④
驚きは、ない。動揺も、疑問すら浮かばなかった。当然なのだと、有り得るべき事実として素直に目にした何もない掌を認める。ゆっくりと、開いたままの掌を握り締め、何もない事実を噛み締めるようにして受け入れた後、爪が少しだけ食い込んだ掌を解放するように、握り締めていた掌を開いた。確かに感じた痛みの痕は、何処にもない。
それもまた、当然のような気がした。刻んだ痛みを感じるとするなら、何もなくなってしまった掌ではなく、見つめ続ける目、もしくは・・・、この胸に、生まれるモノか。傷跡よりも、もっと赤々しい痕。この痕だけが、痛みならば、この痕こそが、痛みならば。
「・・・名前、は?」
その名を、聞かないわけにはいかない。
この痛みを、知らないわけにはいかない。
『ランタナ』
音もなく、小さな唇から零れる名を、知っていた。
声もなく、小さな唇から溢れる名を、覚えていた。
それは、この国にはいない花。美しくも可憐な、花。
咲き始めはオレンジで、徐々に赤に変わっていく花。
黄色から白、ピンクに変わることもある、多色の花。
それが、この、花の名。僕の、子供の名。
瞬きを失った視界の中で、静かに、子供の細すぎる指先が持ち上がる。伸ばされる、折れそうなほど細い指先は、何かの造り物と見紛うほどの幼さで、しかし決して造り物では有り得ない柔らかな丸みを帯びて、真っ直ぐに向かっている。僕に、向かって。細い指先に貼りつけた、薄すぎる硝子のような爪を見せて。
指差された先に、自分が立っていること。それを、何かの奇跡のようにも、当たり前過ぎる日常のようにも感じる。もしくは、酷く懐かしい過去のように。ただ、僕がどう感じているかはあまり関係が無いのだろう。見つめる先で進む時計を止めることは僕には出来ないし、たぶん、願ってもいない。
そうして指している指よりもっと真っ直ぐな眼差しを向けて、その子は、僕の子供は、再びその口を開く。たった一言だけ、もう一度。
『凜』、と。
・・・何故なのか、分からないことばかり増えていく中で、やはり何故なのか分からないままなのに、聞こえた瞬間にも分かってしまった。『リン』と聞こえたそれが『凜』であること、目の前に描かれたようにはっきりと分かってしまったその字が、聞こえてきた音を描いた形だと、誰に教えられるまでもなく、分かってしまう。
凜、凜、凜・・・、『リン』、
『ランタナ・凜』
それは、名前だ。僕の、子供の名前。僕の子供が持っている、名前。
この国にはない花の名を冠された、僕の子供。
艶やかな美しさと可憐さを持った花の名を冠された、僕の子供の、名前。
僕の子供の・・・、僕の、子供だから・・・、
僕の、名を重ねた名前、
世界が、
場所が、
時間が、
そして、僕が、
乖離しかけていたモノが、気づかぬうちに存在していた違和感が、全て、当然の形に結ばれていく様を、目の当たりにしたような気がする。
足が、しっかりと地面に着いたような、分からなかったままの日付と時間を確認出来たような、覆われていた膜が裂けたような、自分が、自分の手に入ったような、そんな、今までに感じたことのない感覚。
自分がどれだけ覚束ない存在としてここに在り続けていたのか、それを突きつけられているかのようにも思える。知っていた、はずなのに。分かっていた、はずなのに。それでもこの国で始まり、この国で続き、この国で終わる確信があるからこそ、あまりにも慣れすぎて、知っていても、分かっていても、本当の意味で感じられないでいた、違和感。
知らなかったそれを自覚するほど、聞こえてきた形は、脳に見えてしまった形は、僕に、はっきりとした形を与えてしまったのだ。
凜、凜、凜、
それは、その形は、僕が、僕の子供に重ねた形は・・・、
────僕の、『名前』だった、
思い出したわけじゃない。知っていたわけでもない。ずっと、『灰茶』『灰』『茶』、そんな色で呼ばれていて、それ以外で呼ばれたことなんてなくて、名前なんて決まったモノ、当然、存在していたこともなくて。
覚えていたわけでもなく、知っていたわけでもなく、呼ばれたことがあるわけでもなく、それなのに何故か、理解していた。
僕の、名前なのだと。
凜、凜、凜、
それこそが、僕の名前なのだと。
それだけが、僕の名前なのだと。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、
曇りなき真っ直ぐな眼差しを持ち、
迷うことない言葉で、
揺れることのない意思を紡ぐ、
『凜』
僕の名は、そういう名前だったのだ。
僕は、そういう名前を持った人間だったのだ。
僕という人間は、そうあってほしいと願われていたはずだったのだ。
・・・それなのに、どうして誰も、『僕』を教えてくれなかったのだろう?
