承認欲求の強さこそ、日本人の民族性
(* ̄∇ ̄)ノ 奇才ノマが極論をのべる。
現代人は『人に認められたい』という欲求が高まり、承認欲求が強いと言われる。ときにそれは病理と呼ばれることもある。
インターネットの普及から、『いいね』を求め、その承認の量が自分を価値づける、というものが煽っているとも。
拗らせた承認欲求が、SNSを使ったバイトテロに結びつくとも言われる現代。
しかし、あえてこの承認欲求の高さこそが、日本人の民族性の根底にある、と言ってみよう。
『承認欲求とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という欲求であり、「尊敬・自尊の欲求」とも呼ばれる』
以上、ウィキペディアより。
だが、他者から認められなければ価値は無い、承認が無ければ誰も認めない、というものは日本の歴史から見て取れる。
■親魏倭王
卑弥呼は西暦238年以降、魏に使者を送り皇帝から親魏倭王に任じられた。
また漢委奴国王印は、言わば中国の皇帝から日本の王だと承認する、という証だという説がある。もっとも漢委奴国王印は偽造説もあり、その解釈も学者が意見を戦わせている。
しかし、弥生時代から大和時代、日本の王とは中国の皇帝の承認を受けねば名乗れないものと言える。ここに日本人の承認欲求の起源がある。
■将軍
武家政権を築いた源頼朝は、右近衛大将を辞任してから後、『大将軍』の地位を望む。
朝廷は先例を調査し、1192年に源頼朝を征夷大将軍に任じた。その後、源頼朝の継承者である鎌倉幕府将軍は代々征夷大将軍となる。
ここから将軍は武士の頂点となる。
朝廷が承認しなければ、武士のトップでは無いことになる。
江戸時代における将軍は征夷大将軍である江戸幕府将軍のみ。外交呼称として対外的に『日本国王』『日本国大君』を称した場合もある。
徳川家将軍もまた、朝廷の承認があって王を名乗ることになる。
形式的には天皇の方が将軍より偉い。しかし、武士の時代を見ると将軍が政治を中心に行っており、実権は朝廷より承認された武家が握る。
将軍の方が天皇より偉いかのようにも見えるが、天皇が将軍を為政者として承認する、という形式になっている。
権力は将軍の方が天皇より上で、事実上将軍が日本のトップであり、この時の天皇は将軍を認証する為のお飾りでもある。
しかし、日本では将軍が既存の朝廷を倒して新しい朝廷をつくり、名実共に王となることは無かった。
では、なぜ日本では時の権力者が既存の朝廷を倒し、名実共に王を名乗らなかったのだろうか?
ここに日本の民族的承認欲求が見て取れる。
■日本の王、日本のトップ
弥生時代、卑弥呼が、
「中国の皇帝が私を日本の王と言ったから、私が王なのよ!」
「なるほど!」
これに対し多くの日本人が『いいね』をしてしまったからである。ここから積み重ねた歴史が日本人の民族性と精神を作る。
どれだけ強くとも王とは名乗れない。王と名乗るには他所から承認されなければならない。
自分達とは違う何者かから承認されなければ、権力者とはなれない。王と名乗ることはできない。
権威ある中国の皇帝から承認されて王となる。
権威ある朝廷から承認されて将軍となる。
ここから外にある権威から承認されることが大事、という日本人の精神性が育っていく。どれだけ力を持とうとも、どれだけ素晴らしいものを作ろうとも、他所から承認されなければ本物とは言えない。
海外から受賞されたものを称賛し、また外国人に『スゴイよ日本!』と言われる番組が人気があるのも、この日本人の民族性が根底にある。他所から褒められないとダメなのだ。
また、これを逆の面からみると。
自分達で作った文化は本物の文化では無い。本物の文化は他所にある。自分達が作り上げたものは素晴らしくは無い。本当に素晴らしいものは他所にある。こういった外来称賛の気質へと繋がる。
都会コンプレックスと言うのか、おフランスざますと言うのか。とかく今あるコミュニティの外から評価されねば、意味が無い、となる。
■武士の承認欲求
武士道とは死ぬことと見つけたり、といった使われ方をする武士道。武士にとっては命よりも面子が大事。
ある武士が起こした失敗から、その武士は刀を取り上げられる、という罰を受けることになる。だが、この武士の同僚が、この武士がいかに殿の為に働いたか、いかに貢献してきたかを殿に語り、減刑を求めた。
その殿は減刑の願いを聞き入れ、刀を取り上げる罰から罪を一等軽くし、切腹を申しつけた。武士は殿の恩情と同僚に感謝し切腹した。
武士にとってその身分を示す刀を取り上げられることは、武士の身分を無くすことになる。武士で無くなることは不名誉なことであり、その武士の面子だけで無く、その武士の一族全員にまでかかる不名誉となる。
己の一族が武士と承認されなくなるよりは、切腹して死んだ方がマシなのである。
現代は承認欲求の高まる時代と言われるが、その為に切腹をする者は少ないだろう。現代人よりも江戸時代、戦国時代の武士の方がよほど承認欲求は高かったのかもしれない。
武士は食わねど高楊枝なのである。
■禅、無我の境地
日本の禅、無の境地。かつての日本人がこれを求めたのは、格別に強い承認欲求、いわゆる煩悩に悩まされたからでは無いだろうか?
