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グレイシー・クラクストンのランプ

作者: 珂月

挿絵(By みてみん)


 ** 1 **


 9月。台風が頻繁に日本列島を襲う季節である。特に17日と26日付近は大型台風が来襲しやすい特異日といわれており、その日も、現在接近中の非常に勢力の強い台風17号の影響を受けて、関東は激しい雨と風に見舞われていた。




 水色の生地に白の水玉模様をあしらった傘を暴風雨に煽られながら、啓子は難を逃れるかのように、通りの軒先で雨宿りの為足を止めた。特に先を急ぐわけではないが、予定外に足止めを食らうのは、心情的に良い気はしない。傘が傘としての機能を果たしているのか疑問になるほど、啓子の毛先からは滴が垂れ、右半身は濡れ、靴の中は水浸しだった。鞄から取り出したハンカチで濡れた服を拭きながら、当分小雨になりそうもないな、と、激しくアスファルトを打ち付ける雨を、まるで親の仇を見るように、恨めしそうに眺めた。

 そのまま視線を泳がせ、なんとなく、軒先を借りている店の看板に目をやる。『アンティークショップ en』と書かれたその店内はそれ程広くはなさそうで、扉のガラス越しに、やわらかな光がこぼれていた。ショーウィンドウには、シェードにステンドグラスが施されたテーブルランプが飾られている。それはまるで、おとぎ話に出てきそうな美しいランプで、分厚い雨雲に覆われた暗く冷たい街中に於いては、マッチ売りの少女が灯す小さな明りのように、啓子の心を不思議と引きつけた。

 まだしばらく雨脚は収まりそうにない。啓子は思い切って、店の扉を開けた。




 カランカラン


 ドアーチャイムの音に、カウンターにいた男が顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 店員らしき男性は啓子を見ると、ずぶ濡れのその姿に少々驚いて、


「外は随分と雨が酷いようですね。どうぞ、こちらにお掛けになって、少々お待ちください」


 と、カウンターの横にある応接セットのソファを勧めて、店の奥へと入って行った。

 店内に一人取り残された啓子は、「お掛け下さい」と言われたソファと、その前のテーブルを見下ろした。これもアンティーク家具なのだろうか。随分と立派な、存在感のある革製のソファと、優美な彫刻が施されたテーブルである。売り物ではないのだろうか。ずぶ濡れの自分が座って大丈夫だろうか。汚れて売り物にならなくなったから弁償しろと言われても困る。そんな事を考えながら立ち尽くしていると、再び店員が戻ってきて、タオルを差し出した。先ほどは僅かな間で気付かなかったが、艶やかな黒髪に、切れ長の涼やかな目をした青年で、割と、というか、かなり啓子の好みの、端正な顔立ちをしていた。


「こちらは売り物ではありません。どうぞお気になさらず、ゆっくりおくつろぎください」


 胸の内を見透かされたような言葉に、啓子は顔を赤く染めた。


「あ、ありがとう」


 店員からタオルを受け取り、もたもたと濡れた服を拭くと、ソファに畏まって座った。そんな様子を気に留めるでもなく、店員は手にしていた銀色のトレイをサイドボードに置き、慣れた手つきでティーポットからカップに紅茶を注ぐと、啓子の前に差し出した。


「雨に濡れて、冷えてしまったでしょう。どうぞ紅茶でもゆっくり召し上がって、温まって下さい」


 店員の声は、高すぎず低すぎず、話す速度も緩やかで、心地よかった。

 アールグレイの柑橘系の香りが気持ちを和らげ、喉を通り体内に注ぎ込まれた紅茶が、体を温めてくれる。啓子が紅茶をゆっくりと楽しみながら飲んでいる間、店員が特に話しかけてくることはなく、カウンターで何やら商品を丁寧に磨いていた。


 改めて店内を見渡すと、アンティーク家具やランプ、雑貨が品よく並べられており、お店というよりは、ちょっと家具の多い落ち着いた西洋風の部屋、という感じだ。天井には沢山のシャンデリアやペンダントランプが吊り下げられているが、蛍光灯のような冷たい光ではなく、どれも暖かみのある落ち着いた色をしており、店全体をやわらかな光で包んでいる。いくつかのランプは色ガラスやカットガラスが使われており、淡く色のついた光や、キラキラと乱反射した光が、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


「紅茶、ごちそうさまでした。とても美味しかったです。あの、ちょっと店内を見させて貰っていいですか?」

「ええ、もちろんです」


 空になったティーカップをテーブルに戻すと、啓子はそれほど広くない店内を、ゆっくりと散策した。中世……というのが具体的にいつ頃の時代を指すのか、啓子には良くわからない。けれど、いわゆる中世ヨーロッパとか、なんとか王朝とか、そういう時代の映画に出てきそうな家具ばかりが並んでいた。ランプ1つとっても、啓子の家にある量販店で買った蛍光灯とは、発する光そのものの品格が違っているかのように見えた。


「不思議……。なんだかノスタルジックな気持ちになるわね。懐かしいと言っても、こんな素敵なランプ、今まで家に置いてあったことなんてないんだけど。なんだか見ていて落ち着くわ……」


 啓子は、ショーウィンドウの店内側から、軒先で見つけたテーブルランプの前で足を止めた。


「そうですね。アンティークは新品のものとは違って、長い時を経て人と共に過ごしてきた歴史があります。その過去の記憶が、見る人に懐かしさを思い起こさせるのかもしれませんね」

「え、これ、全部中古品なんですか?」


 啓子は驚いた。とてもそうは思えない、手入れの行き届きた綺麗な状態のものばかりだったからだ。そもそもアンティークとは、ヨーロピアン調の、ちょっとレトロな雰囲気の家具、くらいの認識でいた。


「アンティークとは、製造から百年以上経過したものを言います。日本でいえば、骨董品と同じです。」


 “中古品”という安っぽい単語に苦笑しながら、店員は言った。


「ひ……ひゃくねん!」

「いま、お客様が見ておられるそのテーブルランプは1940年代のイギリスのもので、裕福層の女性が使っていたのですよ。人には人生があるように、物にも歴史があります。その歴史が、それぞれの佇まいとして滲み出ており、同じものは世界に二つとありません。あなたが世界に一人しかいないようにね。それがアンティークの魅力だと、私は思っています」


