Epilogue
「花、いつ咲くんだろうな?」
「さぁ? 別に、いつでも良いんじゃない? 待っていれば、いつかは必ず、咲くんだろうし」
「まぁそうなんだろうけど・・・、随分気長なこと、言うよな」
「そうかなぁ? 気長ってわけじゃないと思うけど・・・、でも、咲いたらこの蕾の姿はもう見られないんだから、咲くまでは蕾を見ていられるって思えばいいんじゃないかなって思って」
「蕾を見ていられるって言われても・・・」
「ほら、丸まってて、これはこれで、結構可愛いだろ?」
「物は言い様って感じはするけどさ。まっ、受け取るのは俺じゃないし、世話するのも俺じゃないし、灰茶が納得しているなら、それで良いんだろうけどね」
「その、灰茶っていうの・・・」
「なに?」
「・・・いや、なんだろう?」
「は?」
「良く分からないけど、なんか・・・、なんだろう? なんか、変な感じがした」
「変な感じって、何が?」
「呼ばれた時、アレ? って感じだったんだけど・・・、なんだろう? 良く分からないから、別に大したことじゃないんだと思う」
「ふぅん? どうでも良いなら、別にいいけど・・・」
でも、最近、ちょっと変な感じするよな、灰茶・・・、と小さく首を傾けながら向けられた呟きに、僕は何も答えることが出来ないで曖昧な表情だけを浮かべていた。
変なことを言われたからではなく、ほぼ反射的にその通りだなと納得してしまったのに、何故納得してしまったのかが分からない所為で、曖昧な表情を浮かべるより他なかったのだ。
何となく、答えるとするならたった一言で済むような気はしているのだが。
何か、とても落ち着かない気持ちになって、自然と視線が方々へと向かう。しかしそれも長くは続かず、何かの引力が作用しているかのように、視線は結局、たった一つの方向へ向かってしまう。ギンと二人、話しながら眺めていた方向へ。
物言わず、静かにその時が訪れるのを待っているモノ、僕にとって特別な存在になっている、モノ。
特別に買って来た、小さなローテーブル。部屋の壁に沿って置かれたその上に、少しだけ深い、白のスープ皿が置いてあって、その中には白に映える、鮮やかな花が水に浮かんでいる。茎を失い、花だけになったそれは、まん丸に膨らんだ蕾の姿で、花弁を広げるその瞬間を待っている。
オレンジ色に、うっすらと白い和毛が浮いた、可憐な姿で。
きっと綻んで啓いた花弁は、ピンクに一滴の赤を混ぜたような鮮やかさだろう。
・・・何故か、まだ訪れていないその瞬間を知っている気がした。この目に映って、この胸を打った気もした。あまりにも鮮やかに描かれる脳裏の映像に、もしかすると今は知らない少し先の時間の中で、もう経験しているのかもしれない、と思う。
もしくは通らなかった過去に、覚えがあるのかもしれない、とも思う。
断定は出来ない、予測。でも、断定出来なくて良かったとも思う。それが出来ないが故に、僕はきっとこの先、そう遠くない時間の果てに目の当たりにする瞬間を、おそらく、再び新鮮な感動として経験することが出来るのだから。
訪れる瞬間を、心待ちに出来るのだから。
だから断言出来ない何処かに在るのかもしれない経験も、ギンが語る僕に訪れている変化ですら、全く何の問題もなかった。訪れる瞬間を待ち侘びる気持ちが、それらを問題にさせないでいる。ただ・・・、他に、問題はあった。今、この瞬間、この場所で、避けがたい問題が持ち上がっているのだ。
但し、避けがたい問題ではあるし、既に直面している問題でもあるのだが、物凄く、是が非でも今すぐに解決しなくてはどうにかなってしまう、というほどの問題でもなく。
「いい加減っ、しつこいのよっ!」
「そっちこそ、諦めが悪いんじゃないの? なぁ、いいから俺と・・・、」
「嫌だと言っているでしょっ!」
・・・まぁ、自分の部屋であるにも関わらず、全く落ち着けないほど煩い異物的存在が幅を利かせている、という状況を、どの程度の問題として表現したら良いのかが分からないという問題もあったりするのだが。
諦めたような溜息を一つ零しながらそっと首だけで振り返れば、背後では人のクッションを振り回して『男』を殴りつけている『女』と、『女』に柔らかいクッションでとはいえかなりの力で殴りつけられているはずなのに、何故か嬉しげな表情を変えない『男』の、非常に煩い攻防が繰り広げられている。一体何時になったら終わるのか、そもそも終わりが存在しているのか、判然としない戦いが。
数秒、ぼんやりとその戦いを眺めているうちに、自然と首が傾くのをどこか他人事のように感じながら、静かに開いて何かの形を作ろうとしている口の動きもまた、他人事のように感じていた。一体何を象るのだろうかと、半ば、好奇心に近いものを覚えながら、動くままに任せて。
