②
────この子が、全ての理由、原因、そして・・・、これからの、アナタ、そのものです。
指が、僕よりずっと太くて無骨な指が、一本、静かに立てられる。立てたその人差し指を、左手のそれを、少しだけ柔らかに曲げたかと思うと、立てた時と同じほどゆっくり、ゆっくりと下へ向けていった。力なく折れ曲がる、首にも似た仕草で。
時間を掛けたその動きに、力があるわけではない。でも、何かが、あったのだ。追いかけろと言われたわけでもないのに俯く指先を追いかけた視線は、やがて指し示された先、僕と『シコウ』のその人との間の地面へ落ちる。座り込んだままの場所と、地続きになっている、そこ。
手を伸ばせばすぐに届くような目の前。冷たい、土の色なんて知らないコンクリートの上。
汚れきった灰色、乾ききった灰色、終わりきった灰色、つまり色彩と瑞々しさからは一番遠い場所に位置しているかのようなそこは、指し示されても尚、いつもと変わらぬ色に染まっている。この国に充満した膜が、浮かんでいることに疲れて地面に敷き詰められたような色。
・・・ふと、思い出す。昔、この色と同じ名称で呼ばれる色を持ち、そしてその名で呼ばれることを、とても不本意に感じていたことを。
どうして、忘れてしまっていたのか? 忘れて、呼ばれても平気で返事をするようになったのは何時からだったのだろう? ・・・いや、そんな疑問、どうでもよいのだ。疑問に思うべき場所は、そこではない。もう少し手前、それらの疑問を抱くより先に、抱くべき疑問がある。間違いなく、あるのだ。
疑問、時間が並んでいるならば、真っ先に気づきそうな疑問。
僕は『彼ハ誰』の人間のはずなのに、どうしてそんな、拘りとも言えるような疑問を抱いてしまったのだろう?
まるで、胸の内に零した疑問を聞き取ったかのようだった。思考に囚われて呆然としている僕の目の前で、いつもと変わり映えのしない無骨で寒々しいコンクリートに、変化が生まれ始めたのは。
あまりに静かにゆっくりと訪れた所為で、変化している視界の中に気づかないほど、それはとても自然に変化していた。
しっかりと敷き詰められていて、隙間なんて存在しているとは思えなかったそこには、見ていても気づけないような僅かな隙間があったらしく、コンクリートを引き剥がすようにして、何かが見え始めたのだ。たとえどれほど小さくとも、見えてしまえばその存在を意識せずにはいられないような・・・、鮮やかな、色。
オレンジに、一点の赤を混ぜたような、それ。
あまりに鮮やかすぎて、目にしているそれが一体どんな形状をしているのか、刻一刻と変化していく形状が、一体どんな変化を迎えているのか、目にしていても尚、脳が理解の為にその力を注ごうとも努力が報われないほど、艶やかで鮮やかな変化。
今まで見たことがないと一瞬、思って、しかし次の瞬間には、すぐにその思いを否定する自分がそこにいた。
これほど鮮やかな、この国には存在しないようなモノを、しかし自分は初めて見たわけではない。もう何度も、この鮮やかさに目を奪われ、その度に・・・、この国から剥がれ落ちるように、少しずつ変化していったのだと、知らなかったことを酷く懐かしく思い出す。じっと、視線を落とした先の鮮やかさに目を奪われたままで。
小さなその色の形をようやく認識出来たのは、たぶん、懐かしさが全身に染み渡った頃。コンクリートの気づかない隙間から生まれたそれは、小さな、小さな、蕾だったのだ。
丸く膨らんだ蕾を支える茎も鮮やかな緑で、しかしとてもか細いそれに、いつ蕾が零れ落ちるのか不安になるほどの頼りなさを覚え、ふと、この不安を感じたのも初めてではないと気づく。