 1940年とか言われても、今の時代とかけ離れすぎていてピンとこない。けれど、目の前で優しい光を発するそのランプは、とても綺麗だと思った。枕元にこんなランプを1つ置くだけで、いつもと変わらない殺風景な部屋も少しは華やぎ、心地よくなるだろうか。


「あの、このランプって、やっぱりお高いのかしら……」


 啓子は恐る恐る尋ねてみた。


「そのランプはステンドグラスのデザインが凝っておりますので、他のランプと比べると、少々値が張ります。ですが、こんな台風の日に貴方の目に留まったのも何かの縁。少しお安くしておきますよ」


 そう言って、電卓を叩きながら店員が提示した値段は、ちょっとした国内旅行に2回くらい行けてしまうんじゃないかと思えるものだった。高額なブランドバックを買い漁る世の独身貴族OLにとっては、ちょっと贅沢なお買いもの程度の価格なのかもしれないが、啓子の経済状況を鑑みると、とても手を出せるものではない。思わず左手を口元に宛て言葉を失うと、諦めきれないようにランプを見つめた。

 高くてとても手が出ない、でも欲しい。そんな思いが交互に押し寄せている様子を隣で眺めながら、店員は右手を自身の顎に押し当てて、うーんと唸った。


「持ち主に愛情を注がれ、大切に使いこまれた物には、心が宿ると申します。時としてそれは、自らの運命を選びます。このランプは貴方に買って欲しい様ですねぇ。さてさて、どうしたものか」


 聞き方によっては商売文句にしか聞こえないが、この店員にそう言われると、何故かランプが「買って」と言っているように思えてくるから不思議だ。


「わかりました。では、このお値段で如何でしょう」


 いきなり半額を提示されて啓子は目を丸くした。


「え、いいんですか?」

「はい。きっと貴方には、このランプが必要なのでしょうから。それにこの店も、道楽でやっているようなものでして、私自身、あまり商売っ気もないのですよ」


 さらりとそう言われたものの、実を言えば、それでも啓子にとって、決して安い買い物ではなかった。けれど、きっとこのランプの本来の価値から考えれば、破格なのだろう。


「あ、あの、プレゼント包装とか、できますか?」

「もちろんです」


 店員は羽箒で丁寧に誇りを拭うと、ランプを箱に詰めながら答えた。


「このランプをお使いになられるのは、貴方ではありませんでしたか。では、受け取られる方が、きっとこのランプを必要とされているのでしょうね」


 必要性とか実用性とか、そういうのはどうでもいい。ただ、喜ぶ顔が見たい。少しでもあの人の気分が紛れればいい。啓子にとっては、それだけだった。

 梱包が終わるころ、幸い雨も少し小降りになっていた。


「少々重くなっております。梱包材で包んでいますが、割れ物ですので、気を付けてお持ち帰りください」


 啓子は品物を入れた紙袋を左手に受け取ると、右手に傘を差し、再び雨の街に踏み出した。背後から、ありがとうございました、と、店員の声が聞こえた。



 ** 2 **


 『メディカルホームひまわり』と書かれたプレートが掲げてあるこの施設の一階には、壁などで囲われていない開けた談話室があり、数人の老人と、若いスタッフが話をしたり、身振り手振りを使ったジェスチャーゲームのようなことに興じている。完全なバリアフリーで、おばあさんを乗せた車いすを押す看護士や、手すりを伝い歩くおじいさんが挨拶を交わす。24時間看護職員が常駐する特別養護老人ホームの2階、「佐藤」とネームプレートの入った居室で、老人と呼ぶには少し相応しくない、今年55歳になる中年の女性が、彼女より少し若いくらいの、これまた中年の女性に付き添われ、ベッドに入ろうとしているところであった。


 コンコン


 空いたままの扉をノックする音に、付き添いの女性は「はーい」と言って振り返った。


「あら、啓子さん、いらっしゃい! 光代さん、ほら、啓子さんが来てくれたわよ」


 軽く会釈をして部屋に入ってくる啓子の姿が見えるように、今しがたベッドに入ったばかりの光代の上体を起こす。


「高橋さん、いつもお世話になっています」

「いいえぇ、とんでもない。光代さん、ついさっき下の食堂で食事を済ませて、今部屋に戻ってきたところなんですよ」


 高橋と呼ばれた介護の女性は、元気そうにころころと笑った。

 啓子は荷物を部屋の中央にあるテーブルの上に置くと、ベッドの傍に来て、光代の顔を覗きこんだ。


「お母さん、気分はどう?」


 光代は、困惑したように啓子を眺めると、


「ごめんなさいね、えと、どなたの娘さんだったかしら」


 と尋ねた。


「まぁまぁ光代さん、一人娘の啓子さんですよ。毎週訪ねて来てくれているでしょう」


 言い聞かせるような高橋に、光代は急に声を荒げた。


「あなた何言ってるの、啓子はまだ小学生ですよ」


 そして、どこか宙を見るように、毎朝あの子の髪を三つ編みに結わえてやるのが私の日課なの。赤いリボンが大好きで、いつも同じリボンをせがむのよ。と、幸せそうに言った。

 困った表情を見せる高橋の肩に手を置き、啓子は「いいのよ」と首を振る。母が幸せなら、それでいい。


「あぁ、そうだ。今日はね、プレゼントを持ってきたのよ」


 じゃーん、と言って、紙袋から、赤いリボンが掛けられた箱を取り出して見せた。


「体が悪い分けじゃないんだから、本当はもっと外に出てほしいんだけど。部屋で過ごすことが多いって高橋さんから聞いたから、殺風景な部屋に、ちょっとは華やかさが出るかなーって思って。気分転換になればいいんだけど」


 ベッド脇のサイドボードに飾られた写真立てを少しずらしてテーブルランプを置き、コンセントを差し込む。スイッチの紐を引くと、ステンドグラスになっているランプシェードの色ガラスを通して、まるで万華鏡のように、壁や天井に様々な淡い色を投じた。


