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小石

作者: つちふる

 線路がカーブにさしかかり、身体が慣性に引っ張られてかたむく。

 そのわずかなの重心移動で、靴の中の小石が右足の小指をじりじりと刺激する。

 声をもらすほどではないし、顔をしかめるほどでもない。

 それでも、カーブやブレーキの度に押し寄せる断続的な刺激は、相馬の神経を苛立たせた。

 いったい、どこで入り込んだのか。

 家を出てから電車に乗り込までの道のりで、小石が紛れ込むような場所はない。

 おそらく、ずいぶん前から靴の中(靴底と中敷きの間)にひそんでいて、それが何らかの拍子で押し出されてきたのだろう。

 また、カーブ。思わず舌打ちしそうになる。

 今すぐ靴を脱いで小石を指で掻きだしたいけれど、通勤と通学で混雑している車内では下手に動けない。

 相馬の両隣が女性であることも都合が悪かった。

 というのも、数日前にこの車両で痴漢騒ぎがあったばかりなのである。女性たちの神経は過敏になっているだろうし、周囲の目も厳しくなっている。痴漢が相馬と同世代くらい男性という報道も、彼をより慎重にさせた。

 靴の中の小石を取ろうとしただけで、あらぬ誤解をうけてはたまらない。

 相馬が降りるのは次の駅。それまでは辛抱すべきだった。

『まもなく三条小岩井。三条小岩井。降り口は左側です』

 電車が減速を始め、身体が進行方向へ傾く。同時に重心が左に移動して、一瞬、右足の小指を苛ませていた刺激から解放される。

 電車が止まり、扉が開く。重心が揺り戻されて、再び小指に小石がめり込む。 

 いつもならレディ・ファーストを心がけている相馬だが、今日ばかりは誰よりも早くプラットフォームに降り、そのままキヨスクの前に置かれているベンチへ歩み寄って腰を下ろした。

 靴を脱ぎ、踵を下にして床に打ちつける。

 転がり落ちてきた小石は、つまんだ親指と人差し指の間に埋もれるほど小さかった。押しつけてこすってみると、指の皮膚に、あのじりじりとした刺激が広がっていく。

「おはようございます」

 声は、ベンチに座る相馬の頭の上に投げかけられた。

 うつむき加減の視界に、手入れの行き届いたブラックフォーマルのパンプスが映り込む。

 出来ることなら聞こえないふりをしたい声だったけれど、無視できる距離ではない。そもそも、向かう先は一緒なのだ。

 相馬は小さく息をついて、顔をあげた。

「おはようございます。所長」

 見上げた先に、白倉玲奈は立っていた。

 少しつり上がった目。丁寧にそろえられた眉。形の良い鼻。艶のある唇。

 それら一つ一つのパーツが、シャープな顔立ちにバランスよく配置されている。

 タイトなスーツも引き締まった身体にフィットしており、もし、駅ですれ違うだけの関係であったなら、時間を調整してでもすれ違っていたであろうくらいには、彼女は魅力的だった。

 けれど、二人は駅ですれ違うだけの関係ではない。

 同じ職場に身を置いているだけでなく、玲奈は相馬の上司でもあった。それも、七歳年下の。

「お仕事前から休憩ですか?」

 落ち着いたアルトの声には、小さなからかいが含まれている。

「あ、いや」

「それとも、私を待っていたとか」

「まさか」

 即答が過ぎたのか、玲奈は目を細めて七歳年上の部下を見る。その視線に、相馬は気づかない。

「靴の中に小石が紛れ込んでいて、それを出していたんです」

「…ああ。ときどきありますよね。歩けるけれど、歩くと微妙に痛いっていう」

「はい」

 微妙という表現に世代を感じつつ、相馬は頷く。

「とれました? 小石」

「ええ」

 そうする義務があるわけでもないのに、相馬はつまみだした小石を玲奈に見せた。

 彼女もまた、それを当たり前のように受け取り、口元をほころばせる。

「今日のラッキーアイテムですね」

「いや、どう考えてもアンラッキーアイテムでしょう」

 顔をしかめる相馬を、玲奈は不思議そうに見た。

「どうして?」

「え?」

 どうして?

