すと対消滅の余波と思われる衝撃で崩れた建物がぽつぽつと姿を見せているがどれも草木に飲み込まれて人間がこの地から去っていることを示していた。コンクリート片やアスファルトの窪みにタイヤをとられないようにギアを落としてスピードを押さえると少しだけ緑の匂いがした。
緩やかに緑と灰色の丘を抜けると遠くに海の青が見えた。
私はバイクを止めて広がる海の青と文明を飲み込む緑に息をのんだ。
風の音や波の音。草木がこすれる音に鳥のさえずりが耳には届いていたはずだが、私はまったくそれに気づかなかった。それほどに青と緑に圧倒されていた。遠い海に目を向ければ向けるほど海と空の境界はあやふやで交わらないはずの二つが一つになっているようだった。
ディスプレイから見る世界は狭かった。だけど、こうして大地を駆けるとその広さに驚いてばかりだ。いろいろなことを知っている。いろいろなことができたと自負してきたというのこうして野に放たれてみれば私のできることなんてものはわずかしかない。おかしなものだ。かつては万能だと信じていたのいまはそれを信じていたことさえ疑っている。まだ人類が残っている場所にいけば昔の私を知っている人間がいる。彼らはまだ私を魔法の杖だと妄信しているのに、私自身はそれを愚かだと思っている。
ぼんやりとしていた視界に違和感があった。青と緑に混ざったノイズ。それはくすんだ白と赤で緑の大地の端っこでドット欠けを起こしたような建物だった。すらりと伸びた壁面。頂上には丸いドームが一つ目玉のように鎮座している。
私はそれを知識としては知っていたが、見るのは初めてだった。
灯台。
船舶にここに陸地があるぞと教える古来からある設備だ。最初の灯台はナイル川の河口に造られた寺院の篝火だという。私はギアを入れなおすと灯台のほうへとハンドルをきった。かつての道なのか。いまだに灯台を管理する人がいるのか。比較的容易に灯台の根元にはたどり着けた。
灯台は切り立った崖の上にあるらしく、ここから見る海はいくつもの波が岩場にぶつかる荒々しいもので遠くから見るのとは違う印象があった。バイクを止めてスタンドをおろす。鍵を抜くか一瞬だけ躊躇する。もし、この灯台に野盗がいるのなら道中ですでに撃たれていたはずだ。灯台の上からなら狙撃は簡単だからだ。ここまでたどり着けたということは大丈夫だろうと考え直して鍵を引き抜いてスカートの浅いポケットに放り込む。
ゆっくりと灯台に近づくとその大きさに圧倒される。
丘の上からは小さなドットだったというのにいま目の前にある建物は、私を二十人積み上げても真ん中にも届きそうにない。大きいものは人を圧倒させるとは言うが事実だなと知識を経験に変えていると何とも言えない声がした。
「どなたでしょう? ここは私有地であり許可のない人間は立ち入りできません」
不完全な合成音声に男女とも区別のつかない音階。それはかつてよく聞いた音だが、このところはまったく聞かないものだった。音のほうを見れば全体的に歪に人の形を模したロボットがこちらを見ていた。ロボットは脱出派と黄昏派がよく使っている。この地域にも彼らがいたのかと頭を掻きまわしたい気持ちになったが、ロボットは一台だけでとても最新鋭とは言えなさそうであった。フレームはどこかガタついており、表面の塗装もはげ落ちている。
「私は神佐……。いや、フォーリン。旅をしている者です。遠くから立派な灯台が見えたのでついつい近づいてしまったのです。立ち入り禁止なのでしたらすぐに退去します」
ロボット相手に灯台を立派だとおべっかを使う必要はなかったと苦く思ったが、褒められて怒るようなものはいないとすぐに教えられた。
「そう言ってもらえると嬉しいね。大陸の端っこの灯台へようこそ。この五年間で初めての観光客さん」
ロボットの後ろからまばらな髭に肩口まで鬱陶しく伸びた髪を一つに束ねたひょろりとした男性が出てきていた。彼の色白の肌にくすんだ金髪からアングロサクソン系なのは分かったがどうしてこんな場所にいるのかはよく分からなかった。