不安を覚えた瞬間にも、どうにかしなければと胸に迫る勢いで思い詰めたその瞬間すら、この身体の何処かに刻まれているのだ。
何処に刻んであるのかは、ひと欠片だって思い出せないくせに。
ゆらゆらと、風もないのに揺れる蕾は、茎の細さに対して重すぎる自身を持て余しているようにも見えた。同時に、膨らんだ蕾の重さを誇っているようにも見える。
勿論、全ては見ている側の感想でしかないのかもしれないが・・・、勝手な感想を抱いている間にも、蕾は益々膨らんでいく。楕円を描いていたものが、やがてほぼ完全な球を描き、何かの予感に今まで以上に強く、強く、震えて。
「アナタに、お渡しします」
予感は、実を結ぶ。
震えた丸みは、花弁として形を成す。
一枚、また一枚とその身を開き、丸から別の形を描く。
幾枚も広がる、薄い、可憐でいながら、鮮やかな存在感を放つ存在に。
啓く、花、花、花、
オレンジに赤を一滴溶かした花弁の内側は、白を滲ませたような柔らかく、艶やかなピンク。
真白を色で表したような、純心に色づけたをしたかのような、穢れを知らぬ白を飾り立てたような、純粋な華やかさを持つ色。
一点の曇りのない、くすみのない、汚れのない、曖昧さを知らない、モノ。
まだ、世界に触れたことのない、世界に従ったことのない、花。
今、
この瞬間、
見つめる視線の中で咲く、
「この子が、アナタの子、『誰ソ彼』の子、です」
『全てがある国』、この『彼ハ誰』の人間が、決して出会うことがない国の住人、出会うことが許されていない人、全てが鮮やかに色づき、色を持たないことは許されず、鮮やかな色以外も許されず、欠けた部分は一点もなく、全てが満たされ、目が眩むほどの艶やかさに、擦れ違う人の顔すら眩く、見わけがつかないという国。
『誰ソ彼』、話に聞いたことしかない国と、話に聞いたことしかない住人、永遠に、話に聞くだけの存在。
花は、もう完全に咲いていた。この国には存在しない色合いを持ち、今にも抱き上げられるのを待ち侘びている。抱き上げ、命を紡ぎ始めるその瞬間を夢見ている。
そして『シコウ』のその人は、抱き上げる役を担うのは僕だと告げているのだ。花が、誕生したばかりのこの花が、命を紡ぐ瞬間をもたらすのは僕だと、そう、告げている。
この花が、この『子供』が、この『彼ハ誰』に今咲いている存在が、ここには存在しないはずの『誰ソ彼』の『子供』なのだと。
目が、離せなかった。けれど、目を離したかった。それは咲いた後も可憐に揺れる花から目を逸らしたかったのではなく、きっと、今も尚、僕を見下ろして、理解不能でありながら事実でしかないだろう信じがたいそれを告げた相手に、問いを向けたいが故の衝動だった。衝動が強すぎて、何をどう言えば良いのか分からないのに、それでも何かを言いたいと痛切に願う、本能にも似ている、それ。
混乱、していた。混乱、しないわけがなかった。だって、『誰ソ彼』なのだ。話に聞くだけで、目にすることなんて生涯有り得ないはずの存在が、今、こうして目の前に在る。おまけにそんな存在が、これから僕の『子供』になるのだと告げられているのだ。
『彼ハ誰』の住人である僕が受け取るべき子供は、考えるまでもなく『彼ハ誰』の子供だけだ。他には有り得ないのに・・・、よりにもよって、出会うことすら許されない『誰ソ彼』の子供を受け取るなんて、混乱するなという方が不可能だろう。
何故、そんな有り得ないことを告げられているのか?
何故、そんな有り得ないことを告げられるのが、よりにもよって僕なのか?
何故、何故、何故・・・、
何故、花は咲いたのか?
何故、花は未だに揺れているのか?
何故、その揺れる様がこの手を待ち侘びているように見えるのか?
