③
『それとも、僕はもう、生きていないのだろうか?』
悲鳴が、迸りそうになった。浮かんだ発想はそれほどまでに怖ろしく、全身に走っている震えはいっそう強さを増していく。辛うじて迸りそうだったソレを飲み込んだ代わりに跳ね上げるようにして顔を上げ、開いた目が最初に捉えたのは、立っていた時よりいっそう近づいた、『死体』だった。
顔は、見えない。開いたままの、目も見えない。
・・・目? 開いたままかどうかなんて、身体を丸めて顔を隠すようなその『死体』から読み取ることは出来ないのに。見えるのは、硬い、身体。大きめの、身体。冷たい、身体。見ているだけで、一切の熱が失われているのが分かる身体。
これが、『死体』、生きていないモノ。生きて、いない。生きて、いない。
口から再び悲鳴が漏れそうになる。あまりにも強い震えが生まれ、震える手では耳を押さえ続けることが出来ず、手が勝手に耳から剥がれ落ちる。
行き先は、地面。冷たいコンクリートの上に落ちて、震えたままの掌を震える足を支えるようにコンクリートにつけて、体勢を崩さないように踏み留まっている。
塞ぐ掌を失った耳は少しだけ冷たさを感じたが、それ以上は何も感じず、何の音も拾わない。外の音が一切入らない現実に理解が及ばす、何かを求めるように視線は『死体』から離れ、特に何の意味も無く、微かに上に向く。
『死体』が全く見えなくなる位置ではない。ただ、少しだけ下にずれ、少しだけ宙に浮いている、その程度の位置。
何も、ない空間。黄色っぽい明かりが緩やかに降りて、そこに混ぜるように膜が在る、それだけの空間。ただ、そこに・・・、入り込む、別の、モノ。一瞬前までは存在しなかった、モノ。その、一瞬前というのが、本当に前にある時間のかも分からないけれど。
柔らかな、
軽やかな、
艶やかな、
一枚、一枚、また一枚と降り注ぐ、モノ、
あまりの軽やかさに、空気に負けて不規則な動きで降り注ぐそれは、酷く柔らかな色味を帯びていながらも、艶やか過ぎるほど鮮やかな色を纏っている。
きつくなりすぎない、少し白を混ぜたようなピンクに、一滴、赤を垂らしたような鮮やか且つ柔らかな色。この国にはない色。この国にはそぐわないほど、明るい色。それが、一枚、また一枚と、目の前に降り注ぎ始めたのだ。
最初、半ば反射的に何かの紙切れが降ってきたのだと思った。誰かが引き千切った紙が、何処かから降ってきたのだろう、と。しかしすぐにその思いは否定される。紙のような無機質なものの軽やかさではない。落ちてくるその様は、あまりにも有機的な軽やかさなのだ。空気を孕み、自ら空間に浮き立つような軽やかさは、紙切れでは持ち得ない動きだった。
落ちながらも、浮かび上がっている。今にも舞い上がりそうなほどに、これから空に遊ぶように動く、それは・・・、
『羽』だった。
小さな、小さな、指の先程度の大きさの『羽』は、次から次へと降り注いでくる。見つめていた何もない空間を通り過ぎ、転がったままの『死体』の上へ降り注ぐ。
自然と視線は艶やかな『羽』を追って、上へ、上へと向かっていった。頭上からこの場を照らしている街灯、それより更に上から降ってくる『羽』は、見上げる視線に気づいたかのように、首を曲げて上を見上げている僕の上にも降り始めて。
真上、青に灰色を溶かして、溶かされた青が自分の色を忘れたような空。もしくは、雲を満遍なく伸ばして広げたような空。いつもなら、そこにはそれ以上何もない。でも、今は・・・、空の何処から降ってきているのか、止め処もなく『羽』が降り注いでいる。
小さな、小さな『羽』。小さな姿でありながらも、ちっぽけな存在でありながらも、まるで痛切に何かを訴えようとしているかのような、健気さにも似た様で。
視線は再び自然と『羽』を追い、下へ、下へと向かう。軽やかな『羽』を追うには鈍重な動きで下に向かった視線は、最後にはいつの間にかしゃがみ込むのではなく、完全に座り込む形に変えていたその膝の上に落ちていてく。小さな姿を何枚も重ねて膝を覆おうとしている、艶やかな色をぼんやりと見つめ続ける。
「子供・・・、」
視線が、跳ね上がった。おそらく肩も跳ねていたし、もっと言えば、全身が小さく弾むように跳ねていたのだと思う。
ただ、身体が跳ねていたのかどうかはさしたる問題ではなく、問題は上げた視線の先の存在と、その存在が発した、たった一つの単語にあったのだ。何も言わず、気配すら感じなかった所為で、そこにいることを完全に忘れていた人。ギン。ギン・・・、の、はずの人。
忘れている間もすぐ傍に佇んだままだったその人は、ついたった今までの僕と同じように空へ視線を向けながら、零した言葉に気づかないように暫しの間、沈黙したかと思うと、ふいに、空に向けていた視線を僕に向けて、銀色の瞳を真っ直ぐに注いでくる。
今まで何度も向けられたことがあるはずの瞳。けれど今になって初めて思う。眼差しの、分からない瞳だと。