「まぁ……素敵……」


 ため息交じりに、光代はうっとりと呟いた。

 ランプシェードのガラスは緩やかに湾曲した3面に分かれており、異なるデザインのステンドグラスが嵌められている。それぞれの面が見えるように、ゆっくりとランプを回す。1面は森に囲まれたお城。1面はピンクの薔薇、1面は赤いドレスの女性のシルエット。そして、再び最初の面に戻そうとした時、「待って」と光代が制した。


「このままにしておいてちょうだい。このままがいいの」


 壁にぼんやりと投影された、赤いドレスを着て、横を向いた女性のシルエットを眺めながら、


「どちら様か存じませんが、こんな素敵なプレゼント、本当にありがとうございます」


 と、嬉しそうにお礼を言った。

 どういたしまして、と、にこやかに返答して、啓子が包装紙や箱などを片付けていると、再び光代が声を掛けた。


「その赤いリボン、くださる?」


 捨てようと思って手にした、ラッピング用の赤いリボンを光代に手渡すと、テーブルランプの細く括れた胴部分に、まるで幼い啓子の髪にそうするかの様に、蝶々結びにし、懐かしそうな表情を浮かべた。母の中の啓子は、あの頃のまま止まっているのだ。今の自分は、母にとって、愛情を注ぎ大切に育てた娘ではない。期待に添えなくてごめんなさい。親不孝でごめんなさい。傍にいてあげられなくてごめんなさい。いろんな“ごめんなさい”が、啓子の胸を締め付けた。そんな空気を察した高橋が、気分を切り替えるかのように、パンッと両の掌を叩いた。


「さぁ、光代さん。食後のお昼寝の時間ですよ」


 もっとランプの灯りを見ていたいと愚図る光代を優しくなだめて、上体を倒して布団を肩までかけてやると、すぐにウトウトとし始めて、やがてすやすやと寝息を立てた。

 光代は、昔から人一倍暗闇を怖がるところがあり、寝る時も必ず小さな明りを付けていた。これからは、このランプの明りが、自分の代わりに母を見守ってくれますように。


 母をよろしくね


 ステンドグラスの女性に、啓子は心の中で呟いた。




 啓子と高橋は、光代の午睡を邪魔しないように静かに部屋を後にし、1階の応接室へ移動した。高橋から渡される介護日記には、毎日の光代の生活の様子が記されている。今日は折り紙をしたとか、何時間散歩をしたとか、どんな食事を摂ったとか、問題行動はなかったかとか。この一週間分の日記に目を通しながら、ふと啓子の表情が曇る。


『午後4時頃になると、家に帰ろうとする』


 ここ最近に始まった症状ではないのだが、この一文を見ると、毎度心が痛んだ。


「本当なら、一人娘の私が自宅で面倒みるのが、一番いいのでしょうね」


 片手で顔を覆う啓子の姿は痛々しくすらあり、そんな彼女を見る高橋も辛かった。


「啓子さんは良くやっておられますよ。光代さんのように、一人で日常生活を送れない方を、お勤めしながら介護するのは難しいんです。施設に親を預けっぱなしで、ちっとも訪問されないご家族もいらっしゃいます。毎週欠かさず娘さんに訪ねて来て貰える光代さんは、幸せだと思いますよ」



 ** 3 **


 父はエリートサラリーマンで、母は専業主婦。啓子は、比較的裕福な家庭に生まれ、千葉で両親と3人で暮らしていた。聡明だった一人娘に、母・光子は愛情と情熱を注いで育て、啓子もまた、その期待に応えるように、千葉県立千葉中学校に見事合格した。しかし、地元の小学校でトップクラスだった啓子は、全国トップクラスの生徒ばかりが揃うこの中学に於いて、初めての挫折を味わうことになる。近所では、千葉中に通う才女として評判が高く、光代も鼻が高かったが、その実、啓子は学校の授業にちっともついていけず、学年順位はいつも下から数えた方が早かった。


 あなたは出来る子よ、大丈夫、頑張りましょう、きっとそのうち成績も上がってくるわ。


 光代の懸命な励ましは却って重責となり、大きく反発することはなかったが、啓子の口数は徐々に減って行った。

 中高一貫の6年間、啓子の成績は光代の期待に添うことはなく、散々たるもので終わった。

 名門校を卒業したからには、名門大学を、と考える母親から逃げるように、啓子は東京の二流大学を受験し、家を出て一人暮らしを始めた。もともと頭が悪い方ではない啓子は、成績も上々で、サークル活動を通じて友達もできた。中・高の鬱積された6年間から解放されたかのように、人並みに楽しいキャンパスライフを送った。

 大学を卒業すると、そのまま東京で就職。母親が寂しがっているから一度帰ってこいと、父から度々電話や手紙があったが、母から連絡が来ることはなかった。自分の思い描く娘ではなくなった啓子に、もう興味はなかったのだろうか。結局、啓子は一度も帰ろうとはしなかった。




 3年前の9月24日、父親が交通事故で他界した。台風の中、社用車で営業先から会社へ戻る途中、濡れた路面でスリップした車に衝突されたのだ。すぐさま病院へ搬送されたものの、程なく息を引き取ったという。享年54歳。あまりにも突然の別れだった。電話で知らせを受けた時は流石に仕事を休んで、実家に飛んで帰った。9年ぶりに見る母親は、驚くほど老けて見えた。18で家を出て、啓子はもう27歳になっていた。母も歳を取るはずだった。

 病院の地下の霊安室で、9年前に家を出て以来一度も顔を見せなかった親不孝者の娘に対して、光子は一言、「おかえり」と言い、啓子は「ただいま」と言った。

 なんとか無事葬儀を済ませた後、啓子は思い切って母親に、一緒に東京で暮らさないか、と持ちかけた事がある。しかし、思い出の詰まった家を離れたくないのか、慣れた土地を離れたくないのか、光子は頑なにそれを拒んだ。父親の残した遺産と、保険金と、それまでの蓄えを足せば、母一人が生活するには困らない程度の金はあったが、啓子は母一人を実家に残して東京で生活する心苦しさから、母親に仕送りをするようになった。




