①
────痛みと苦しみ、或いは、甘美、絞まる首に一番強く感じているモノがどれなのかは、今日も判別出来ない。
『七月七日:八時二十五分』
壁にたった一つの主張のように掛けられたカレンダーと、そのカレンダーへの挑戦、もしくは共闘でも示しているかのような壁掛け時計へ視線を向け、本日、只今の日付と時間を確認する。
お目出度い数字が二つ並んだ日付に、何の意味づけも出来なさそうな時間が示されていたが、別にカレンダーに並んだ数字がお目出度かろうと、刻まれている時間に何の意味づけが出来なかろうと、特に何かに困るわけでもなく、何か影響があるわけでもない。
ただ、落ちていたらしい眠りから覚めるとほぼ自動的に行ってしまう自分の行動に、その確認作業が含まれているだけだ。定まる日なんて永遠に訪れない『今』というモノをとりあえず仮定して、目が覚めたばかりの自分の現在地を確定させる為だけの行為。
それは目が覚めてすぐ、視線が現在地を探すより先に伸ばした自分の両手が、繋がった根元から続いているはずの首に絡まるのと同じような意味合いの行為でもある。
喰い込む爪と、押しつけられる指先と、全身に廻る震えと、
いつだって、意識しないままに最初に絡むのには左手で、その上に僅かに重なるようにして右手が絡む。絡んだ先の首に最初に喰い込むのは少しだけ伸ばしてある爪で、これは長すぎると痛みだけが特出して感じすぎるし、短すぎると痛みが圧迫感に打ち消されてしまうので、ぎりぎりの感覚が残るような長さに揃えられている。
おそらく、髪の毛十本ほどの厚さ。これはこの身体の中で、唯一にして尤も気にしている部分だ。他に気にかけている部分など一つとしてないし、また、その必要も無い。指の腹がもたらす圧迫感も、痛みと苦しみも、何も気にせずとも感じることが出来るのだから。痛みと苦しみ。痛みと、苦しみ。与える、痛みと、苦しみ。
詰まる息、
溢れる涙、
霞む意識、
・・・『コレ』は、今日もここに在る。
「灰茶」
「うっ、はぁ・・・、」
「起きたの?」
「あっ、はっ、はぁ・・・」
「・・・そういえば、さ」
「はっ、あっ・・・」
「子供、受け取るんじゃなかったっけ?」
「あっ? あっ、あ・・・、」
「なんか、俺もうろ覚えなんだけど・・・、違ったっけ?」
「ちっ、がうって・・・、はぁ・・・、あ、ちょっと・・・」
目が覚めて、いつも通りの日課の果てに投げかけられた問いに、すぐに応えることは不可能だった。投げかけられている問いの意味すら考えられずに、首から全身に伝わっていたモノが波のように微かな揺れを残しながら身体に馴染み、消えていくまで、荒れた呼吸を整えるより他に出来ることなんてなかったのだ。
ただ、いくら呼吸が荒れようとも、日課ともなれば元に戻るのも早い。瞬き一つで目の縁に溜まっていた生理的な涙を払い落とし、視界が屋内ならではの明瞭さを取り戻したところで、ギンが投げてきた問いに意識が向く。視界と同じように晴れてきた思考で投げかけられていた問いをなぞれば、一つの単語へと全てが集約していった。
『子供』だ。
集約した単語に何か、とてつもなく衝撃的な影を見出した気がして、つい、意識と視線が見出した影から逃げるようにその向きを変えてしまうのを、他人事のように感じていた。
勿論、この自室で逃げる先に選べるものは、たった一つ・・・、否、たった二つで、当然のように今回もそちらへ視線と意識が流れていく。
『七月七日:九時一分』
今日は早いな・・・、それが逃げた先に鎮座しているカレンダーと時計を見て胸に浮かべた、最初の感想だった。
なんとなく、前方に向かって数時間単位で進むのは、珍しい気がしたのだ。数日単位で進むのは逆に珍しくない気もするのだが・・・、でも、それも何となくの印象でしかない。