「あのさ」
「・・・な、に?」
「どうしたの?」
「どうしたって・・・、だから、何が?」
「ん? 何がって・・・」
前触れなく、再び空に向く瞳。瞬きをする間すらなく、戻ってくる瞳。瞬きは、ない。瞳は、動かない。感情すら、見えない。
・・・こんなにも、動かない、分からない瞳だっただろうか? 僕の、友人は。ただ一人の、親しいはずの人間は。一番、長く共にいる人は。疑問が、胸に落ちる。初めて、落ちる。でも、たぶん、前にも落ちていた。僕が、まだ経験していないだけで。
もしくは、今まで会ったことがないギンに対して、今、経験しているだけで。
視線は三度、降り注ぐ『羽』に戻る。
────子供、どうしたのって話だよ。
急に、聞こえてきた。
声が、ではない。
音が、だ。
聞いたことのない音は、『羽』が降り積もる音だったのかもしれない。
「これって・・・、受け取ってるってこと?」
「・・・ぎ、」
「それとも・・・、」
「ぎ、ん・・・、」
「これも、そう、なのかな?」
「ギン」
「これも・・・、『死体』、かな?」
「ギン!」
────指先が伸びるその先が、巻きつく熱が、自分のものではない、その事実を何故かとても自然に感じていた。
身体の中心から吹き上がった熱と衝動に突き動かされ、伸び上がるように立ち上がって目指した先は、空を振り仰いだままだったギンの剥き出しの白い首だった。
両手が他の生き物のように突き出され、滑らかで冷たそうな肌に貼りついたかと思うと、最初に親指が、ついで、他の全ての指に有らん限りの力が篭もる。
肌に、肉に、骨を目指して埋もれていく指を見つめながら、冷たそうに見えたのに確かに感じる熱に、指が埋まる先の肉の持ち主が自分ではないことを実感する。
指の腹より先に埋まる爪、埋まるにつれて色を無くしていく肉、頭を後ろに倒れさせ、仰け反りながらいっそう晒される首筋に、何本も薄い緑の血管が浮かぶ。
血管、血が、流れる管。命が、流れている場所。もしくは、命が繋がれている場所。初めて、見た。自分の首では、見られないから。初めて、そう、初めて目にしながら絞めている。場所を確認することすら出来る。
これで、もし・・・、この管に爪を突き立てたら、一体ここを流れている命はどうなってしまうのだろうかと、強く、強く力を入れながら、そんな考えが何度も脳裏を行き交っている。
行き交う考え、その隙間から微かに顔を覗かせる、僕に瞳を向けてくる、別の考えが見える気がするのは、きっと気の所為なんかじゃない。見えるその瞳は、強い疑問と、強い思いを混じらせて、言葉にならないその言葉を、どうにか捻り出せと訴えてきていた。
強烈なその訴えは、もう何も考えたくないと思うこの怠惰な気持ちすらも一瞬、押し退け、どうにか形にした言葉を無理矢理に開かせた口から迸らせる。
「しぃ・・・、し、たい・・・、じゃ、い・・・」
「・・・ぁっ、うぅ」
「した、じゃな、いっ」
「いぃ、ぐっ、あ・・・」
「『死体』じゃ、ないっ!」
ほっ、しいって言うから、やったんだっ!
「そうだっ、そうに、決まっているだろ! 絶対、そうなんだ! だから・・・、馬鹿なこと、言うなっ!」
「うっ、がぁっ、あ・・・」
「違うっ、違う、違う! 子供って・・・、子供って、何だよっ!」
空が、
視界一杯の空が、
空一杯に広がる『羽』が、
これが、『子供』か? ・・・そうだ、僕が、受け取るはずだった『子供』だ、
両手には、堰き止めている命の熱が、音が、苦しみが、痛みが、掌と同化するほど強く広がっている。その命の持ち主の言葉にならない声は・・・、もう、聞こえない。姿も、見えない。知らぬ間に、僕の首もまた仰け反り、視界の全てを空と『羽』だけで埋めてたから。
降り注ぐ『羽』は、仰向いている僕の顔にも降り注ぎ、頼りない柔らかさと温かさを一瞬、もたらして、滑らかな感触通りに滑り落ち、触れた場所から失われる。
留まることなく、留めることなく、触れるだけで、受け止めることは出来ない。受け止めるべき手は、今はひたすらに、他の熱を感じているから。本当は、この手で受け止めるべきなのに。この手で、受け取るべきなのに。でも、この手に引き渡すはずだった人は、この視界の外で、存在しないはずの存在と化し転がっている。
子供、子供、子供、
・・・ふと、思いつく。思い出したのではなく、思いつく。今、頭の中で繰り返される単語は、そもそもはどうでもよい分類に入っていたはずの単語だったのだと。
むしろ、面倒なので、出来ることなら関わり合いになりたくないと願っていた単語で、誰かが代わってくれるなら是非代わってくれと言いたいほどの単語で────『子供が、欲しいの。どうしても、欲しいの』────、どうして自分が選ばれてしまったのかと不思議なほどの単語で。
あげたのか? 欲しがっていたから、あげたのか?