 啓子が母親の異変に気付いたのは、父親の四十九日も済ませ、その年の背に帰省した時だった。

 二人で夕食を摂っていると、光代が、お父さんはどこへ行ったのかしら、と言い出したのだ。


「お母さん?」

「今日も残業なのかしら。遅いわね。心配だわ」

「どうしたの?お父さんは……」


 もういないのよ


 何の前触れもなく父が突然この世を去ってから、まだ一周忌も済ませていない。生前、取り立てて仲が良いというわけではなかった。父と娘など、どこの家庭もそんなものだろう。しかも、高校を卒業してから一度も会っていないくらい疎遠だった。それなのに。信じたくないのは啓子も同じだった。けれど、事実だ。

 翌朝、啓子は母親の呼ぶ声で目を覚ました。しまった、寝坊したと、慌てて1階の台所へ行くと、食卓には3人分の朝食が用意されていた。

 啓子が怪訝そうに母親を見つめると、


「お父さん遅いわね、啓子、ちょっと起こしてきてくれない?」


 と言った。


「お母さん……」


 光代は、どうしたの? と啓子を見る。


「お父さんは、いないのよ」


 何言ってるのこの子は、まだ寝ぼけてるの?と、光代は笑いながら啓子の頭をポンポンと軽く叩くと、台所の入口まで行って、二階の寝室に向かって大声で呼んだ。


「おとうさーん、朝食できましたよー」

 

 やめて

 

「おとうさーん、早く起きて来て下さいねー」


 やめて


「おとうさーん、お味噌汁が冷めちゃうわよー」

「やめて!」


 啓子の大きな声に驚いて、光代は振り返った。


「もうやめて! お父さんは交通事故で死んじゃったじゃない! もうこの世にはいないの! 信じたくない気持ちはわかるけど! こんなことしたって」


 帰ってなんか来ないんだから


 そう言い終わる前に、破裂音と共に、啓子の左頬を衝撃が走った。生まれて初めて親に顔を叩かれた。


「縁起でもない事、冗談でも言うもんじゃありません」


 険しい顔でそう言った光代は、次の瞬間動転したように表情を変え、赤くなった右手を自らの左手で押し込めた。


「ほ、ほら、啓子が変なこと言うから。さぁ、お寝坊のお父さんは置いておいて、冷めないうちに朝食を済ませちゃいましょう」


 それから年が明けて啓子が東京に帰るまで、食卓には都度3人分の食事が用意されたが、その事について啓子が触れる事はなかった。

 その後、一人で暮らす母親の身を案じながらも、気が重くて実家に足が向かなかった。時々様子見で電話をすると、父親の死に触れない限りは元気そうな声が返ってきたので、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。




 8月。初盆の為、啓子は盆休みを利用して久しぶりに帰省した。


 ピンポーン


 合いカギは持っているが、チャイムを鳴らす。

 ガチャリと扉が少し開いて、隙間から母親が顔を覗かせた。


「はい、どちら様?」


 元気そうな声に少しホッとし、啓子は門扉を自分で開けて玄関の扉の前まで進むと、申し訳なさそうに言った。


「ただいま。しばらく帰らなくて、ごめんね。元気そうで良かった」


 啓子の顔をじっと見て、光代は首を傾げた。そんな光代を見て、啓子も首を傾げる。


「おかぁ……」


 啓子の言葉を遮って、光代は言った。


「あの、どちら様?」


 老眼が進んだのだろうか、と思った。


「お母さん、私よ、啓子」

「へんな事言わないで。啓子は今学校よ」

「学校? 私もう28よ。社会人よ」


 光代は眉をひそめて啓子を見据えると、いきなりドアを閉めた。


「お母さん!」


 ドアには鍵が掛かっている。やむを得ず合鍵で鍵を開けると、チェーンが掛けられており、家に入る事は出来なかった。


「帰って下さい! 警察を呼びますよ!」


 扉の向こうで、光代がヒステリックに叫ぶ。騒ぎを聞きつけた隣の奥さんが、驚いて様子を伺いに出てきた。


「あら、啓子ちゃん?」

「林さん……」


 啓子が会釈すると、林は心配そうに、何かあったの?と聞いてきた。


「お騒がせしてすみません。大丈夫です」

「そう? それなら良いんだけど。あ、そうそう、啓子ちゃん。ちょっと気になることがあるのよ」

 

 林は手招きして啓子を門扉の外まで呼び寄せると、意味深に声を落とした。林の言うことには、どうやら光代は、時々外を歩き回っているようだった。最初見かけた時は、散歩でもしているのかと思って然程気に留めなかったが、ある時夜中に歩いているのを見かけた時は、流石に声を掛けたらしい。何処へ行くのかと尋ねると、主人が帰ってこないから駅まで迎えに行くのだ、と答えたという。母は、未だに父の死を受け入れられずにいるのだ。


「夜中に外をふらふらしちゃ危ないわよ。余計なお世話かもしれないけど、啓子ちゃん、帰って来て、お母さんの傍にいてあげたら?」


 そう言って、林は家に帰って行った。

 啓子は再び玄関へ戻り、チェーンが掛けられたままなのを確認すると、裏口へ回ってみた。勝手口のドアノブを回すと、カチャリと開いた。

 台所から家の中に入ると、流しの水が出しっぱなしになっていた。慌てて蛇口を閉め、母親の姿を探す。

 光代は、応接室のソファに座っていた。若き頃の父と母、小学生の啓子の3人が映った写真を入れた、写真立てを撫でながら、


「今度の週末は何処へ行きましょうね。お弁当のおかずは何がいいかしら」


 と話しかけていた。




 夜中に外を徘徊したり、水を流しっぱなしにするようでは、母を一人にできないと啓子は思った。今まで、火を付けっぱなしにして火事を出さなかったのが幸運なくらいだ。

 翌日、嫌がる母を無理やり連れて、病院へ行った。本当は一人で相談に行きたかったのだが、光代を一人家に残すのが怖かったのだ。それまで散々放ったらかしにしていたのに。啓子は自嘲した。

 検査の結果、若年性認知症だと告げられた。ショックだった。心因性による記憶障害とか、そういったものを想像していたので、まさか50代で認知症になるなんて、露とも予想していなかった。 

 

