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────子供が、欲しいの。どうしても、欲しいの。
酷く、唐突な声に感じられた。台詞自体は何度も投げかけられたものと変わらないのに、全く初めて聞く台詞かのようなと唐突さをもって、聞こえたのだ。まるで、耳を通ることなく、直接脳に流し込まれたかのように。
最初に感じたのは、生暖かさだった。
滑るような、どこかかさつくような生暖かさ。一体何が、と疑問に思うより先に、身体が予期せぬ動きを取り始め、ついていけなかった認識が、驚くほど跳ねる心音と、異常な回数の瞬きになって繰り返される。微かに飲まれた息、それが自分のものであるという理解する、あまりにも遅く、遠く。
認識が出来ないほど唐突に起きた現実を理解が追いかけ始めたのは、鈍い圧迫感を右手首に感じ、足が交互に三回ずつ動き始めた頃だった。心音は、相変わらず聞いた覚えがないほど煩い。手首は、僅かに痛みを感じ始めている。瞬きは、まだその回数を通常のレベルまで戻し切れていない。
世界は、目の前だけ異常に薄い。他はいつもと変わらない曖昧な、薄暗い膜に覆われたままなのに。
理解が追いかけた先にある現実に追いつけば、何が起きているのかは簡単に分かることだった。知らぬ間に距離を詰めてきたサエミさんが、僕の右手首を引っ掴み、何処かに向かって引っ張っていたのだ。ぼんやり立っているだけだった僕が、特に抵抗もなく手首に回された手の引くままに、ずるずると引き摺られて歩いているだけのこと。
でも、ただそれだけのことを理解するのが難しかった。
理由は二つ。一つ目は・・・、熱。生温かいはずなのに、足が震えそうになるほどの熱。手首から全身に広がりそうになる、悪寒にも似たモノ。他人の、熱。他人の、力。他人の、存在。熱、力、そして、痛み。
こんなモノ、感じたことがない。ギンの熱ですら、滅多に触れない。ましてや、こんな、喰い込むような力を伴う熱なんて。感じることのない熱を感じている、それがあまりにも衝撃的すぎて、脳の動きを阻害しているのだ。
二つ目の理由は、一つ目と似ているが、他人の意志によってこの身体が動かされている・・・、否、そうではなく、他人の意志によってこの身体を動かすことが可能であるという事実を突きつけられた衝撃が、理解を阻んでいた。
そんなことが出来ないと思っていたわけじゃない。やろうと思えば出来ることだと、冷静に考えれば分かる。力任せに他者と接すれば、出来てしまうこと。
でも、そんなことが出来るほど他人と接するなんて、考えたことすらない。考えたことすらないのに、出来るかどうかなんて知るわけがない。
追いついた理解は、大した役には立たなかった。混乱や動揺は、必ずしも理解にが追いつけば解消されるものではなかったらしく、引き摺られるまま歩き続けている足も、身体の各部位に何の命令も下せない脳も、全ての原因である熱を振り払えない腕も、ただただ、その熱に従っている。
強い、強い熱、意志、存在。この曖昧な世界の中を、確固とした強さで進む人間。
『夜』・・・、見たことのないモノ、曖昧さを許さない、黒で塗り潰された国、永遠の漆黒の国。
そして、その国の住民・・・、『女』、この国にはないモノ、これが、『女」。
僕らには、決して分からないモノ。
決して分からないモノは、押しつけてきた衝撃と同じように、次の衝撃を与えてくる。他者に影響を与えることに、何の躊躇もないらしい。『夜』というのは、『女』というのは、そういうモノなのだろうか? 分からない。たぶん、絶対的に分からない。分かる、わけがない。
だって、僕達、『彼ハ誰』の人間には持ち得ないものだから。『女』は。
「ここ・・・、何の場所だかは知らないんですけど、人が来ないんです。泊まるとこも見つからなかったから、ここに来てからずっと、借りてるの。無断で、ですけど」
突然与えられた二度目の衝撃は、何処だか分からない室内へ突然、突き飛ばされた衝撃と、固い床に尻を打ちつけた際の衝撃だった。痛みは、僕にとって常に苦しみの中に鮮明に滲むもので、しかもこの手で、この指で与えるものだった。
だからこうやって他者によって齎されるなんて想定外で、打ちつけた尻から背骨を這い上ってくる痛みを認識するより先に、またもや驚きと混乱が全ての理解を遠ざける。
瞬きは、再び回数を増やしていた。いくら瞬きをしたところで、世界が見やすくなるわけでもないのに。見えるのは、外より黒が多くなった薄暗闇で、何の特徴もない壁、床、天上、それと尻餅をついている僕を見下ろす、『夜』の『女』がひとり。ただ、それだけ。
状況を説明してくる何かが見るわけでもないし、目に見えないモノが見えるわけでもない。瞬きをしようとよく見える眼鏡をかけようと、見えるモノしか見えないのだ。