 なぜなら、小石が紛れ込んでいなければ快適に――快適でないにしろストレスなく――電車に乗れていただろうし、ベンチに座って時間を浪費することもなかっただろうし、こうして朝から年下の上司に会うこともなかったからだ。

 もちろん、口にはださない。かわりに、苦笑と別の言葉でとりつくろう。

「むしろ、どこにラッキー要素があるんです」

 玲奈が口を開きかけたところで、電車の発車を知らせるメロディが流れ始めた。

 まだ間に合うと、閉まる寸前のドアへ走りだす人。もう間に合わないと、早々に諦めて歩き出す人。前者は若者が多く、後者は年配者が多い。

 自分はどちらのタイプだろう。

「靴、履かないんですか?」

「はい?」

「小石、もう取れたんでしょう」

「…今、履きます」

 相馬は靴の中につま先を差し入れ、前かがみになったところで顔をあげる。

「あの、どうぞ先に行ってください。待たせるのも申し訳ないので」

「靴を履くのに一時間もかかるんですか?」

 玲奈はわざとらしく驚いてから、小さく笑った。

 相馬は無言で顔を伏せ、人差し指と中指をヘラがわりにして靴に足をおさめた。三秒で履けた。

 立ち上がると、玲奈の頭は相馬の胸元ほどの位置にくる。

 微かな優越感と、その些末な優越感に浸る自分への嫌悪感。

 改札口を抜けて、クリーム色の階段をあがる。

 ビル。看板。ガードレール。舗装道路。信号機。等間隔に植えられた街路樹。車。車。人。人。人。

 いつもの光景。

 じゃあこれでといって別れるわけにもいかず、相馬は玲奈と肩を並べて歩き出す。

 職場まで、徒歩五分。

 ぼんやり歩くこの五分を相馬は気にいっていたけれど、今日はそれもかなわない。

「いつも、あの電車ですか?」

 玲奈が肩越しからこちらを見上げる。少し早足気味なのは、相馬の歩調に合わせているからだろう。

「そうですね。乗り遅れないかぎりは」

「私もです。今まで会わなかったのが不思議」

「車両が違うんでしょう。僕は一番前の車両に乗るので」

「ああ。私は後ろのほうだからか」

 相馬はそれとなく歩くペースを落とす。玲奈の口元がゆるむ。

 交差点の歩行者信号が点滅し、赤に変わるのが見えた。

 普段は引っかからない信号で立ち止まるのも、小さなストレスになる。

 堰き止められていた車がドロリと流れだし、籠もっていた排気ガスが風に乗って鼻腔を刺激する。

 明日からは、この信号待ちが朝のシーンに組み込まれるのだろうか。

 同じ電車に乗っていると知りながら、それを無視して行くことに(しかも相手は上司だ)、相馬は抵抗を覚える。

 かといって、後ろの車両から降りてくる玲奈を待って声をかけるというのも、いかにも上司に媚びているようで気がのらない。

 乗る電車を早める。あるいは遅らせる。

 それはそれで当てつけがましくならないか。

 うだうだと考えているうちに信号が青に変わる。歩行者が交差点を渡り始め、一歩遅れて玲奈が続く。相馬は三歩遅れて足を出し、二歩で追いつく。

 交差点を渡り、高架橋の下をくぐり抜ける。

 いつもよりずいぶん長く歩いた気がするのは、もちろん気のせいだけど、それでも見慣れたビルが見えたときはようやくと言った気持ちがした。

 エントランスを横切り、エレベーターに乗り込む。

「私、普段は階段なんです」 

 玲奈がそうつぶやいたのは、相馬が『6』のボタンに触れて、扉が外界を遮断したあとだった。

 かすかな浮遊感と共に、エレベーターが上昇を始める。

「すみません」

 どう答えていいのかわからず、相馬は謝罪した。

 返ってきた反応は、思わずと言ったような笑い声だった。

 沈黙の中、電光パネルが『6』を表示する。

 エレベータを降りてリノリウムの廊下を歩いていくと、突き当たりに職場のドアが見えてくる。

「明日からは、いつも通りで」

 その言葉が自分に向けられたものだと、相馬は一瞬気づかなかった。

 玲奈を見て、こちらを見上げている彼女の視線とぶつかり、ようやく気づく。

「いつも通り?」

「ええ」

 テンポの悪い問い返しに、歯切れ良く玲奈は繰り返す。

「明日からは、いつも通りで」

「………」

 明日からは、いつも通り。

 それはつまり、玲奈を待たずに先に行っていいという意味だろう。

 心穏やかな通勤時間が、これで保証されたことになる。

 相馬は安堵した。

 と同時に、自分が玲奈に抱いている感情が――年下の上司に対する僻みや妬み、そこからくる抵抗や忌避が――見透かされいるような気がして、ますます情けない気持ちになる。

 職場のドアの前で二人は立ち止まった。

 ここから先は、いつもの日常。

 これまでと変わらない時間と合流し、これまでと変わらない日々が続いていく。

「――でも、時々ありますよね」

「え?」

「靴の中に小石が入ることって」

「……そう、ですね」

 困惑気味に頷く相馬に、玲奈は小石を見せる。

「ラッキーアイテムです」

 それからドアを開け、いつもの日常へと足を踏み入れた。        (了)

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