「勘違いされがちですが、認知症とは、病名ではありません。様々な原因で脳細胞にダメージを受け、働きが悪くなることによって、記憶や判断力の障害などが起こり、社会生活や対人関係に支障が出る状態を言います。脳が傷つく直接的な原因となる病気に因ることもありますが、生活習慣や慢性的なストレスが脳に影響を及ぼし、発症の原因となる場合もあります」


 と医者は説明した。最初は軽い物忘れから始まり、緩やかに進行する。家族が分からなくなったり、徘徊したりするのは中期以降に見られる症状で、若年性は老年性に比べて病気の進行速度が速い傾向にあるが、それにしても、異変に気づいてから1年も経っていないのに、早すぎると言われた。逃げ出したかったが、逃げ出す時間はなかった。徘徊したり、水や火を使っている事を忘れたりするような症状が出ている場合、一人での生活は危険であり、一緒に生活できる人がいないのであれば、施設を検討してみてはどうかと勧められたのだ。

 幸い啓子の職場は理解を示してくれて、休暇の延長を認めてくれた。出来るだけ早く入居できるところを探し、ようやく見つけたのが特別養護老人ホーム『メディカルホーム ひまわり』だった。 

 一般的に老人ホームは60歳以上でないと入居できないが、要支援・要介護の場合は受け入れてくれる所もあるのだと知った。

 光代は家を離れる事を酷く嫌がり、入居当時は度々施設を抜け出して、一人で帰ろうとしたという。午後4時頃になると、啓子が小学校から帰ってくる時間だから、家で待っていてあげないといけないと言って施設を出ようとし、夜中になると、主人が帰って来ないと言って施設内を徘徊した。

 外出許可を取って迎えた父の一周忌は、近い親戚だけで執り行ったが、光代は誰の顔も覚えていなかった。

 毎日世話をしてくれる施設の人たちの顔は覚えているという。私が実家を離れたりしなければ、娘の顔を忘れる事もなかったのだろう。父が死んだ時、傍にいて、一緒に悲しみを分かち支え合っていれば、受け入れ、乗り越える事も出来たかもしれない。母は、家族が一番幸せだった頃・・・父がいて、まだ挫折を知らない無邪気だった私がいて、笑顔が溢れていたあの頃に時間を巻き戻し留まる事で、悲しみと寂しさから逃れようとしたのだ。母をこんな風にしたのは、私のせいだ。啓子は自分を責めた。



 ** 4 **


 啓子が『メディカルホーム ひまわり』を訪れ、受付をしていると、聞きなれた声に呼ばれた。声の方を向くと、隣の談話室で、高橋が大きく手を振っていた。

 光代は、一心にクロスワードに挑戦している。高橋によると、脳のトレーニングらしい。認知症になると集中力が切れやすいというので、声を掛けていいものか迷っていると、高橋が光代の隣の席を勧めながら、


「座って座って。光代さん、啓子さんですよ」


 と光代に言った。


「お茶持ってくるわね。ちょっと待ってて」


 高橋がパタパタと給湯室に向かう。


「こんにちは。調子はどう?」


 啓子が座りながら挨拶すると、光代は、今初めて会ったばかりの人であるかのように、


「はい、お陰様で変わりなく」


 と、余所余所しく返事を返し、再びクロスワードを始めた。

 盆に湯呑み茶碗を二つ乗せて戻ってきた高橋が、1つを啓子の前に差出し、自分も向かいに座り、もう1つの茶碗から茶を啜った。


「先週啓子さんに貰ったランプ、光代さん、すっごく気に入っちゃって。毎晩明りを絞って、点けたまま寝てるんだけど、やっぱり蛍光灯とは違うわねー。なんか、ムードが違うっていうの?気持ちよく眠れるみたい」


 それにね、と高橋は続ける。


「ステンドグラスの女の子に、起きた時はおはよう、寝る時はおやすみなさい。部屋を出る時は行ってきます、帰ってきた時はただいまって、話しかけてるのよ。まるでルームメイトでも出来たみたいに」


 だから、部屋に一人の時も、寂しくないものね。と、高橋は光代に同意を求めるように笑いかけた。

 今まで何を持って行ってもほとんど興味を示さなかった母が、そんなに喜んでくれるとは。高い買い物だったけど、一人で過ごす時間が多い母の寂しさを、少しでも紛らわせてくれているのなら、本当に良かった。啓子は光代を見ながら、そう思った。




 『メディカルホーム ひまわり』の消灯時間は夜の8時だが、個々の居室内に限っては特に定めはなく、一様に就寝時間が決められているわけではない。事前に申請しておけば、家族が訪問時に居室で宿泊することも可能で、各自の自由が尊重されている。

 夜の10時頃、いつもの様に光代が夫の帰りを待ちながら、ぼうっとテレビを見ていると、部屋に高橋がやってきた。


「光代さん、そろそろ寝ましょうか」

「主人は? もう帰ってきた?」


 心配そうにきょろきょろと部屋を見回す光代に、高橋は優しく言う。


「もう自分のお部屋で寝てらっしゃいますよ。だから、光代さんも寝ましょうね」


 高橋に促されて、光代はベッドに入った。テーブルランプの明りを灯し、室内灯を消すと、天井と壁に、ステンドグラスを通して淡い光が模様を描く。壁に薄ぼんやりと映った女の子に、光代は「おやすみなさい」と言って、目を閉じた。

 うとうとしていると、ふと、部屋の入口に人の気配を感じた。部屋が暗いので良く見えないが、高橋さんだろうか。


 「どなた?」


 光代が声を掛けると、ゆっくりと歩み寄ってきた人影を、ランプの小さな明りがぼんやりと照らす。そこには、赤いワンピースを着た、幼い少女が立っていた。


「啓子……?」


 一瞬ハッとしたが、すぐに違うとわかった。だが、光代の記憶の中の啓子と同じ年頃の少女に、親しみと愛おしさを覚えずにはいられなかった。


「どうしたの?」


 光代は優しく問いかける。他の入居者の家族が宿泊していて、トイレにでも起きて迷ったのだろうか、とか、こんなに幼いのに、要介護の病を患っており、入居している子供なのだろうか、とか、そういった理論だてた推測を、光代はできない。幼い少女が、こんな夜中に、一人で迷い込んできた。心細いだろう、可哀そうに、と思った。