時の流れを正確に認識出来る者は『彼ハ誰』にはいないし、おそらく、他の四国にもいない。いるとするなら、『シコウ』だけだろう。
行きつ戻りつしていたとしても特に疑問を抱いていなかったカレンダーと時計に多少の疑問を抱いたのも、聞こえてきていた単語の重さを直視したくなかった所為なのかもしれない。
しかし当たり前のことだがそんな方法では叶うわけもなく、逃げ場でもあり現在地でもある日付と時間を目の当たりにした後は、自然と逃げ出した場所へ戻されてしまう。考えることが面倒そうな、重い単語の元へ。
「・・・こど、も」
「ってか、子供、連れて歩いているところ、見た気がする」
「僕が?」
「そう、灰茶が。・・・まぁ、今日より前じゃないとは思うけどさ」
「・・・それ、受け取った後に連れて歩いていたってこと?」
「他には考えられないだろ? その姿見て、受け取るって聞いた気になっているだけかもだけど・・・」
「じゃあ、受け取るんだ」
「ま、そういうことじゃない? ・・・でも、子供、子供かぁ、面倒そうだなぁ」
「・・・面倒なのは、ギンじゃなくて僕でしょ」
「そうそう、だから灰茶が面倒な目に遭いそうで・・・、ご愁傷様って話かな?」
「・・・ギン」
「悪い。でも、少しくらいは手伝う気、あるからさ。うん、少しっていうか、出来る限りは手伝うし」
引き寄せられる磁石のように自然と戻ってしまった逃げだした単語は、二度目の直視ではあるが、相変わらず決定的なほどの面倒な気配を纏っていた。そして同時に、拒否しがたいモノもまた、持っていた。何か、強引に納得させられる気配と、自然と納得してしまう理解の二つが存在しているような気が。
良く分からないまま受け入れてしまっている単語の理由を考えようとしたのだが、続けられたギンの、他人事であるが故に明らかに軽い台詞に、つい、その意思も流されてしまう。
自分が逆の立場なら同じように軽い台詞を放ってしまうだろうし、何より、ギンにとってみれば正真正銘の他人事なわけで、責める権利もないと承知しているのだが、それでも視線が少々尖ってしまったのは、流されてしまった自分に対する不甲斐なさもあったのかもしれない。
当然、ギンはそんなこちらの視線に気づいていて、ご機嫌を窺うような僅かな笑みを口元に貼りつけながら、再び軽い口調で先の時間への約束を口にするのだ。軽い、本当に軽い口調。
でも、一応は果たす意思があるのだろう、約束。出来る限り、というのがどの程度を意味しているのか、また、子供を受け取るにあたって、一体どんな助力が必要なのか、想像すら出来ないでいるけれども。
溜息を、一つ。一つでは足りなくて、もう一つ。もう一つでも足りなくて、あと、幾つか。それでも足りなくて、もう幾つか。
適当に転がした溜息達が、床で転がってはぶつかり合う様が目に見えるようだった。勿論、屋外とは違ってあの薄暗い膜がない屋内では、そんな実態のないモノ、幻覚ですら見えるわけもないのだが。
別に、屋外のあの薄暗い世界でなら見えるわけでもない。ない、が・・・、見えたとしても見分けることが出来ない、その事実が、幻覚を連想させることぐらいは出来るのだ。それが必要なモノかどうかは、ともかくとして。
「・・・まぁ、いいや。仕方ないもんね」
「確かに、仕方ないよな。『シコウ』からのご指名ならさ」
「・・・だな」
色々と忙しく考えていると、慣れないその忙しなさに、すぐに疲れが全身をゆったりと満たしてしまう。生温かいその重みに満たされると、途端に全てがどうでも良くなってしまって、全てを投げ出しながら流されてしまいたくなるのだ。今の、ように。
