表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
而ノ迷 ひらける名の草花  作者: 東東
1,絞める・触々る・まだ絞める
4/20

 ・・・酷く唐突に聞こえてきたそれは、あまりにはっきりと聞こえてきた為、逆に現実の声に聞こえなかった。元より希薄な現実感が、いっそう砕けていくような感覚。脆かった土台に決定的な崩壊が訪れたかのようなそれに、今まで順調に動いていた足は、勝手に止まっていた。

 向けたままの視線の先で、意識したわけでもないのに仲良く並んでいる自分の両足に、場違いにも、何か微笑ましい気分になる。とても親しい者達が、仲良く語り合っているという、夢想。

 馬鹿げた夢は、勿論、すぐに覚める。瞬き一つで消え去ったその愚かな夢想の後に残った現実は、意識せずとも感じる強い、強い、他者の視線で、前方からその視線を向けてくる存在が、先ほど聞こえた声が現実であった事実を伝えていた。

 滅多に聞くことのない、はっきりとした意志が篭もった台詞、つまり、滅多に向けられることのない、はっきりとした意志が僕に向けられている、という現実。

 自分の中が真っ白になっている様を、他人事のように感じていた。あまりない事態に、衝撃を受けて白くなってしまったのだろう。しかし身体は中身が白くなろうと黒くなろうと関係なくある程度は自動で動くらしく、命令もしていないのに顔が勝手に持ち上がる。衝撃をもたらした対象を、確認する為に。


 世界は、まだ薄暗い灰に似た白で包まれ、はっきりと見分けられない姿をしている。たぶん、永遠に。


 包まれた薄い膜の向こう、視線を向けた前方に、一つの影があった。膜に姿を映すような、一つの立ち姿。膜に姿を映したにしては、あまりにもはっきりとした立ち姿。距離感が掴めない先で、ただ、その膜の向こうから注がれる強い意志を伴う視線の存在だけが、膜すらも切り裂いて、目に見える形にすら思えるほどに強く、強く。

 何かが、揺れているのが見えた。風もないのに、見ている者を惑わせるように、ゆっくりと揺れる何かが。意識せずに視線が吸い寄せられていくそれが長い髪の毛だと気がついた時、その人を包む膜が薄くなり・・・、膜の向こうから、一歩、僕に向かって近づいていたことにもまた、気がついた。

 勿論、見えない。まだ、姿は。


「あの、お願いです。お願いですから・・・、私に、譲ってください」

「・・・なに、が・・・、」

「受け取って、いらっしゃるのでしょう? 連れていらしたじゃないですか」

「連れて・・・?」

「私、見たんです。アナタが・・・、アナタが、子供を連れていらっしゃるところを。だから、私は、私、は・・・」


 ────どうしても、子供が欲しいんです。


「だから、譲って頂きたいんです。アナタが引き受けた、子供を」

「譲れって・・・、言われても・・・、」

「私っ、絶対欲しいんです! 子供が、どうしても・・・、ずっと欲しいって、そう、願っていたんです!」


 お願いだから下さい、お願い、だから・・・、と今まで聞いたことがない切迫した声を出して更に近づいてくる影は、やがて影から声と同じような実態という形に変わる。膜が破れそうなほど薄くなり、揺れる髪の筋が見えるほど、薄く、薄く。

 掴めないでいた距離感は、今は三、四歩程度の距離だと把握出来た。手を、身体の前で組み合わせている様すら、明確に。

 でも、顔は見えない。はっきりとは、見えない。

 朧気な形は見えているのだが、微細な形は見分けられない。この『彼ハ誰』で人の顔を完全な判別がつくほど見ようとするなら、顔一つ分の距離まで近づくか、この薄暗い膜が入り込まないように、何処かの建物に入り込むしかない。膜が広がる屋外でこの距離を保ったままでは、断言出来るほど人の顔を見分けることは不可能だ。

 ただ、それでも分かることはある。あまりにも違いすぎる違いならば。


「・・・あの、『夜』の人・・・、です、よね?」


『彼ハ誰』の住人ではない。それはどれだけ薄暗い膜に包まれていようとも、声だけで察しがつく事実だった。膜では隠しきれない、絶大な違い。疑いの余地もない現実。そして訪れている現実は、衝撃で白くなった部分が元通りに何かで埋まれば、すぐに答えが見つかるものだった。

 この『彼ハ誰』にいる、『彼ハ誰』の住人以外の者。

『シコウ』の人間、という可能性もある。しかし聞こえてくる台詞の内容がその可能性を否定した。だとすれば、残る可能性はただ一つ。『シコウ』の人間よりもっと可能性の高い答え。『夜』の人間だ。