禅が必要とされ追求されたのは、自尊心の低さ、自信の無さ、承認欲求に虚栄心、いかに外から認められるようになるか、こういった外からの評価と、自らが感じる自己への評価の葛藤に苦しむ者が多かったからではなかろうか?
禅の目的のひとつ。自分自身の存在の真実を探すこと。
他者の評価に揺らぎやすい日本人だからこそ、この禅を追求したのではないかと思われる。逆に言えば、自分というものに自信のある人達ばかりの風土では、禅とは根付かないものであったのではないだろうか。
■承認欲求が強いと言われる特徴
マイナス面を上げると、
ステータスを気にする
自分に自信がない
妬みやすい
人に説教をしたがる
他人に同意を求める
寂しがり
自己主張が強い
自分の自慢話ばかりする
目立ちたがり
人のせいにする
プラス面を上げると、
勤勉な努力家
仕事は真面目
家族や友人を大事にする
所属するコミュニティを大切にする
承認欲求はこのような形で現れる。特にプラス面において、これは海外から日本人のいいところ、と言われる部分と共通点が多い。
より良い評価を受けたいが為に、学習熱心であり勉強家となる。承認されたいが為に仕事に対して真面目になる。
また、承認欲求が自分個人から広がり自分の所属するコミュニティとなれば、そのコミュニティが承認される為に努力を惜しまない。
また、自分達の文化が本物では無い、劣っている、という意識から貪欲に他所のものを学ぼうとする。学習意欲の高さは自分の自信の無さの裏返しでもある。
こうして他所から取り入れた物に手を加え、改良することに優れるようになる。こういった日本人の民族的精神性が、高度経済成長を支えてきた。
外国に追いつき追い越せ、と。自分達に本物の文化は無い、自分が劣っている、このコンプレックスこそが日本の高度経済成長を支えた原動力である。
一方、自分達で、いちから作り上げることは苦手である。なにせ自分達に自信が無いが故の勤勉さなのだから。
ある程度、外国と肩を並べるところまで行ったときに、他所から学ぶことが少なく感じてきた。先進国と呼ばれる位置につき目標が無くなった。
これが今の日本の閉塞感に繋がる。
いちから作り上げる自信は無く、次は他所から何を取り入れて、どうすれば他所から褒められるのか、解らなくなってきた。
半端に先進国に追い付いてしまい、追いかける対象を見失っている。
遅れてスタートし貪欲に学習して得る、後の先は得意だが、自分達で作り上げたものに自信を持って行う、先の先は苦手なのが日本民族なのだ。
■承認欲求という名の原動力
承認欲求とは人を動かす原動力となる。承認欲求そのものは、良いものでも悪いものでも無い。
我輩の知るとある女優は酒の席で、
『私はかわいいと言われる為に女優をやっている』
と、述べた。酒が入った上での半分冗談のような発言ではあったが、この女優はかわいいと呼ばれるために、人一倍貪欲であったと思う。かわいいと呼ばれる演技の追求に一切手を抜かない人であった。
承認欲求からの行動が、良い面で出ればその人の成長に役立つものとなり、悪い面で出ればバイトテロのような悪目立ちとなる。
長い歴史、他所からの承認を求め続けた日本民族の承認欲求は、他の国の民族と比べて格段に強いことだろう。それは日本人の精神に根深く結び付いている。
今でも『日本スゴイ』というタイプの番組は、寂しいお年寄りの帰属意識を満足させると人気がある。一方でこの『日本スゴイ』は懐古趣味でありカッコ悪いという意見もある。
承認欲求の強さは日本人らしさでもある。問題はその承認欲求という名の原動力をいかに使うのか。
燃料で言えばガソリンは自動車を動かす燃料にもなるが、使い方次第では放火にも使える。良く使うも悪く使うも、使い手次第。
他国の民族には見られないほどの、外来コンプレックスと承認欲求の高さは日本民族の特徴でもある。それは二千年に及ぶ歴史が作り上げたものだ。
SNSなどの普及から更に高まる承認欲求といかにつきあっていくか、試される時代といえる。
そこに悩む人もおられるようだが、日本人なら承認欲求が強くて当然なのだ。気にして悩むよりも、使い方を考えた方が気が楽になる。以上。