何故、何故、何故・・・、
「私のね、独断なのです」
「・・・え?」
「他の国の子供を渡すなんて、許される行為ではありませんよ。当然のことなのでしょうが」
「そう、なんでしょうけど・・・、じゃあ、この子、は・・・」
「だから、私の独断です。勝手に連れてきたのですよ。アナタに、渡す為に。本来、許されないことです。絶対に、許されない。未だかつて、一度だって実行されたことのない、前代未聞の問題行動でしょうね」
「・・・」
「その所為、ですよ」
「なに、が・・・?」
「規則違反です。この行為が、絶対的に許されない規則違反なのですね。その所為で、私は罰を受けるわけです。おまけにアナタにとってはとばっちりなのでしょうが、お見苦しいモノをお目に掛けることになるのですよ」
「お見苦しいって・・・、」
「ご覧に入れたでしょう? ・・・私の、『死体』ですよ」
脳裏に浮かぶ、見た覚えがあるけれど見覚えのない、生きていないモノの形。
『死体』、この世界には存在しないはずのモノ。けれど、間違いなくこの目に映ったモノ。
漠然と、鮮明に思い出されたソレに、あぁそうか、と自然に腑に落ちる。有り得ないモノが存在した理由、それは有り得ない罪が犯されるが故に下された、誰も受けたことのない有り得ない罰だったのだ。有り得ないから、起きたことがないから、誰も目にしたことがなかった。誰からもその存在を聞いたことがなかった。
『死体』、今まで存在したことがなかった罪と罰の証。
今まで誰も犯したことのなかった罪・・・、それを犯した人が、犯そうとしている人が、ここにいる。
改めて胸の中でそう事実をなぞった途端、離せなかった視線が静かに花から剥がれ、落ちていた視線がゆっくりと仰向いていく。花を挟んで、目の前に佇んだままでいる人。黒いスーツをなぞるように上げた視線は、やがてこちらを見下ろしている視線と結ばれる。
おそらく、ずっと見下ろしていたのだろう。見下ろして、花が咲く様を見つめる僕の姿を、花が咲く様とともに見つめていたのだろう。
確信が自然と結ばれるほど、向けられている眼差しは揺るぎない形をしていた。僕が認識しているよりずっと多い時間が重なっても尚、揺るがずにそこに在り続けて一つの形を作り上げたかのような、強固な形を。
黒い瞳をしているのだと、何故か視線が結ばれた途端に目が覚めるようにそれだけを思った。薄暗い国、曖昧な国、くすんだ国、でもだからこそ、純粋な黒という、ある意味において鮮やかな色を見かける機会は思いの外少ないのだと、この国で生まれてこの国で育ち、この国で失われていくはずの僕が、今更ながら気がついた。
別に今、気づかなくてはいけないことでもないのに・・・、現実逃避のように、今、気づいてしまった。
そして、もう一つ、気づく。気づいて、しまう。無駄なのだと。いくら逃避しようとも、別のものに気がついてしまうのだから。
「・・・なん、で・・・、罰、なんて、どうして、そこまで・・・?」
「どうしてそんな罰を受けてまで、こんな罪を犯すのか、ですか?」
「そう、です。だって、こんな、何の意味があって・・・」
「意味なら、あります。価値も、あります。少なくとも、私にとっては。そして・・・、願わくば、アナタにとってもそうであれば良いのですが。アナタと・・・、アナタ以外の、全ての人、この国と、他の国と・・・、そして、この子にとっても・・・、」
────私はね、見てみたかったのです。人が、変われるのか、否かを。
「まずは、それを見てみたかった。全ての意味と価値は、そこから始まるのだと・・・、確信、していたのです。だから、罪を犯すと決めました。罰を、受け入れると決めました。それだけの意味と価値があると、気がついてしまったからです」
「あの・・・、意味が、よく・・・」
「受け取ってください。私にとっては、これが最初の結末ですが・・・、アナタにとっては、最後の始まりなのですから」