零れた、半ば独り言めいたそれは、言葉という形になるとその存在感を放ち、言葉を作ったはず本人である僕すら支配する。僕は、それに逆らう術を持たないし、持ちたいとも思わない。
これは僕だけの性質ではなく、『彼ハ誰』の住人の平均的な性質で,当然、ギンもまた、同じだった。僕が零した呟きにあっさり同意すると、先ほどまである意味、能動的だったからかいの口調も消え失せ、全てを緩やかに放棄するような、投げ出すような口調に変わっている。
否、戻っているというべきか。ギンは、何もない両手を常に広げて投げ出しているような、僕が知る誰よりも典型的な『彼ハ誰』の住人らしい住人だ。外見も、中身も。
ゆっくりと、立ち上がる。なんだか繰り返しのようだと思いながら。一体何の繰り返しなのだろうとも、思いながら。この国で、この世界で、繰り返さないものなんてあるのだろうかとも、思いながら。
立ち上がって投げかけた視線の先では、まだ『七月七日』で、時計の針は『十一時一分』。また、妙に前向きだ。
「とりあえず・・・、どうしようもないから、受け取りに行ってくる」
「うん。頑張って」
「・・・頑張りたくないんだけどね」
気のない応援に、気のない声を返して玄関へ向かう。掛けてあったコートのうち、ギンのを間違えて取らないように気をつけて自分のコートを手に取り、風を孕ませるようにして羽織って・・・、右手を袖の中に入れたところで、何かが引っ掛かる。
手が、袖の中に突っかかったわけではない。外に出る度に来ているコート、デザインはギンや他の人と全く同じだが、大きさは多少違うそれ。間違えて取らない限り、着ようとして違和感なんて感じるわけがないほど何度も何度も繰り返している行為。
それなのに、何かが引っ掛かった気がした。
左手も袖の中に入れ、靴も、同じデザインが転がるそこから自分の分を見極め、足を突っ込んだ途端に妙な違和感がそこにある。コートも靴も、間違いなく自分の物。
違和感なんて感じる理由、どこを探しても見当たらないほど身につけ慣れているはずなのに、何か、どうしようもないほど間違っているような、もしくは、何か、どうしようもないほど、何かを忘れているような、違和感。身体ではなく、頭の片隅に何かが引っ掛かっている。
たぶん、とても些細で、けれど決定的で、でも絶対に思い出せなくて、だから決して外れない、引っ掛かり。
・・・ドアを開けて、外に出る。結局、何が引っ掛かっているのか分からず、コートや靴、ドアのような目に見えるものには一切引っ掛かることはなかった。勿論、部屋の中からギンが止めることもない。引っ掛かっているモノの正体も分からない僕は、結局、嫌々ながらもそのまま歩き出すしかなかった。子供を受け取る、その約束の場所まで。
佇む、廊下。進む、廊下。外の空気が入り込むそこはすでにどうしようもないほど『彼ハ誰』の一部でしかなくて、廊下を抜けて、階段を下り、建屋から完全に出てしまえば、もう言い訳のしようもないほど『彼ハ誰』だった。『彼ハ誰』でしか有り得なかった。
薄暗い膜に覆われ、擦れ違う人の顔すら見分けることが出来ない、曖昧な国。たとえ擦れ違う人の顔が分からず、誰とも見わけがつかなくとも、何も困ることはないのだけど。
足は、行き先を知っていた。たぶん、いつだって足だけは、行き先を知っていた。
もしかすると、覚えていない『シコウ』からの指名ですら、引き受けたのはこの足だけだったのではないかと思うほど滑らかに動く足に連れられて、はっきりしない景色の中を進んで行く。
『彼ハ誰』では、人の顔どころか,建物の区別すらつきにくい。なんせ、どの建物も適当な白が適度に薄汚れたような色をしている上に、どれもこれも大体三階建てで、形も何の変哲もない長方形なのだから、どれを見ても目印にならないくらい似通っているのだ。