『誰ソ彼』の人間はどう頑張ってもこの『彼ハ誰』には来られないし、『朝』の人間は多少の違反を犯せば来られないこともないが、そこまでしてこの国に来たがる者がいるとは思えない。・・・この、何もない国になんて。

 ただ、何もないこの国に他の国の人間が来たがるとは思えないのだから、当然、来られるからといって『夜』の人間が来ることも殆ど無い。用なんて、ないはずなのだ。ない・・・、はずなのだが、しかし、用があったらしい。今、この国の人間にはない強烈な存在感を放って目の前にいる人間にとっては。


「・・・そう、です。私は『夜』の人間で、佐絵美と申します」

「サエミ・・・、サエミ?」

「・・・あの、突然不躾なお願いを口にしているのは私の方だということは重々承知していますけど、出来ましたら呼び捨ては止していただけませんか? 初対面の方に呼び捨てにされるのは、心地好いことではありませんから。私の態度や突然の申し出が、ご不快ということなのかもしれませんけど」

「呼び捨て? 呼び捨てって・・・、あぁ、サエミって、名前?」

「え? ・・・えぇ、私の名前です。遅まきながら名乗ったつもりなのですけど」

「そっか・・・、ごめん、名前だか何だか分からなくて連呼しちゃっただけで、別に呼び捨てにするつもりはなかったんだ。サエミ・・・、さん、とかで良い?」

「えぇ、構いません。呼び捨てにしていらしたわけではないのですね。こちらこそ、突然不躾なお願いを申し上げた挙げ句、勝手な勘違いをしてしまい、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、別に・・・」

「それで、差し支えなければお名前をお伺いしても?」

「名前・・・、僕の、ですか?」

「それはそうでしょう? 他に今、どなたのお名前をお尋ねするのですか?」


 小首を傾げ、長い髪を優雅に揺らしている人間は、ごく自然な調子で次々と自分の要求を告げてくる。丁寧な口調ではあるが、要求を告げるという行為を当然とものと思い、またそれを押し通すことを何とも思っていないような様子で、その言動もこの『彼ハ誰』ではあまり見かけないものだった。

 そもそも名前を名乗り合うなんて『彼ハ誰』では誰も行ったりしない。行う、意味も無い。その行為を、ごく自然に、当たり前のように行う人間。


 これが────、『夜』の住人、『女』か。


『女』がどういう生き物であるのか、その性質や性格などに詳しくはないし、興味もなかった。

 ただ、ここまで近い距離で見るのも初めてならば、口を利くのも初めてなので、多少高揚する気分になるのと共に、少しだけ・・・、そう、本当に少しだけだけど・・・、何かが、何処かがざらつくような気がした。たぶん、滅多にない経験をしている所為で感じる、ただの違和感だとは思うのだが。


「名前は、特にないんですけど・・・」

「ない? ないって・・・」

「でも、皆、灰と茶の、とか、灰茶とか、あとは灰色とか茶色とか・・・、まぁ、つまり髪か目の色を好きなように呼んでますよ」

「それは名前じゃないでしょう?」

「はい、だから、ないんです。名前っていうのは。ご存じなかったですか? 『彼ハ誰』では、皆、そうですよ。別に個人を特定する名称なんて、

 興味ないですから・・・、その時々で、とりあえず呼びたい人を呼べればそれでいいんです」


 知らない回答を強引に与えられたかのように、今まで感じたことがほどの驚愕の気配を放つ『女』の様子は、他の国の人間に接しているのだという自覚を否応なしに強要する。

『彼ハ誰』では当たり前のこと。名前なんて改まって個人を特定する名称を考えたりはせず、勿論、与えたりもせず、皆、外見的特徴や住んでいる場所、自分との関係性などで呼びたいように呼ぶ、これが当たり前のことだ。

 誰もが共通でその個人を示せるものを使わずとも、自分が呼びたい相手を呼べればそれで済むことだと思っているし、全ての人間が共通して使う名称を規定するなんて面倒なことをする気力を持った人間なんているわけがない、というのが常識だ。

 だから僕にも、例外なく名前なんてない。白に適当な黒を混ぜ込んだみたいなこの灰色の髪を指して『灰』という単語を使う人もいれば、適当に着色したような薄いこの茶色の目を指して『茶』を使う人もいる。

