①
────甘美な苦しみなのか、苦しい甘美なのか、感じているのは絞めている手か絞められている首か、何も、分からなくなってしまった。
『────:────────』
壁にたった一つの主張のように掛けられたカレンダーと、そのカレンダーへの挑戦、もしくは共闘でも示しているかのような壁掛け時計へ視線を向け、本日、只今の日付と時間を確認する。
お目出度い数字が二つ並んだ日付に、何の意味づけも出来なさそうな時間が示されていたが、別にカレンダーに並んだ数字がお目出度かろうと、刻まれている時間に何の意味づけが出来なかろうと、特に何かに困るわけでもなく、何か影響があるわけでもない。
ただ、落ちていたらしい眠りから覚めるとほぼ自動的に行ってしまう自分の行動に、その確認作業が含まれているだけだ。定まる日なんて永遠に訪れない『今』というモノをとりあえず仮定して、目が覚めたばかりの自分の現在地を確定させる為だけの行為。
それは目が覚めてすぐ、視線が現在地を探すより先に伸ばした自分の両手が、繋がった根元から続いているはずの首に絡まるのと同じような意味合いの行為でもある。
喰い込む爪と、押しつけられる指先と、全身に廻る震えと、
いつだって、意識しないままに最初に絡むのには左手で、その上に僅かに重なるようにして右手が絡む。絡んだ先の首に最初に喰い込むのは少しだけ伸ばしてある爪で、これは長すぎると痛みだけが特出して感じすぎるし、短すぎると痛みが圧迫感に打ち消されてしまうので、ぎりぎりの感覚が残るような長さに揃えられている。
おそらく、髪の毛十本ほどの厚さ。これはこの身体の中で、唯一にして尤も気にしている部分だ。他に気にかけている部分など一つとしてないし、また、その必要も無い。指の腹がもたらす圧迫感も、痛みと苦しみも、何も気にせずとも感じることが出来るのだから。痛みと苦しみ。痛みと、苦しみ。与える、痛みと、苦しみ。
詰まる息、
溢れる涙、
霞む意識、
・・・『コレ』は、今日もここに在る。────『今日』?
────、
──・・・、・・・、──、
・・・、・・・──、──、・・・・・・、
『違う、これは、終わった『今日』だった』
********
「そうだね、それはもう、繰り返す必要も重ねる必要も無い時間だよ」
・・・目が、覚めた。
まるで目の前に広がる膜が力任せに破かれるような唐突さで、目が覚めたのだ。何の余韻もなく、暗い部屋で手探りに点けるスイッチのような軽い合図とともに、世界が現実として目の前に立ち上がるのに似た様で。瞬きすらしようと思えないほどのそれに、数秒、息すら忘れて呆然と固まっていたように思う。
鼓膜が、振動している気がした。何かの音を、捉えたかのように。しかしその振動の意味を理解するより先に、身体は染みついた行動を何の意識もしないままに行う。力が抜けきった手を持ち上げ、世界と自分の境界を引くべく、持ち上げた手を首に巻き、触れた指の腹を、爪を、静かに、ゆっくりと沈み込ませて・・・、
「それも、不要だと思うよ。いつもの目覚めとは今の目覚めは違うからね。何もしなくとも、世界とキミの境界は既に鮮明だろう?」
・・・それもそうだ、今はこれは必要ないのかもしれない。
あまりにも簡単に、腑に落ちた。爪が僅かに喰い込む程度で納得した手は、理解を得て力を抜き、静かに首から離される。離された手はその置き場を心得ているかのように横たわる場所に押しつけられ、それが使命なのだと言わんばかりの自然さで上半身を起き上がらせた。
そして果たされた使命によって上半身を起こした後、信じがたいことに気がつく。何も考えずとも行われいた行動が、一つ欠けていることに。こんなこと、今まで一度としてなかったのに。
気づいた途端、漲る使命感に急かされて慌てて目が壁のカレンダーと時計を探し、立ち位置の確認をしようとして・・・、しかしその強い使命は、残念ながら果たされることはなかった。
カレンダーと時計が見つからなかったからだ。
探せなかった立ち位置に、その時、ようやく目が瞬きを思い出す。思い出した途端に数回、行った瞬きは、しかし探し続けていたモノの発見に貢献することは出来なかった。
幾度瞬きを繰り返したところで、見える景色が変わることはない。瞬きした目で幾度周りを見渡そうと、カレンダーと時計どころか、それらを掛けられそうな壁すら見つからない。
見えるのは、周りを何重にも取り囲む、薄暗い膜ばかりだ。
・・・膜?