「観光客だと認めてもらえたから入れてもらえるのですか?」
「もちろん。お客さんからはじめて見学料をもらえるチャンスだからね」
この世界でお金を話題にする人間は珍しい。すでに国というものが曖昧で貨幣は意味をなしていない。大体の場合が物々交換や知識や技術との交換というのが現在の定番である。
「お金といってもこんなものしかない」
私はリュックの外のポケットに残っていた五十円と二十五セントの硬貨を男性に見せた。男性は少し悩んでから「円でいいよ」と口笛を吹いた。五十円を手渡すと男性は笑顔を見せた。
「いいね。こういう経験も。僕はこの灯台守をしているアーサー・ディルモント。実はこの灯台からの眺めを自慢したくてたまらなかった男だよ」
なるほど。私はようやく納得した。彼は単純に灯台の眺めを自慢したかったが、ただというのは嫌だったのだ。だから、特に意味もないお金を要求したのだ。まったく偏屈な精神構造である。見せたいなら最初から案内すればいいのに回りくどいことである。
「そこのロボットもこれで私をゲストとして認めてくれるかな?」
私がロボットに声をかけると、一度だけアーサーのほうにカメラを向けてから「承認しました」という感情のない音が帰ってきた。
「彼の名前は?」
「ああ、彼はL-01。僕はロイと呼んでいる」
形式番号一文字はロボットでも最初期のナンバーだ。現在各地で使用されているロボットは第三世代であることを思えば確実に第一世代の機種である。正直に言えば骨董品に近い。
「ここはあなたとロイだけで管理されているのですか?」
「ああ、人を雇うにしてもこんな大陸の端にはなかなか来てもらえない。どうだい? このままここで働いてみる気はないかい?」
本気とも冗談ともいえる調子でアーサーが就職をすすめるが、私はそれを首を振って断った。ようやく籠から抜け出した鳥が、また籠に戻ることはないのだ。定期的にエサが貰えなくとも自由に空を飛ぶことを覚えたら、もう元には戻れない。いや、少し違うかもしれない。籠を壊した鳥はもう鳥ではないのだ。
灯台の中は少しひんやりしており、一階からずっと螺旋階段が上へ上へと続いている。
アーサーは慣れているのかすいすいと登っていくが私は半分を超えたあたりから必死で足を動かしていた。下をのぞいてみるとロイが一階からこちらをじっと見つめていた。
「ロイは来ないのですか?」
「ああ、ロイは僕よりも高齢でね。こんな階段を上らせてしまえば足を痛めてしまう」
「それってロボットの意味あります?」
「んー、ないかな。でも僕が彼に求めているのはそういうことじゃないんだ」
「どういうことですか?」
質問をするとアーサーはなんとも答えにくそうな顔をした。
「……あれは親父が残したロボットなんだ。八年前にデトロイトに行ったままのね」
「ああ」
自分でも間抜けな声が出た。八年前のデトロイトはきっと地獄だったに違いない。世界最新の大型反物質炉が稼働し、ひと月後に大量の反物質を漏洩させて最初の大崩壊が起きた。原因は一人の科学者が人為的な欠陥を設計に組み込んでいたことがのちに分かった。この意図された事故でデトロイトを中心に多くの人が亡くなり、世界はあっという間に崩壊した。彼の父親がデトロイトにいたというのならすでに死んでいると考えるのが普通だろう。
「そんな顔をしなくてもいいよ。僕も同じことを考えている。だけど、もし親父が生きていたならきっと海路で帰ってくると思って僕はこの灯台守をしているんだ」
そこからは私も彼も会話をしなかった。
長い螺旋階段を抜けると一気に視界が開けて明るくなった。地平線の向こうまで続く海の向こうには彼の父親がいる新大陸があるのだろうが、ここからでも見ることはできない。だが、拭き流れる風はどこか涼しい。片手で髪を押さえたが、私の長い黒髪は風に舞い踊る。
「素晴らしい景色ですね」
「そうでしょう。かつてヨーロッパから新大陸に向かった船はこの灯台の光を最後に見て大西洋に出ていきました。なら、帰って来るときもこの光を見たはずなんです。それなら……」