「ねぇ・・・」
ようやく、全身に広がっている痛みが指先にまで到達する頃、いつの間にか下に向けられていた視線の先がその影を増した。耳に入った声は、その響きをいっそう鮮明にしている。
反射的に顎を持ち上げて視線を上げれば、そこには何故気づかなかったのかと疑問に思うほどの距離まで近づいた、サエミさんがいた。尻餅をついた体勢のまま投げ出している両足を跨いで床に両膝をつき、その膝のすぐ手前に両手もついて、顔を突き出すようにして近づけている、サエミさんが。
瞳が、見えた。はっきりと、見えた。黒に、少しだけ藍を滲ませたような瞳が、その瞳に浮かぶ、底が見えないほど異質な何かが、はっきりと。
今までは薄くとも膜を纏っていた瞳がはっきり見えたのは、屋内に入ったからという理由だけではなく、物理的な距離が主な原因だった。突き出された顔はあともう一つ顔を挟めばくっつきそうなほどで、瞳の色やその奥に浮かぶ何かの影は見えるが、近すぎて顔全体の形は掴めないほどの近さ。
こんな距離、ギンともとったことはない。そう思えば、あの熱も含めて、一番よく関わるはずのギンとすらしていないようなことを、この、接触した覚えが初めてしかない人と幾つも行っている現実が、その確かさを零していく気がした。
「子供・・・、欲しい?」
「欲しいってわけじゃないけど・・・、でも、受け取らないと・・・」
「受け取るのは受け取らないといけないでしょうけど・・・、相手は『シコウ』だもの、それは、受け取らないと。でも、受け取った後のことなんて、『シコウ』の人達も、態々確認しに来たりはしないでしょう?」
「さぁ?」
「ないわよ。だってそんな話、聞いたことないもの。だから、受け取りさえしたら後は子供をどうしたって、別に咎められたりしないわ。あっ、勿論、育つまでちゃんと面倒を見てあげないといけないとは思うわよ? それは当然だもの。・・・でもね、ちゃんとその子供が大人になるまでの責任さえ持てば、誰が面倒見たとしても構わないと思わない?」
「・・・まぁ、そう、かも?」
「だからね、『シコウ』から受け取った後、私に頂戴? 私、ちゃんと大人になるまで責任持ちますから・・・、ねぇ、お願い、お願いですから・・・、それに、子供、くださるなら、ちゃんとお礼はいたします。なんでしたら、先払いでも良いわ」
「先払いって・・・?」
「勿論・・・、良いこと、よ」
「良いこと?」
「気持ち良いこと、ですわ。私・・・、上手いんですよ?」
息が顔に掛かるほどの距離で告げられるそれは、最初の方は先と同じ話の繰り返しであったのに、次第にその意味が分からないものに変わっていってしまった。子供・・・、子供、面倒と感じていた、子供。引き受けてくれるというのなら、歓迎すべきなのかもしれない。
面倒だと感じている僕より、こんなにも求めている人に引き受けてもらった方が、子供も不自由なく育つことが出来るのかもしれない。
了承を、返しても良いのだと思うのに、声が出なかった。それは今まで味わったことのない異質な空気がその場を取り巻き始めていたからだ。空気に、粘性の高い熱が混じったような、息苦しくて、重苦しくて、でも、その苦しさが頭の動きをぼんやりとさせ、なんだかとてもよく馴染んだ感覚が身体の外から身体の中を取り巻くような、そんな気がして。
ぼんやりと、していく。身体がどこか一点に集約され、他は分散していく。身体の芯が震えて、何も考えられなくなる。ただ、感じるだけの自分になりたくなるような・・・、これは、そう・・・、いつも、目が覚めて、自分と世界が曖昧な瞬間に僕の手が僕にもたらす、あの、恍惚に似たモノ。
でも、違う。決定的に、何かが違う。
だって、これは空気だ。与えられる、力じゃない。
「これは・・・、どう?」
力、ではない。でも、自分以外の熱が触れる気配がした。コートの下・・・、否、その下に纏っていた服すら意味を成さない、その、更に下に。ひんやりとした、熱。蠢く、他者の意志。或いは、意思。五本二対の指先が、一対は上に、もう一対は下に。上は心臓から少し外れた位置で彷徨い、下は・・・、腹の下を惑う。
うねうねと、ばらばらと、ぐずぐずと、ぎちぎちと。
強く、柔く、擦るように、押すように、捻るように、引くように。
何かを、探している。肌の上、一番薄い皮膚が傷む。
神経を、掴まされている。流れる血が、凝る気配。
それなのに、血を通す肉が張りつめて、沸騰しそうな予感。
心臓は、狂った。
呼吸は、壊れた。
耳の後ろに、第三の心臓。
第二の心臓の居場所は分からない。
分からない。分からない。
鳴り響く、心臓の音。
今、起きていることは何?
僕は、今、どうなっている?
・・・『僕』、は?