告げられる言葉の意味は、ほぼ何も分からなかった。唯一分かるのは、語る相手にとってはどれほどの罰を受けようと、この罪を犯すだけの意味と価値があったということだけ。
それがどんな意味なのか、どんな価値なのかは具体的に語られないので、分からない。尤も、語られたところで理解を示せたかどうかは分からないが。
・・・ただ、最後の一言の意味だけは、分からないなりに漠然と感じられるものがあった。僕の、始まり。最後の、始まり。つまり、それはきっと本当の始まり、という意味なのだ。
漠然と変わっていっている自分、途切れ途切れに起きる異常、何かが異常なほど動いている予感、たぶん、それらはこの始まりの断片で、この今がその断片の塊、本当の始まりで、この始まりが始まれば、もう始まりは訪れない。
あとは、続くだけだ。何かの終わりまで、何かが続くだけ。もし終わりがないのなら、永遠の続きになるだけ。何が続いていくのかは、何が始まっているのかすら漠然としている僕には、分からないことだけれど。
そして、もう一つだけ分かる。分かってしまうことが、ある。避けがたい理解。知らない振りも、気づかない振りも出来ないそれ。
────この始まりは、もう、避けられない。
伸ばされる指先が、酷く震えている様をまるで他人事のようにどこか遠くに見ていた。それでいて、伸びる指先が、柔らかく儚く、触れた指先を擽るような和毛の感触を、身体の表面ではなく、中身で触れたかのように全身が震えるほどの衝撃をもって感じている。
指と指で挟めば潰れてしまうほど、小さく儚いモノ。脆いモノ。
どうしてそれが、こんなにも触れた者に衝撃を与えるほどの存在として在れるのか? どうしてこんなにも、こんなちっぽけな存在に衝撃を受けてしまうのか?
これが、命か。これこそが、命か。
両手の指先で包み込むように、小さな花を掬うように下から触れる。指の腹に、掌に触れる感触はいっそ、泣きたくなるほど温かい。小さな鼓動が、これだけ小さいにも関わらず、命であることを、生きていることを、生きたいと願っていることを伝えてくる。
・・・伝える? 違う、そんな生易しいものじゃない。これだけ小さく、脆く、弱い存在であるのに、聞こえてくるのは叫び声だ。命ごと迸る、どうしようもない叫びだ。
聞こえてくるその叫びに、握り潰さないように細心の注意を払っていた指先が、気圧されるように震えた。そしてまるでその震えに応じるように・・・、花が、震える。
今までの、吹いていない風に揺らされているかのような動きではない、何か、もっと明確な意思を感じさせるような、はっきりとした震え方。意思の力だけで身を震わせているかのような、それ。
自然と息を詰めて見守る先で、花は次第にその動きを強めていき・・・、やがて震えは決定的な形に結ばれる。おそらく、この花が花として蕾を結んだその瞬間から、果たされるべき形として定めされていた結末。震え続ける動きが一瞬、止まり、次いで、今までの激しい震えが嘘のように静かな、自然な動きで・・・、
この、掌に、
茎は、いつの間にか消えていた。支えるべき花をこの手に託して、その役目を終えたからなのかもしれない。細い、細い、頼りなくて不安ばかり煽っていたあの茎は、こうしていずれは花を他に託し、消え去る運命を持っていたからこそ、あの細さだったのだろうと、今更ながら気づく。
あの細さも含めて、あの茎の役目だったのだ。果たされるべき、役目。
果たされたのは、この掌に託す役目か。あの茎の役目が果たすことならば、この手には今、託された役目があるのか。役目、あの茎が託したモノ。はっきりと感じられる重みと熱、自身の存在の一切を託している、もし放棄されれば消え去るより他ない、それほどまでに託されている、花。新しい、『命』、誕生したモノ。
掌で響く心音を、全身で聞いていた。全身が、聞いていた。
最初の、泣き声を聞いていた。