世界が、膜が失われたはずの世界に再び膜が生まれて、けれどその膜は今までと違い、歪みが酷くありながらも何処か透明だった。その様に、予感を覚えながら一つ、瞬きをすると、予感通りに一粒、頬を温かな涙が零れ落ちる。
そして一粒落ちれば留める術を失ったかのように、一つ、また一つと零れ落ち、瞬く間に頬は知らなかった温かみを帯びて、広がる温もりはやがて零れた時とは比較にならない熱を脳に伝えてくる。
まるでその熱で僕の中の全てを溶かして、何も分からなくしようとしているかのように。
心臓が、震えた。溶かされた脳が、自分を溶かした熱をそのまま血管に流し込み、熱された血液が全身を廻ってしまったのだろう。そして故郷として戻った心臓を、持ち帰った熱でもって沸騰させているに違いないのだ。
煩いほどの心音。沸騰している心臓は、送り出す血もまた、熱してしまう。熱は、全身を行き来する。
浮かされた熱で潤んだ眼差しを向けた先、子供が佇む場所。視線が定まる前に、再び予感は訪れていた。強すぎるそれは既に予感の域を超え、確信に変わるほどで、向けた視線が定まった時、やはりその強さに見合った光景がそこには広がっている。驚きすらないほど、ごく、自然に。
誰も、いないその場所が、
ゆっくりと視線を引き戻すように俯ける。たぶん、そこにも確信があった。これは予感の形すら模さず、最初から確信の形で、そこに在る。すぐ、足下。振り上げる必要すらなく、少しだけ前方に足を振れば、たったそれだけの動きで潰れてしまう、それほど近い距離に、確信は在る。
小さな、小さな、鮮やかな確信が。
この掌に引き渡し、役目を終えた茎すら持たず、鮮やかな小さな身一つでそこに、息を詰めるように、在る。
無機質なコンクリートに直接置かれた、可憐に咲く『ランタナ・凜』、
膝を、着こうとした。手を、伸ばそうとした。しかしどちらの動作も行うことは出来ない。何故なら最初の動作に踏み出すより先に、もう長い間、聞いていなかったような、全くの他人の叫び声のようなモノが耳を貫いたからだ。
僕と、僕の子供以外消え失せてしまったかのようなこの場所に、全く違う命の、声が。
浴びせかけられた、意味を成さない叫び声に反射的に振り返ると、そこにはこちらに向かって駆けてくる人の姿が見えた。長い黒髪を振り乱し、裾を荒らして白く、細く、滑らかな足を剥き出しにして全力で走ってくる姿を、知っていた。
いつの間にか再び膜が消え失せてしまっている所為で、向けてくる顔と、浮かんでいる表情すらはっきりと見てとれる。追いつめられたような、追いつめるような、その、必死の形相が。
「こっ、ども! 子供を・・・!」
声が、言葉として認識出来たのは、手を伸ばせば届く距離に近づいた時だった。その声に理解が及んだ瞬間なのか、それとも理解より僅かに早かったのか、微妙なタイミングだったように思う。ただ、どちらであっても起きた事態には大差ないのだろう。他人事のように眺めている、その目の前で起きたこと。
近づく人・・・、『女』に伸びる、両手。勿論、僕の両手。但し、僕の意思から離れた、両手。その両手が、近づいて来た『女』の首に絡まる。収まるべき場所を知っているかの如く、当然の流れとして、絡み、そして・・・、最初に喰い込んだのは、おそらく、爪。十本全ての爪が食い込み、沈んでいく。
『女』の動きの、一瞬の制止、やがて激しい再開、振り回される手は規則性を失い、ただ闇雲に宙に振られる。何処にも辿り着くことなく、何も、掴むことなく。
僕はその手を何処か遠い意識で眺めながら、力を、込める。指先から掌に、掌から指先に、徐々に、徐々に、際限なく込めていく。爪が沈み、指の腹を押しつけ、掌で細い首を包むように挟み込み、無心に、締めつける。
押しつける掌は、酷く温かい。何か、早いリズムが押しつけている掌を通して聞こえてきて、力強いその音に呼応して、僕自身からも同じ音が聞こえてくる。同じような音、でも、絶対的に違う音。当たり前だ、命の、音なのだから。同じ音でも、違う音。決して同じ音がない音。
この、手の中に在る、音。
僕が今、握り潰す音。