窓の位置、入り口の位置すら隣の建物を真似て建てたのではないかと疑いたくなるほど似ているので、気をつけていないと、自分の部屋があるのだと思い込んで全然違う建物に入ってしまうなんてこともざらにある。
勿論、内部の造りもどれも同じ。無個性に並んだドアも同じような形、色、大きさだし、目印めいたものもないので、全然違う建物に入ったことに気づかず、そのまま縁も所縁もない部屋のドアをうっかり開けようとすることもざらだ。
しかも、そのドアに鍵が掛かっていないなんて場合も有り触れるほど有り触れていて、部屋の中に視線を向けず、足下だけ見ている場合は、最終的には部屋の中にまで入り込んでしまうこともあったりする。
大抵は、入った方も、入られた部屋の住人の方も、謝罪一つを取り交わす程度で、あまり気にしたりしないのだが。
道も、あまりにも似通っている。道端には時折、明かりが灯っていない街灯が無意味に佇んでいる程度で、他には一切物が存在しない。ただのコンクリートを引き延ばした空間が規則的に延びているだけで、全く何の特徴もなく、知らぬ間に知らぬ場所を歩いているなんて普通のことすぎて、話のネタにすらならないほどだ。
味気ない道と、個性のない建物ばかりが並び、白か薄汚れた白、もしくは色落ちした黒ばかりのこの国では、緑に象徴される自然は少なく、明かりが灯らない、何の為にあるのか良く分からない街灯の数よりもっと少ないのではないかと思うぐらいの本数しか、木々を見かけることもない。
勿論、道端で咲いている花なんて殆ど無い。あっても、一体いつなら咲いていたのかと訊ねたくなるほど薄汚れた茶色を滲ませて枯れている、元は白かっただろう小さな花ぐらいだ。
力ない、木々と花、それにコンクリートで閉じ込められて、滅多に姿を見ない土。
この『彼ハ誰』という国にあって、自然は存在していると不自然に見えるほど、違和感を覚えずにはいられない存在だ。他の国では元気な自然もあるというが、この国の自然達は皆、力ないので、身動きすらせず、ずっと同じ場所に佇んでいる。
その場に常駐している上にそもそも仲間が少なく話し相手もいないのか、朗らかに声を上げることもなく、小さな、囁きのような声で独り言を呟いているのが常で、あまりに小さすぎて、あまりに断片的すぎて、何を言っているのか聞き取ることも出来ない。
・・・べつに、聞き取りたいわけでもないのだが。
足は、止まらずに動き続けている。ここまで躊躇なく動く足を見かけるのは久しぶりな気がするし、同時に、つい最近見かけたばかりのような気もする。きっと、どちらも正解で、どちらも間違いで、でも正解だろうと不正解だろうと、何も関係ないのだろう。たぶん、興味だってないのだ。
見渡す限り、同じ景色。同じ景色が、同じような薄暗い膜を纏って、余計に同じよな、はっきりしない景色を作り上げている。・・・が、不思議と本格的な迷子になる人はいない。
この国の住人以外、『シコウ』以外で唯一正式に入国が認められている『夜』の住人などは、少しでも気を抜くと完全なる迷子になり、悲惨な状態に陥るらしいが、『彼ハ誰』の住人が『彼ハ誰』でどうしようもないほどの迷子になった、という話は聞かない。実際、僕もなったことがない。
ぼんやり歩いた結果、無関係な場所にいたり無関係な部屋に入り込んだりはするのだが、間違いに気づいて元の場所に戻ろうと意識すれば自然と戻れるし、自分の部屋が全く見つからなくなるなんてこともない。
何かを目印にしているわけでもなく、何かに気をつけているわけでもないのだが、何故かこれは皆、そうらしい。帰巣本能なのか? でも、自室へ戻る時以外でもこの能力は発揮されているので、帰巣本能なのかどうかは疑問ではある。深刻に疑問視しているわけでもないのだが・・・。