「・・・な、い」
小さなその声が耳に入ってきたのは、入って、それが脳裏まで届いたのは、どれくらい経った頃だろう? 指の動きは,知らない間に止まっていた。それだけではなく、熱が、あの、冷たくも熱い熱が、消えていた。
この肌は、僕だけの肌。もう他の人の意志が介在していない。僕、ただ独りの肌。また、一人。たった独り。一人。
意識がばらばらに、ばらばらに、一人だった。探られていたのは、一体、何? さらさらとした指の腹。でも、なぞられた先の肌は、ねっとりとした熱を倦み、取り返しのつかない理由を見つけている。僕に、秘密の理由を。
「そう、でしたね・・・、そういえば、そう、でした。『彼ハ誰』には、何もないんでしたね」
「・・・な、にが・・・、」
「せっかく、先払いのお礼で最高に気持ちの良いことをして差し上げようと思ったのに・・・、無理だったのですね、アナタには」
────アナタには、アナタ達、『彼ハ誰』の方々には、何もないんでしたものね。『女』も、『男』も。
「何もない身体なんて、流石にどうすれば良いのか分かりませんわ。こうしていれば、多少は気持ち良いものなのかしら?」
「・・・」
「駄目ですわね。まぁ、全く気持ち良くないということもないのでしょうけれど・・・、それほどでもないですわね。もう、どうしたらよいかしら?」
近すぎる位置から聞こえてくる、舌打ち混じりの困惑。疑問を呈しているけれど、一体何を呈されているのかすら分からない僕では答えようもないし、応えようはもっとない。
ただ、未だに身体に残り続けている熱が気になる。意識が、散漫になる。そして同時に、何かが違う気がする。引っ掛かっている。そうではないと突き上げるような訴えが湧き上がっている。違う,違う、違うと・・・、そう、ではないのだと。『そこ』ではないのだと。
・・・あぁ、そうか。
目の裏から眼球に突き刺さるような訴えを、我に返るように理解した。何が、違うのか。『そこ』ではないのなら、一体何処なのか。訪れている、感覚の正体。違っているもの、足りないもの。
目の裏が、痛む。ともすれば涙が滲み、全てが見えなくなりそうな場所をどうにか鮮明に保つ為に瞬きを数回、強く繰り返す。それから一度、動かすことも億劫に感じている口を動かして、下唇を強く、強く噛み締めた。肉を、味わうかのように。
吸い込む息は、何処か、甘い。吐き出す息は、何処か、苦い。或いは、逆だったのかもしれないが。
「何か・・・、他の案は、あるのかしら? 私、どうしても・・・、どうしても、子供が欲しくて・・・」
「・・・なら、め・・・、て・・・、」
「え?」
「し、めて・・・」
「灰茶さん?」
「くび、を・・・、」
「首?」
「絞め、て」
「・・・え?」
「首を、絞めて・・・、絞めて、ほしい・・・、その、手、で・・・」
────そうだ、それが、違和感。熱は、『そこ』ではない。苦しみの中に、熟む。
「絞め、て・・・、僕と、世界が・・・、分かれるぐらい、強く、強く・・・」
「・・・それが、アナタが私に望む対価なのですね?」
「爪が、傷むぐらいに・・・」
「子供を、頂戴。私には、もう・・・、それだけ、なの。それだけが、私が『女』として持てる、最後の・・・、」
「絞めて、他の、熱なんて、感じたこと、ない・・・」
「約束よ、お願い。お願い、だから・・・」
ふいに、身体に残っていた熱が引いていく。突然の空虚な一瞬、それを理解するより先に、失われていた身体を這い回る熱は、その存在を明らかにしながら、ほっそりと絡んでいく。いつもの、場所。
最初に、十本全てが一つになったかのように巻きついて、次第に一本一本の存在を知らしめる。その一本一本に貼りつけられた、冷たく薄く、けれど硬い爪の感触。皮膚に、喰い込む。めり込む。指の腹が、肉に埋まり始めて。
息が、薄く、
世界が、鮮明に、
痛みが、ざわめく、
管を流れる血が、沸騰を、
蹲っているだけだった舌が、外へとはみ出して、
脳と心臓と、全身と意識と、全てが沸き立つ熱が────、
冴え渡る意識と感覚とは裏腹に、視界が屋外にいる時のように・・・、否、もっと薄暗く、それでいて何処か煌めくような膜に覆われて狭く閉ざされていく。世界が、とても近くで見えなくなっていく。
手を伸ばしても、指を広げても、受け止めきれないほど、零れ落ちていく何か。その何かを追うように動かせない視線を動かす。
たぶん、その気になっているだけ。実際には、顔を動かすこともままならなければ、視線を動かすことすら出来ず、視界は圧倒的なまでに閉ざされている。追える、わけがない。
そもそも、一体何を追ってみようとしていたのか? 分からない、分からないまま、それでも分からない何かを追う為に分からない方向へ視線を向けて・・・、
零れている花弁が、ゆっくりと巻き戻されている、その見たことのない赤だけが、痛々しいほど懐かしい気がしていた。