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而ノ迷 ひらける名の草花  作者: 東東
Prologue
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Prologue

『リン────・・・、リン、リン・・・、』


 ただ、その音だけが響いていた。

 他に、一切の音がないというわけではない。耳を澄ますまでもなく、部屋の複数の場所から何かの呻き声のような、低い機械の作動音が聞こえていたし、ガラスケースに閉じ込められている不満を訴えるような水音も聞こえている。流れるままに流れる有り様を望む、水自身の訴えのような音が。


 目的を忘れたような規則正しいだけの足音、

 本当に聞こえているかどうかも定かではない誰かの囁き声、

 この場所では吹かないはずの風音、

 原因を解明出来ていない耳鳴り、


『────リン、リン・・・、リン』


 ただ、その音だけが響いていた。

 意識しなくても聞こえる音、意識しなければ聞こえない音、意識しようとしまいと、存在しているのかどうかが定かではない音。

 どれも聞こえることはあっても響くことはないのに、その音だけは響いていた。部屋の中に広がり、障害物に触れる度に増殖して、壊れそうなほどに重なり合ってる。たった一つの音を、無限よりほんの少し足りない量に増やしていく。

 この場に在る、ただ一人の拝聴者の耳を、ただ一つの音で占めんとするかのように。


『・・・リン』


 ただ、その音だけが響いていた。

 そして、その音以外が失われた。

 失われて、響く音だけを聞いた。


 だからこそ、心に決めたのだ。希有なその音を、ただ独りで聞き続けていたから。


 静かに開かれる唇は、何かの抗議のように微かに震えている。

 その唇の奥で出番を待つ舌は、訪れる瞬間を拒否するかのように渇いている。

 更に奥に鎮座する喉は、濡れることを忘れた渇いた痛みに固まっていたが、もっとも奥に存在するソレは、全てが拒絶しようとも、自分の役目を放棄することはない。

 声は、ひたすらに切実に現れた。持ち主の、意志にだけに従って。


「私は、私の為に生きる。この世でただ一人の、私の為だけに生きる」


 ・・・声にしてしまえば、言葉にしてしまえば、ただそれだけのことだったのだ。

 自分の耳で拾ったその台詞に、そのあまりに簡単な結末に、思わず笑いそうになる自分を自覚した時・・・、先ほどよりも強く震える唇と、歪な笑みの形に強張る頬、それにその頬を伝う、今まで想像したことすらない熱をまざまざと感じていた。熱い、熱い、熱。感じるその熱以外が全て偽りに変わるほどの熱。

 震える唇から零れる吐息も、酷く熱い。今は、何もかもが熱いのだ。初めて感じる、熱。初めて発するのかもしれない、熱。


 感じる熱に浮かされて進む先、一度は遠ざかっていた水音。


 伸ばした指先が触れる硬質の冷たさは、硝子の役目を主張し、その先にある水の予感を視覚より強く伝えてくる。しかし、意識は水にはない。向かっているのは、水の中心、水が己の役目として抱えている存在の元だ。今はまだ、何も主張することのないその存在は、主張する能力を持たないくせに、ただそこに在るだけで強烈なまでに存在を主張している。

 生きている、生きていく、ただそれだけの主張をしている────、生きていない、まだ、これから生まれるだけの命なのに。


「キミは・・・、一体、いつ、生まれてくるんだろうね? 何日の、何時何分? ・・・まぁ、何日の何時何分だろうと、意味は無いんだろうけど」


 指先で硝子を突きながら零される呟きに、応える人間は勿論、いない。

 それがこの部屋にいないという意味なのか、それともこの世界の何処にもいないという意味なのか、口にしている当人にすら曖昧な台詞の向こう側、硝子を挟んだ先には何の予定も書かれていないカレンダーと、何を刻んでいるのか自覚している気配のない時計が存在している。何故か、刻んでいるはずの時の音すら聞こえないが。

 意味の無い日付、意味の無い時間、価値があるのかどうかすら、覚束ないモノ。


「────ここは、永遠の世界だから」


 日付も時間も、初めから何の意味も成さないのに、何故かこの世界にはこの二つだけは有り触れてしまうほど、有り触れている。必要とする者もおらず、また、使う方法すらないのに、それでも忘れることは許さないとばかりに至る所に存在しているのだ。

 永遠だと、終わりも始まりも、順番すらもないと主張している世界なのに。

 ・・・別に、それが悪いと言っているわけではない。全く、悪くなんてない。この世界はこれで、ある種の完全さを備えているし、またその為に自分達がいるのだという自負もある。私利私欲ではなく、自分に与えられた役割を役割として全うしてきたのは間違いない。充分に、全てを果たしてきた。果たして、きたのだから・・・、そろそろ良いだろうと、もう良いだろうと、深く、深く頷いて改めて思う。

 そして深い思いは、いつかの約束のように形になるのだ。


「少しだけで、良いんです。少しだけ・・・、少し、だけで良いから・・・、私に、日付のない日と、時間の無い時を見せて下さい」


 ただ、その音だけが響いていた。

 狂おしいほどに・・・、ではなく、

 哀しいほどに・・・、でもなく、

 痛いほどに・・・、でもなく、


『リン』


 ただただ、自然に響いていた。

 呼吸と、同じに、

 生きていくのと、同じに、

 死に往くのに、とてもよく似て、


『────もし、私にソレを見せてくださるなら・・・、代わりに、アナタにアナタが得られなかった時間を差し上げましょう』


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