「お友達が……いなくなっちゃったの」


 それは、今にも泣きだしそうな、頼りなく弱弱しい声だった。


「たくさん、たくさん、お話したの。ずっと一緒にいようねって約束したのに。どこにもいないの」

「まぁ……」


 光代の胸を、何かが締め付ける。少女のその悲しみを、寂しさを、とても良く知っている気がした。何故だろう。自分には、愛しい娘も、夫もいるというのに。


「……泣いてるの?」


 少女が光代の顔を覗き込む。無意識の内に、光代の目に涙が溢れていた。


「どうしたのかしら。大人のおばちゃんが泣いてちゃ、恥ずかしいわよね」


 枕元に置いてあったタオルハンカチで慌てて涙を拭うと、光代は少女を心配させまいと、笑顔を作った。


「おばさまも、一人なの?」


 その問いかけに、光代は自分に言い聞かせる様に言った。


「いいえ。おばさんにはね、旦那さまと、娘がいるのよ。そうね、娘は、あなたと同じくらいの年ごろかしら」


 すると、少女は興味を示したように、光代のベッドに乗り出した。


「わたしとおなじくらいの? どんな子なの?」


 そうねぇ、と光代は、少女のやわらかなうねりを伴って肩に流れ落ちる、豊かな髪をそっと撫でた。


「目が大きくて、睫毛が長くて、それはお人形のように可愛らしいのよ。あなたの様に髪が長くて、毎朝三つ編みをしてあげるの。そうだわ、あなた、後ろを向いてそこに座って」


 光代は、少女を自分のベッドに腰掛けさせると、ゆっくりとした手つきで、その長い髪を編み始めた。少女は大人しく髪を委ねる。最後に、テーブルランプに結んであった赤いリボンを解いて、三つ編みを纏めて結んだ。


「はい、できた」


 光代がサイドテーブルから鏡を取って手渡すと、少女は嬉しそうに鏡を覗き込み、もっと話を聞かせてとねだった。


 「あなた、お名前は?そう、エリちゃんって言うの。かわいい名前ね。そうね、どこから話そうかしら」


 光代は、啓子が生まれた日の朝が、どれほど幸福に包まれていたかを話し始め、エリはそれを静かに聞いていた。

 その日から、毎晩のように少女は光代の部屋を訪ねてくるようになり、啓子の話を聞きたがった。

 幼稚園ではいつもかけっこで一番だったこと。先生のお手伝いを良くすると、褒められたこと。バレエ教室では、発表会の度にプリマドンナ役に選ばれていたこと。小学校の入学式では、校庭の桜の下で写真を撮っていたら、肩に毛虫が落ちてきて大泣きしたこと。光代は、啓子の成長を、アルバムを開くかのように話して聞かせた。人との関わりを避けるようになり、部屋に閉じこもりがちだった光代にとって、こんな風にたくさん話をするのは数年ぶりで、その口調はたどたどしいながらも、不思議と後から後から言葉が溢れてきた。

 



 ある雨の日、光代の部屋を訪れたエリは、窓を打ち付ける雨音を気にして、閉ざされたカーテンを少し開いて、外を眺めた。


「わたしの大切なお友達は、生まれた時から体が弱くて、外で遊んだりできなかったの。いつもお部屋のベッドの上にいて、外は、お部屋の窓から見える景色しか知らなかった。だから私たちは、いつもお部屋でいっぱいおしゃべりをして過ごしたの」


 エリが自分の事を話すのは、初めてだった。


「お母さまが、良く外の話をしてくれたわ。そろそろイチョウの木々が色づいて来たとか、雨でお洋服がびしょびしょになったとか、お茶会で、ものすごく派手な赤い羽根飾りのついた帽子をかぶったご婦人がいて、ニワトリみたいだったとか」


 その情景を思い浮かべて、エリはふふっと笑った。


「わたしたち、お母さまのお話を聞くのが大好きだった。おばさまは、お外に出られるの?」


 光代が、外はあまり好きじゃないの、と言うと、エリは目を丸くして驚いた。


 「どうして? 外は広くて、いろんな人がいて、いろんな出来事があるんでしょう? 同じお部屋にずっと一人でいて、変わらない毎日を過ごすより、よっぽど素敵なのに。お母さまのお話は、いつもとても面白かったのに」


 光代が返答に困っているのに気付いて、エリは問い詰めるのを止めた。


「また、いつもの話を聞かせてちょうだい。啓子ちゃんのお話」


 ベッドの傍の椅子に、エリが腰を掛ける。


「どこまで話したかしらね。そうそう、啓子はとてもお勉強が良く出来て、とっても難しい中学校の試験に受かったの。合格発表の日は、私も頑張って豪華な手料理を作って、家族でお祝いしたのよ」


「啓子ちゃん、すごいなぁ!」


 それから? それから? と、三つ編みに赤いリボンを結んだ少女は先を促す。


「初めて制服のブレザーに手を通したときは、それはもう大はしゃぎで……」


 ざわっ


 何かが、光代の胸の中でざわめいた。


「それから……。えと、そう、それから、啓子が千葉中へ通ってるって、ご近所で評判で……」


 光代の頭に霧がかかってくる。中学生の啓子はどんな風だっただろう。記憶の糸を一生懸命手繰り寄せる。傍らでは、エリが話の続きを楽しみにしている。聞かせてあげなければ。啓子のことを。自分の愛した娘が、どんな風に育ったかを。



 ** 5 **


 10月も半ばを過ぎ、啓子はいつものように施設へ向かって歩いていた。門の前までくると、高橋に付き添われた光代と出くわした。


「こんにちは、啓子さん」


 先に声をかけて来た高橋に、啓子は軽く頭を下げた。

 談話室で、高橋から渡された介護日記に目を通す。外に出たがらなかった光代が、最近は自ら散歩に行くと言うようになったという。その際、見たものを忘れてしまうからと、カメラを持って出かけ、気に留めたものを写真に撮るのだそうだ。   

 散歩で体力を消耗するからか、食事の量も増えたようだ。リハビリも積極的に取り組んでいるという。一日の疲れからか、夜9時になると自ら進んでベッドに入るようになり、朝までぐっすり眠る為、夜中の徘徊もなくなっている。認知症は治る病ではないが、正しい治療やケアにより、進行を遅くしたり、症状を軽減することは出来るという。無気力だった頃に比べれば、間違いなく良い傾向にあると言えるだろう。