 一番多いのはその両方を使う『灰茶』という呼び方だが、それだって人それぞれだし、明日『灰茶』と呼ぶ人が、今日も『灰茶』と呼ぶ保証がないくらい、誰もが他者に投げかける呼び方に頓着しない。呼べればそれで良いのだ。呼んだ時、相手が呼ばれていると認識さえすれば良い。

 問題なんて、何処にもない。困るようなことなんて、何処にもない。自分以外の誰かが似たような身体的特徴を持っていて、同じような呼びかけられ方をしていようと、全く困らない。困る、わけがない。個人なんて、どうして特定しなくてはいけないのか、その意味や意義自体が良く分からない。


『自分』なんて、この世の誰にも特定されずとも、この『彼ハ誰』では誰一人、困ったりしないのに。


 一体何が困るのかな? ・・・と、ぼんやり廻らせていた考えは、広げていた取り留めのない思考に力強く足を踏み入れるようなサエミさんの声で踏み千切られる。聞こえてきたのは、「何だか釈然としませんけれど・・・、名前がないのが『彼ハ誰』の方の常識なら、分かりました、これ以上強くは求めません」という、きっぱりとした声。はっきりとした台詞。

 あまりに強い言葉に、強い言葉を使うことのない僕は首を上下に振るだけだけど、求められようと受け入れられなかろうと、ないものはないのだから仕方がないのではないか、等という小さな疑問が浮かんでは、口から零れる前に弾けて消えた。

 強い言葉に抵抗するなんて、たとえそれがどれほど小さなものだったとしても、僕らには難しいものなのだ。

 難しいのにそれを行う理由も特にないのだし。


「あの、それで話を戻すんですけど・・・」

「・・・え?}

「いえ、だからっ、子供を譲って頂きたいと、先ほどからそうお願いしているかと思うのですけど?」

「あ、あぁ・・・、そう、でしたね・・・」


 再びぼうっとしていた意識に突き立てられる、気の所為でなければ多少の苛立ちを含んだ声。

 振り返る限りでは、苛立たれる覚えはないように思うのだが、勿論そんな思いも口に出したりはしない。口にすればこの、『彼ハ誰』の人間では到底、敵いそうにない強さを滲ませた人の気分をもっと害してしまうだろう。

 そんな面倒なこと、出来るわけがないので、素直に戻された会話を眺める。すると曖昧な返事を洩らしながらも、最初に気になったのは当然と言えば当然、相手と自分の認識の違いだった。それも、少し前に一度聞かされた違いと同じモノ。ギンと同じ認識違いが、目の前の人との間にも起きている。

 良く理解出来ない膜の向こうからでも感じ取れる不機嫌を、そのまま口にしようとしているらしい相手が再度口を開くより先に、僕の方が口を開く。相手の行動より先んじて動ける自分に、微かな感動にも似たモノを感じながらも。


「あの、たぶん、間違っていると思います」

「・・・は?」

「僕が、子供を連れているのを見たと・・・、でも、僕、子供なんて連れて歩いた覚え、ありません」

「アナタよ、間違いないわ。私、見たもの」

「それ、今日より先の日付ではないですか? もしくは、今より少し先の時間帯の今日とか。僕が家を出てくる時に見た日付は七月七日だったんですけど・・・、それより後の日付とかでは?」

「・・・分からないわ。時計もカレンダーも、持って来てなかったから。でも、じゃあ、もしかして、アナタ、えっとぉ・・・、あぁ、名前が決まってないのって、面倒だわっ、ねぇ、一番良く呼ばれるのは何?」

「灰茶、です。たぶん」

「じゃあ、灰茶ね。灰茶さん、アナタ、まだ子供を受け取ってないのね?」

「はい、今から受け取りに行こうと思ってたんです」

「・・・そう」


 この国ではなくても全く困らない『名前』、しかし名前があるのが当たり前らしい国の住人は、たとえその国にいるわけではなくても不便を感じるらしい。

 一体何が面倒なのか、さっぱり分からないなと頭の片隅で思いつつも、反対側の片隅では、どうしてまだ自分が見てない子供を皆が見ているのだろうと不思議に思う。

 いつもなら、他の誰かが既に見ている明日は、自分だって同じように見ているものなのに。

 やっぱり『シコウ』が絡むと何かが違うのかもしれない・・・、と有り得そうな予想をぼんやりと広げているうちに、気がつけば周りはいっそう、はっきりとしていた。

 つまり、前方に立っていたサエミさんが、纏っていた膜をまた薄くした、ということ。距離にして、二、三歩まで。こんな距離、初めて会ったという認識の相手に対して取るような距離じゃない。少なくとも、『彼ハ誰』では。


 ────子供が、欲しいの。どうしても、欲しいの。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