瞬きが、忙しくなく何度も繰り返された。今度は見えないからではなく、見えるモノに対する認識を再度、改める為で、しかしやはり何度繰り返しても何の意味も成さない行為でしかない。見える世界は変わらない。見えるのだから、変わるわけもない。
世界が変わるのは、時間が順番を守らないのは、いつだって目を離した瞬間なのだから。
だから目を開けている今、映っている世界は変わらない。膜ばかりが充満し、現在地が何も分からないここは・・・、『彼ハ誰』の屋外だ。つまり、外、つまり、往来、つまり、部屋ではないところ、つまり、本来なら寝転んでいるべきではない場所。冷たいアスファルトに横たえていたらしい身体は、自覚した途端、染み渡るような寒さと縮み込むような強ばりを自覚する。
次いで、自覚する。自分が屋外に寝転んでいたこと、その、良く分からない状況を。
「七月七日の、十二時丁度、ですよ、今は」
耳に、入り込む声。言葉を突き刺すようなそれに、聞き覚えはない。ただ、突如教えられたそれが、とても正しいものだという確信だけは明らかな気がした。この目で見るよりも、この手で触れるよりも、もっと、もっと明らかな気が。
少しだけ開いている口から持てるだけの息を吐き出して、それから新たな空気を吸い込む。でも、吸っても吸っても息苦しさは変わらない。
今は、七月七日、十二時。
確認が取れずともそれだけが認識されたのを自覚した途端、息苦しさは消えた。代わりに、疑問が浮かぶ。確認出来なかったのに、どうして分かったのかという根本的な問題。
でも、その疑問はとても簡単に解ける。一体何故、今の今まで視界に映らなかったのかが理解出来ないほどはっきりと、すぐ目の前、たった数歩離れた位置に、現実感を伴ってソレは在った。
最初に目に入ったのは、皺一つない、真っ黒なパンツ。折り目すら見える黒がスーツであることに気がついたのは、徐々に上げていった視線が真っ白なシャツとその上に羽織られた真っ黒な上着の存在を見つけたことによって、ようやく目の前の存在が着ている服がスーツであると認識出来たのだ。
この国では、あまり見かけない格好だった。それでいて、とても見覚えがある格好でもあった。同時に、とても見慣れない格好でもあった。
黒いスーツの、少しだけ僕達より体格の良い姿。今まで何度も見かけた気がするそれは・・・、こうして立っている姿ではなく・・・、もう少し違う姿のはずだった。自らの足で立っていられる状態を見かけたことなんて、一度もなかったはず。
掬おうとすればするほど指の間から零れていく水のように、何かが思い出せそうで思い出せないような気がした。するすると零れていって、決して完全な形で思い出すことは出来ないのに、掌に幾許か残ってしまうので、思い出せないと断言することも出来ない、中途半端な気分。
どっちつかずの状態は居心地が悪く、零れていく水を追いかけずにはいられなくなってしまう。
そうして追いかけ続けているうちに、視線は上へ、上へと向かう。つまり、身体の上部・・・、顔に向かって。座ったまま立っている人の顔を見上げれれば、当然、首の後ろに違和感を感じるほどの角度になるが、その違和感を無視して尚、見上げても、顔はあまりはっきりしない。距離があるというより、充満する膜に阻まれ、容姿がはっきりしないのだ。
勿論、顔がはっきりしないなんてこの国では普通のこと。むしろ顔がはっきりした方が驚くべきことではあるのに、霞んだその顔を見上げながら、何故か霞んでいるその姿に多少の驚きを覚えてしまう。このスーツ姿の人の顔が霞むなんて、と。
この人は特別で、『彼ハ誰』の膜をもってしても曖昧に覆い隠すことは難しいのではないのか、と思って。
・・・何を、思っているのか? そもそも、どうして、ここに?