 光代が撮った写真は、高橋がプリントアウトして、ミニアルバムに整理してくれている。小さくてかわいいオレンジの金木犀。塀の上で寝ている猫。夕日に染まるうろこ雲。対象物がフレームに収まらず欠けていたり、ピンボケしたりしているものが多かったが、母が散歩で見た風景が、十分に伝わってきた。記憶力が著しく低下している為、光代は季節の変化に気付かない。しかし、高橋に促されて異なる時期に同じ場所を撮った写真を並べて見比べる事で、その違いに気付くという。脳のトレーニングにも一役買っているようだった。


「たくさん写真を撮ったわね。どれも素敵な写真ばかりよ。今日撮った写真も見せてくれる?」


 啓子は光代に、カメラを貸してちょうだいと手を出した。デジカメだから、プリントアウトしていなくても、液晶画面で再生できる。1つ1つ再生しながら、これはどういう写真かと問うと、光代は答えられないのだが、高橋が説明してくれるのを、一緒になって聞いていた。


「そうだ。光代さんと啓子さん、一緒に撮ってあげるわ。こっち向いて」


 高橋の突然の提案で、二人はカメラの方を向く。


 パチリ


 見て見て、と、高橋が差し出したカメラの液晶画面には、ぎこちなく寄り添う親子の姿があった。母と一緒の写真など、何年ぶりだろう、と思った。光代もまた、不思議そうに液晶画面と、隣に座っている啓子の顔を見比べていた。


「あなた……啓子に似ているわね」


 光代の口から零れた言葉は、あまりにも意外すぎて、啓子は耳を疑った。


 今、なんて……


「あぁ、ごめんなさいね。突然で驚かせちゃったかしら。啓子っていうのは、私の娘なんだけど、今、東京の大学へ行っているの」


 母の中の啓子は、小学生のまま止まっていた筈だ。


「娘……さん……?」


 啓子は、恐る恐る聞き返した。母は、何をどこまで思い出したのだろう。


「中学、高校といい学校に通っていたのだけれど、思ったように成績が伸びなくて……。でも、あの子は一生懸命頑張っていたの。決してお勉強をさぼっていたからとかじゃないのよ。だから、私も一生懸命応援していたのだけど、あの子は自信を失ったのか、だんだん、あんまり喋ってくれなくなって。自信を取り戻せるようにと思って、いい大学に行くように勧めたのだけど、一人暮らしをすると言って、家を出て東京の大学に行ってしまったわ。私はあの子が辛い時に、力になってやれなかった。どう接してやれば良かったのか、今でもわからない」


 母親失格ね、と光代は悲しげに笑った。自信を失い、自分の元を去ってしまった娘に対して、どう接すればいいのか、なんと言葉を掛けてやればいいのか、光代にはわからなかった。だから、電話も、手紙を書くことさえ出来なかった。ただ、父親が時々連絡を取っている様で、啓子の様子を教えてくれた。それを聞くのが唯一の楽しみだった。光代はそう語った。啓子は知らなかった。啓子は中高6年間自信を失い、辛い毎日を送っていたが、母から逃げることで、その辛さから解放された。けれど母は、啓子が大学生活を楽しんでいる間も、社会人になってからも、ずっと苦しんでいたのだ。啓子が、娘失格であると自分を責めていたのと同じ様に、母もまた、自分が、母親として失格であると責め続けていたのだ。





「いらっしゃい、エリちゃん」


 光代の視線の先には、三つ編みに赤いリボンを結んだ少女が立っている。いつもの様に、枕元の椅子に腰を掛けるエリに、光代はポケットアルバムを渡した。


「本当は、私が見たことをお話してあげられればいいんだけど……。おばさん覚えてなくて。ごめんね」

「お母さまがお話して下さる外の世界を想像するのも楽しかったけど、おばさまが見た外の世界を、こうして一緒に見られるのも、とても素敵だわ。あの子にも、見せてあげたかった」


 エリは、写真を一枚一枚捲りながら、目を輝かせる。


「おばさま」


 なぁに、と、光代は少女を見返す。


「おばさまは、ずっと傍にいて、もっともっと、たくさんお話を聞かせてね。また、わたしを一人にしないでね」


 不安そうに見上げるエリに、光代は笑顔を返した。


「そんな顔しないで。おばさん、最近ご飯もたくさん食べられるようになったし、リハビリも頑張ってるのよ。物忘れは酷いけど」


 光代はおどけた様に肩を竦めて笑った。そして、骨ばった細い小指を、少女の小さな小指に絡めると、上下に軽く振った。


「少しでも元気でいられるように、頑張るわ。約束」


 エリは嬉しそうに微笑んだ。

 一通り写真を見終わると、エリは啓子の話を聞きたがる。けれど光代には、エリに話してあげられる事は、もうそれほど多くはなかった。家を出た後の事は、夫を通して聞く程度の事しかわからない。大学で、何かサークルに入ったと言っていた。友達も出来て楽しく過ごしているようで、安堵した。自分が傍についていなくても、あの子は自分の足で前へ進んでいるのだと悟った。娘には、もう自分は必要ない。いや、それ以前に、自分はあの子にどれだけの事をしてやれただろうか。家を出てから一度も帰って来ないのは、自分の事を嫌っているのかも知れない。それでも、夫から啓子の話を聞くのは楽しみだった。今、エリが光代の話を楽しみに聞いているのと同じ様に。

 それから。それからの啓子はどうだったか。主人はなんと言っていたか。

 そうだ。東京の会社に就職したと言っていた。会社名は忘れた。入社して一年目は、研修が厳しくて大変だと言っていたらしい。二年目は、職場にも慣れ、時々同僚と飲みに行っていると聞いた。三年目の正月に夫が電話をしていた時は、風邪をひいていた様で心配した。四年目は、新人の教育を任されたと言って、管理職だった夫は、電話をした際に色々相談されたそうだ。五年目は……。五年目はどうだったか。27歳になった啓子は、どんな様子だと夫は言っていただろう。思い出せない。どうして。

 エリは啓子の話を聞くのが楽しみで、自分のところに通っている。もし、啓子の話をしてやれなくなったら? それでも、エリは変わらず光代を訪ねてくれるだろうか。それとも、また一人きりの毎日に戻るのだろうか。

 また?