「あの二人ってさ・・・、何してるんだろう? っていうか、何を揉めているんだっけ?」
「え? 知らないけど」
「知らないって・・・、大体、なんでこんな、他人の部屋で騒いでるわけ? なんでここにいるの?」
「なんでって、灰茶が連れてきたんだろ。勝手に」
「・・・そうだっけ?」
「そうだよ。俺、連れてきてないもん」
「そう、か・・・」
「まぁ、連れてきたんじゃなくて、勝手についてきただけなのかもしれないけど」
「そう・・・、かもなぁ・・・」
向けていた顔の向きを戻し、数秒程度では開くことのない蕾に視線を向けながら、開いた唇が象った言葉に改めて、耳を傾ける。何故、ここにいるのか、どうして、ここで争っているのか、一体、何を争ってるのか。
何も分からないけれど、何故か強くは疑問に思っていない。ほんのちょっとした時間潰しのような呟き程度の話題にしかならない疑問は、ギンのあっさりとした返答によって、それ以上の深い追求を放棄させられる。
ただ、全てを放棄した代わりに、ふいに浮かぶ疑問があった。手ぶらになったそこに、ふいに何かが乗せられたような、そんな疑問。口から零れる意識すらなく、耳に自分の声が聞こえていた。
「・・・でも、死ななかったっけ? あの二人」
聞こえた疑問に呼応するような、一瞬にも満たない沈黙。時計の針が、その存在をなくしたような、カレンダーが、その意味を失ったような、表現し難い不可解なそれ。
・・・でも、たぶん、僕の口が僕に承諾も得ずに、意図すら説明せずに洩らしたその疑問の方が、もっと不可解だった。視線を向けなくとも、横にいるギンが疑問を形した表情を浮かべてるのが手に取るように分かるほど、不可解。
案の状、何かを失ったような沈黙の果てに聞こえてきた声は、想像した表情に見合った怪訝そうなものだった。
「何言ってんの?」
「・・・だよね」
「は?」
「いや・・・、なんでも、ない」
やっぱりオマエちょっと変だぞ、というギンの声は、流石に少しだけ心配の色を帯びた、真面目なものだった。
背後の喧噪に紛れそうなそれは、しかし決して紛れることなく僕の耳に届き、一番親しいとはいえ、『彼ハ誰』の住人らしくほどほどに薄い関係を築いていると思っていた胸に、思いの外響いた。たぶん、滅多にないことだが、これが感動というものだろう。
目でも潤まないだろうかと何故かそんなことを思いながら、自分は動揺しているのかもしれない、とも思う。いや、間違いなく動揺しているのだ。だからこそ、訳の分からない発言でただでさえ心配を掛けている友人を、更に動揺させるような言葉を吐いてしまうのだろう。
しかもやっぱり僕自身、何を言いたいのか、何を言っているのか、いまいち理解出来ないその言葉を。
「あのさ・・・、死んだ人って、どうなってるのかな?」
「死んだ人?」
「『死体』もないだろ? 普通。だったら死んだら、その死んだ人は結局どうなるのかなって思って・・・」
「シタイって・・・、あぁ、『死体』か。聞いたことはある単語だけど・・・、それ、言葉だけの単語だろ。そもそも・・・、『死』って、在るのか?」
「・・・ない、のかも。『死体』もないもんな」
「つーか、『死』があったとしても、『死体』ってのは実在しないだろ。生きてないなら、何もないんだからさ。アレは単語だけが何となく出来ているだけだって。そんなの、当たり前のことだろ? それなのに・・・、なんでいきなり、『死体』なんだよ?」
「いや、僕にも良く分かんないんだけど・・・」
一体、何の話をしているのだろうと、話している当事者である僕ですら怪訝に思う。きっと話に付き合わされているギンは、もっと強く思っているだろう。一体これは何の会話なのだ、と。
結局は何の結論も得られず、良く分からない、という単語で締め括るしかないそれは、何の意味も成さない。
意味も成さないが、意味を成すまで意味の無い会話を続けていくわけにもいかず、曖昧に濁した語尾を放棄して、じっと、まだ開かない蕾を見つめた。そして聞くともなしに、背後で上がる噛み合わない叫び声を耳に入れながら、『女』が上げる、「私は子供が欲しいだけなのよ!」という渾身の叫び声に、微かな不快を覚えている。
もう、無理なのに、と思いながら。
終わらない、
始まらない、
────花は、まだ、咲かない。
「・・・いつかは、咲くよ」
「まぁ、そうなんだけど・・・、待ち遠しいよな」
そっと横を向けば、じっと蕾を見つめて微かな笑みを口元に刻んでいるギンがいる。
面倒だと判じていたギンが、滅多に笑みを浮かべないギンが、何かの祝福のような微かな笑みを刻んでいるその様に、何故か、胸が痛むような懐かしさを覚えながら・・・、
────もう一度、僕の子供に会える瞬間を、今は夢の中で見ていた。