帰らぬものを待つというのもまた一つの覚悟だろう。
いまの私にはないものだ。かつての私には叶えたい願いがあった。その願いを現実にするために私は努力を惜しまなかった。それによって傷つく人がいることも理解していた。そして、淡々と実行した。すべては願い通りになり私からは何もなくなった。あれほど叶えたかったのにそのあとのことを私はまったく考えてなかったのだ。
「今の世界はあなたにとってどういうものですか?」
「……難しい質問をしますね。少なくとも僕と親父、そしてロイにとっては良いものじゃありません」
「そうですか。あなたのお父さんが無事に戻られることをお祈りいたします」
「ありがとう。そういう君はどうして旅を? 今の世界は気軽に観光できるものじゃないだろ」
確かにそうだ。三つに分かれた世界はエネルギーを取り合って争い。どこへ行っても銃弾が飛び交っている。安全なのは人がいない場所くらいだ。
「……なんでしょう。きっとやることがないのです。ずっと求めてることがあって叶えたらやるべきことが思いつかなくて。それなら世界を見てみよう。それくらいの些細な動機です。今日は素晴らしい景色をありがとう」
私は彼に礼を述べると螺旋階段を降りた。
一階に戻るとロイが無機質な視線をこちらに向けていた。私は彼を無視して出入口に進むと背後から呼び止められた。
「お客様はフォーリンではなく神佐博士ではありませんか?」
私の後ろでロイの声を聴いたアーサーが慌てるような音がした。それもそうだろう。神佐博士と言えばデトロイトを含めた多くの反物質炉を人為的に暴走させた張本人だ。幼くして天才と呼ばれ、それに応えて多くの業績を挙げた。彼女が実用化した反物質炉によって人類はエネルギー問題を克服し、産業革命以来の第二の人類繁栄期をもたらすはずだった。だが、天才はすべてを裏切って世界を壊した。
人類最高の英知は、堕ちて人類最悪のテロリストになった。
もし、目の前にいる女がそのテロリストだとすれば冷静でいられる者はいないかもしれない。
「……そんな」
アーサーは動揺する手で戸棚の一番上の引き出しから拳銃を取り出すと私に向けた。こんな世界だ。自衛の武器を持っていない人間のほうが少ない。私が彼らを無視して歩き出すと軽い破裂音がして出入り口の扉に穴が開いた。
「何のつもりですか? 観光客に発砲だなんて」
「き、君があの神佐博士なのか?」
「さぁ? どうでしょう? そのロボットがそういうだけでしょう。そのお父さんの形見のいうことを信じるのなら撃つことをお勧めします」
私は両手をあげたままバイクへと向かう。
「アーサー。信じてください。彼女の画像を過去の神佐博士と照合しました。間違いなく彼女は神佐博士です」
ロイの合成音声はやや焦っているようにノイズを含んでいた。ロボットにも焦るということがあるのだろうか? それとも間接的にアーサーを利用して人を害そうということに機能的な問題が発生しているのかもしれない。どちらにしても面白いケースである。
どうせならこのまま撃たれてみたい、と思う自分がいる。
ロイは耐えられるだろうか? それとも稀代のテロリストは人間として認識されないのか。これほどのサンプルケースは私が死んだあとでは起きないに違いない。
「あ、あ、僕は」
アーサーは手が震えているのだろう金属が小刻みに震える音がする。
「アーサー。今日はありがとうございました。素晴らしい経験をさせてもらいました。お元気で」
ポケットから鍵を取り出してバイクに差し込む。バイクはいつも通りすぐにエンジンを活性化させた。私はゆっくりとアクセルを回す。ここで慌てて転倒でもすればとても恥ずかしい。いや、殺される心配をするべきかと自分のうかつさに驚いた。
私が動き出すとロイがアーサーになにかを言っている音がしたが、風の音でよく聞こえなかった。背後で何度かの破裂音と叫び声がした気がする。だけどそれは私にも世界にも何の影響も与えなかった。それが残念だと思ったのは私にも罪悪感があるからなのか。単純な破滅願望だったのか。
私にも分からなかった。