自分が抱く感情が、理解出来ない。そして良く分からないその感情の動きを追いかけているうちに、根本的な疑問へと立ち返っていく。まだ、コンクリートに直接接したままの下半身が冷たさを訴えている。
立ち上がろうにも、どうしてこんな状態に陥っているのか、それが分からないので、立ち上がった先の行動も思い描けず、結果、下半身が訴え続けている冷たさから逃れる行動が取れないでいる。
ここは、何処なのか。どうして、ここにいるのか。これは、誰なのか。何を、思っているのか。一体、どうしたいのか。
疑問は幾つも浮かび、周りから僕を取り囲んでいるように感じる。抜け出せる気がしない。だから、動く気にもならない。立ち上がりもせず、ぼうっと目の前に佇む人を見上げ続けて・・・、何も考えないでいるその口から、何も考えていない所為で酷く簡単に言葉が零れ落ちた。
膝に落ち、地面を転がるまで存在を認識出来ないほど、簡単に。
「死んだんじゃなかったんですか?」
誰の声だろうと、純粋に不思議に思った。
一切の感情を欠いたような声は、平坦で、何の熱もなく、まるで空中に文字でも書かれたかのように、声という音である自覚を失っているのだ。そんな声が自分の口から零れるなんて想像したことすらない僕には、聞こえていたそれを自分の声だと認識するまで、多少の時間を要するほどで。
ましてや言葉という形になったそれが何を意味しているのかも把握出来ずに、馬鹿のように消えた声の実在だけを疑っていた。形にされた言葉が、疑問の体を成していたというのに。
「それは、数時間ほど前と後のことですよ。今は・・・、約束の瞬間なので、免除ですね」
「・・・前、と・・・、後」
「えぇ、そうです。どちらもご覧に入れているようで・・・、お見苦しい姿をご覧に入れてしまい、申し訳なく思っています」
聞こえてきた声は、先に聞こえた自分のものとは思えないあの声と同じように平坦で淡々としているのに、不思議と声としての微かな体温が感じられるものだった。
感じた体温がどういう感情によるものなのか、そこまで詳細なものは聞き取れないが、感情がそこに在ることだけは感じられる、そんな、声。とても丁寧で穏やかな口調で綴られるた言葉は、理解より先に思わずなぞるように反復したくなるようなものだった。
その人は、おそらく僕が何も理解出来ないでいるのを見て取っていたのだろうが、構うことなく丁寧で穏やかな口調を維持したまま、今まで向けられたことのないような丁寧な謝罪を告げてきた。左手を胸に当て、軽く頭を下げるような仕草を見せながら。
見せられたその優雅とすら言えそうな仕草すら初めて目にするもので、それら初めての経験はすぐさま動揺を誘い、相手の発言どころか、自分の発言の真意すらも遠ざけてしまう。
何を言ったのか、何を聞いたのかすら、遠く。
胸に当てられた手が外され、下げられていた頭が上がり、よく見えない顔に備わっている眼差しが再び向けられるのを、為す術もなく眺めているだけだった。
少なくとも、僕の中では見ている以外には何もしていないし、することもないと思っていたのだが・・・、自分という存在は、案外一つに纏まっているものではなく、また指示系統も整っていないようで、思っていたのとは違う動きをする部位が多々あるようだった。
たとえば、命令したわけでもないのに動きだす、この口のように。
「アレ・・・、なんだったんですか?」
「アレ? ・・・あぁ、『死体』のことですか?」
「そう・・・、かな? なんか、ちょっと良く分からないんですけど・・・」
「『死体』で間違いないと思いますよ」
「・・・そう、ですか」
「アレはですね、規則を破ってしまうので、まぁ、つまりは罰則というか・・・、見せしめの意味もあるのかもしれませんね」
「き、そく・・・? あぁ、規則・・・、罰則って、罰? 見せしめって、だって、『死体』なんて、あるわけないモノを置くって、そんなこと・・・」
「出来ますよ、勿論。私達・・・、『而』の人間なら、ね」
尤も、私は規則違反を行うので、『而』の人間ではなくなるのでしょうが・・・、と続いた台詞に、活動を停止していた脳が唐突にその動きを再開させる。
キーワードは、『シコウ』だ。
聞こえてきたその単語が動いていなかった脳を刺激して、流れていたのかどうかすら疑問だった血液を、勢い良く、全身に流し始める。つまり、今の今まで脳だけではなく、心臓まで活動を停止していたのかもしれない。
まるで、いつか見た、いつか見るかもしれない、『死体』のように。
じっと、急激に動きを再開させた臓器から齎される刺激に堪えるように、身体を強張らせ、耳だけに神経を寄せ集める。何故、耳に神経を集めなくてはいけないのか、理由を知らないままに。そして衝撃で渇きがちになってしまった目の為に、何度も、何度も瞬きを繰り返しながら。
『シコウ』の、人間。目の前に佇む人は、格好は勿論、全体的な体型がこの『彼ハ誰』の住人と異なっているのが目を凝らすと良く分かった。縦も横も一回りか二回り、大きく、全体的に僕達より硬く、丈夫に出来上がっているのだろうと察せられる姿で、纏っている洋服の所為もあるのかもしれないが、全体的な雰囲気自体がこの茫洋とした国とは馴染まない、もう少しはっきりとした色を纏っているように感じた。
そしてそんな見た目以上に、話し方や発する言葉が、僕達とは決定的に違うのだ。丁寧で穏やかではあるが、自分の意志という存在をはっきりと感じられるような、その意志をどうあっても押し通す気でいるのが分かるような、声。押し通すことが自然で、阻む者を知らないような、声。
これぞ、世界の運営に携わり、他のどの国の人間とも違う権限を有する国の人間だと納得せざるを得ないような、そんな声と態度。
これが、『シコウ』か、
これこそが、『シコウ』か、
「さて・・・、約束の瞬間はそう長くも持ちませんし、本題に入りましょうか」
「・・・本題?」
「えぇ、私が破った規則、アナタをここに呼んだ理由、そして、アナタがこの国との調和を崩し始めている原因ですよ」
「・・・へん、なのは・・・、」
「お受け取りください。アナタが、受け取るのです」
────この子が、全ての理由、原因、そして・・・、これからの、アナタ、そのものです。