・・・一体何時、事切れていたのか? ふと気がついた時には、女は身動き一つしなくなっていた。もう掌に感じる音も、ない。ただ、僕自身の音は聞こえている。僕の、中に。
喰い込ませた時よりゆっくりと、指を、爪を、その場所から引き抜いていく。十本、全てを抜き去った後、何かの指令を受け入れたかのように、掌もまた、嘗ては温かかったそこから離れていき・・・、『女』の身体は全ての力から解放され、唯一残っている重力という力に従い、静かにその場に崩れ落ちていく。
しかしその身体が冷たいコンクリートの上に落ちきる直前、誰かが描いた模様のような皹が突如として全身に浮かび上がり、瞬きよりも早く全身に広がった。
そして一瞬、全ての動きが止まり、次の瞬間、何時か、何処かで聞いた覚えのある澄んだ、硬質な音が辺りに響き渡ったかと思うと、『女』は、『夜』の『女』は・・・、『女』は・・・、
『サエミ』は、
とても見覚えのある破片になって、辺り一帯に散らばっていった。きらきらと、辺りに存在する全ての明かりを集めて、たぶん、今までの人生で一番輝く姿に変わって、散らばって、そして・・・、感じる気配もない風に吹かれて、消え去ってしまう。
何処に消え去るのか、誰にも何も伝えないままに、何処か、遠くへ。
また消え去ってしまうのだなと思ったのには、特に深い意味はなかったように思う。何も考えないで、漠然と浮かんだ感想を胸の内で呟いていただけだったのだろう。
あまりはっきりと自分の心情を理解出来ないが、きっとその程度のことだったのだ。掌で感じていた熱も、消え去ってしまった今となっては大したモノではなかったのだから。
感じる他者の熱を、この世界が変わるほどの出来事のように感じていた自分は、もう、ここにはいない。もしかすると、生まれた時からいなくて、今に至るまで、いないことをただ忘れていただけだったのかもしれない。そんな、気もする。
だって、僕は『凜』なのだから。
再び全てが消え去った先、味も素っ気もないコンクリートの上には、茎を失い、そこに直接その身を置いている花が在る。今の騒ぎなど何の関わりもないと言わんばかりの様で静かに在り続ける花へ向かって、膝を折り、両手をそっと伸ばす。
握り締めれば潰れてしまうほど脆い花、その命を決して傷つけないように、細心の注意を払って掬い上げるように持ち上げて、掌に再び納めて。
片手で包んでもあまりあるほどの小さな花を、両手で大切に、大切に包み込み、感じる温もりを、熱を、心音を、どんな言葉に変えることも出来ないほどひたすらに、尊く思う。
この存在より他に尊いモノなんて存在しないと、傷ましいほどに確信しながら、目を閉じて、数秒、包み込む掌の中だけに全てを思い、思った全てを理解してから、ゆっくりと閉ざしていた目を開く。
『凜』
すぐ目の前で、一心にその眼差しを向けてくる、僕の、子供。
『ランタナ・凜』、『彼ハ誰』の住人である僕の名と、『誰ソ彼』の花の名を持つ、『彼ハ誰』の僕の、『誰ソ彼』の子供。
二つの国の名を持つ、子供。
この『彼ハ誰』にあって、唯一の『誰ソ彼』を持つ、子供。
薄暗い膜に包まれた国において、唯一、咲く、鮮やかな花の子供。
僕の、子供、
手を、伸ばす。
何もない、この手を、伸ばす。
細い、細い、子供の首に向かって。
両手で包み込めば、指が余るほどの細さなのに、感じる熱は他の比ではなく、熱い。
この熱が、他とは比べものにならないほどの価値を持つのだと、知らされる。
掛け替えのない、存在だと。
掛け替えのない存在を、得たのだと。
僕の、子供。
僕だけの、子供。
じっと、掌にその熱を感じながら、上向いて真っ直ぐに見つめてくるその眼差しを見返して、ゆっくりと口を開いた。
意志ではなく、たぶん、意思によって。
ランタナ、
ランタナ・凜、
僕の、子供、
『彼ハ誰』の僕の、『誰ソ彼』の子供、
「お願いだから・・・、いつか、意味を教えて────、その、名の意味を」
二つの国の名を得て生まれてきた意味を、どうか教えてほしい・・・、そう、小さく、小さく囁いて。
同じくらい小さな笑みを、僕の子供がその時、浮かべてくれたのをこの目で確かに、見たと思う。
そう、確かに見たのだと。
────僕の子供の熱が、音が、掌から消え失せる前に。