でも、見た。見たように、思う。今、ではない。いつだか、分からない。だって、カレンダーも時計もないから。
でも、見た。可憐に揺れる、頼りない茎に支えられた小さなそれ。鮮やかな、色をしていた。降り注ぐ『羽』とは違う。違うけれど、同じ色。揺れていた、今にも茎から零れ落ちそうなほどに、揺れていた。だから、伸ばした、必死になって、この両手を伸ばした。
あの手は、届いたのか? それとも今のように、違う手となってしまったのか?
誰かと、震えていたのだ。確かに、震えていた。僕なんかより大きく,丈夫な造りに見えるのに、僕と同じように震えて、見ていた。
有り得ない現実を受け止めきれなくて、どうしたらよいのか分からず立ち尽くして,他に出来ることもなく震えていた。横に並びたいなんて思っていない、関わり合いになりたくないと、願っていたはずなのに。
アレは、誰だったのか? 見下ろしていたのは、何だったのか、一体いつの間に、いなくなってしまったのか?
それより何より、一体、『今』は、いつなのか?
思考が、ふらふらしている。立ち位置が、定まらない。身体の芯が、無くしたまま見つからない。
どうして、こんなにも落ち着かないのか。どうして、こんなにも乱れてしまうのか。変化なんて、殆ど無かったはずなのに、この国は、僕の世界は、僕は、カレンダーがいつを示そうと、時計がいつを刻もうと、それらは全て、自分の立ち位置を決める為に必要としているだけで、本質的には何の関わりもない、変わりのない人生。それが、どうしてこんなにも安定しないものになってしまったのか?
・・・もう、何の動きも感じない。
指先は、既に役目を忘れている。でも実は、目的も忘れている。いや、むしろ初めから知らないでいる。どうして、こんな動きをしているのか? 自分で自分に説明出来ないまま、動き続けているのだ。力を入れすぎている手は、既に強ばり、もうどんな意思ですらこの強張った指を解けそうにない。
誰にも、不可能なのだ、きっと。誰にも、外せない。
でも、きっと、間違っている。
何処で間違ってしまったのだろう? この不安定に安定した世界が、何処で間違ってこんなにも安定しない不安定さを有した世界になってしまったのか? 何も、気にしないでも生きていられたのに、どうして、急に・・・、全てが気になるようになってしまったのか? どうして、世界はこんなに騒がしくなってしまったのか? 騒がしさを、気づかせるようになってしまったのか?
世界は、変わり始めてしまったのか?
この国は、曖昧さを欠き始めてしまったのか?
まだ何一つ、はっきり見えるものなんてないのに。
「・・・っ!」
指が、完全に埋まる感覚を覚え、口から再び何かが迸りそうになった時、耳が、何かを拾ったことを伝えてきた。拾ったモノが声で、それが言葉になっていて、その言葉がとてもよく知っている形をしていることも伝えられたけれど、脳は伝えられている意味を理解出来ずに、動かない。代わりに、瞳が動く。拾ったモノの発信源へ。
少しだけ、顔の向きを左に向けた先。近づいてくる、何かが見えた。生き物の、形。アレは、人の、形。それも、すぐ傍で転がっているモノとは違う、アレは・・・、生きている、人の、形。
駆け寄ってくる、同じ形を繰り返し叫びながら、駆け寄ってくる、形。目が、霞む。何故か、霞む。その所為ではっきりと形が見えない。否、見えないのは目が霞んでいる所為ではなく、この国から未だ失われない、薄暗い膜の所為かもしれない。
でも、どれだけ見え辛くとも、分かる。アレは、知っている形だ。知っている、間違いなく知っている・・・、のに、何の形だか思い出せない。アレは・・・、僕より、一回り、小さい形? それとも、大きい形? どちらなのだろうか? どちら、でも良いのだろうか?
聞こえる、とても、はっきりと聞こえる。きっと、ずっと前から聞こえていた。
「・・・ぎ、ん」
埋まる、指先に命が在る。
それだけが、気が遠退くほど・・・、たぶん、安らかに思えた。