 また、とは何だ。自分には愛すべき娘がいて、夫がいる。一人きりだったことなどない筈だ。

思い出せ。エリに語って聞かせる為に。思い出せ、27歳の啓子はどうだったのか。夫は何と言っていたのか。何故思い出せないのだろう。啓子と連絡を取った後は、必ず様子を聞かせてくれていたのに。夫は連絡を取っていたのか?夫はどうしたのだ。夫は……夫は……

 朝、ベッドの上で目覚めた光代は、涙を流していた。後から後から溢れ出る涙が頬を伝い、枕を濡らしていた。




 朝8時半。啓子は既に出社し、デスクで仕事を始める準備をしていた。電話が鳴り、隣の島の女性が受話器を取る。


「佐藤さーん、電話です。内線飛ばしますね」


 啓子の机の電話がプルプルと鳴った。


「はい、佐藤です」

『メディカルホームひまわりの高橋です。啓子さん?』


 施設から会社に電話が掛かってくるのは珍しい。しかもこんな朝早くに。声の調子も、明らかにいつもと違う。


「母に何かあったんですか?」


 高橋の声に耳を傾ける。受話器を持つ啓子の手が小刻みに震えた。


「佐藤さん?」


 啓子の様子に気づいて、隣の席の女性が心配そうに声を掛けた。




 啓子は会社を早退し、施設へ急いだ。息を切らせて談話室へ行くと、高橋と光代が待っていた。


「ごめんなさいね、平日のこんな時間に」


 申し訳なさそうに謝罪する高橋の横で、光代が啓子を見つめていた。


「啓子」


 確かに、そう言った。光代が啓子を見て、名前を呼んだのだ。実に、二年ぶりに。


「お母さん……」

「しばらく見ない間に、大きくなったわね、啓子」


 優しく微笑む母の胸に、啓子は泣き崩れた。光代は啓子の頭を優しくなでる。


「命日もお彼岸も過ぎてしまったけど、お父さんのお墓参りに行きたいの。私、場所を覚えてなくて。啓子、連れて行ってくれる?」

「もちろん……もちろんよ、お母さん。お父さん、きっと喜ぶわ」


 母は、啓子のことだけではなく、父が死んだことも思い出したのだ。止まっていた時間が、一気に動き出した気がした。




 墓のある霊園までの道のりは、高橋が施設の車を出してくれた。足場の悪い墓地の敷地内を、啓子と高橋に支えられ、光代はふらつきながらも、一歩、また一歩と歩みを進める。9月に啓子が一人で墓参りに来た時に供えた花は、もう寺の住職によって片付けられていた。改めて花を供え、お線香を焚き、手を合わせる。空は高く澄み渡り、時折木々の葉を揺らす風は肌に冷たかった。父の死を頑なに受け入れなかった母は、これまで何度啓子が誘っても、決して墓参りに来ようとはしなかった。こうして親子二人、父の墓前で手を合わせている事が、啓子には信じられなかった。



 ** 6 **


 カランカラン


 『アンティークショップ en』のドアーチャイムが鳴り、店員が顔を上げた。


「おや、これはこれは。いらっしゃいませ」

「こんにちは」


 啓子は丁寧にお辞儀をした。

 以前店を訪ねた時と同じように、店員はソファを勧め、紅茶を出してくれた。


「プレゼントは喜んで頂けましたか?」

「はい、とても」


 啓子は清々しい面持ちで答えた。それは宜しゅうございました、と店員は微笑んだ。


「あの、今日は、買い物に来たのではないんです。以前こちらで購入したテーブルランプについて、お話を伺いたくて」




 父の墓参りの後、高橋が運転する車の中で、啓子は恐る恐る光代に聞いたのだ。どうして自分や父の事を思い出したのか、と。母は一言、ぽつりと


「エリちゃんのおかげ……かしらね」


 と言った。エリちゃんとは誰か尋ねると、赤いワンピースの少女だと言ったが、それ以上はわからなかった。高橋に聞いても、そんな名前の入居者はいないし、そもそも少女の入居者など居なかった。入居者の家族の事までは、流石にわからなかったが。

 母に変化が訪れたのはいつからだろう。何か切っ掛けになりそうな事はなかったか、と考える。そうだ。高橋が言っていた。母にはルームメイトが出来たと。それは実在する者ではなかったが、母が言葉を交わす数少ない存在だった。テーブルランプの、ステンドグラスの少女だ。彼女は赤いドレスを着ていた。

 啓子は、ランプを購入した店員の言葉を思い出していた。アンティークは人と共に過ごしてきた歴史がある。人に人生があるように、物には歴史がある。そして、こうも言っていた。持ち主に愛情を注がれ、大切に使いこまれた物には、心が宿る、と。このランプの過去の持ち主が、エリという名の少女なのではないか。母と同じように病床に伏した少女で、母を元気づける為に、母の元に来てくれたのではないか。訪ねてみよう。もう一度あの店を。ランプにまつわる過去を聞いてみよう。





「ランプの以前の持ち主の名前ですか?」


 『アンティークショップen』の店員は聞き返した。


「はい。それと、もし分かればなのですが、その持ち主がどんな人だったのか、このランプにどんな過去があるのか、知りたいんです」


 少々お待ちください、と言って、店員はカウンターの下から台帳を取り出し、パラパラと捲った。


「出所がハッキリしているアンティークは由緒正しいものが多く、それ故高価で、うちのような小さな店で扱える物ではありません。プレミアムが付くような場合でない限り、売買の際に、元の持ち主の名前を教える事もありませんから、詳細が分からない方が一般的です。ですがこの商品は」


 台帳を捲る手を止めて、店主は頷いた。


「ええ、この商品は、私が直接イギリスで知人から譲ってもらった物なので、ある程度は聞いていますよ。元々の持ち主は、知人の大叔母様、つまり、おじい様の妹様の持ち物だったそうです。生まれた時から体が弱く、気の毒に、幼いうちに亡くなっておいでです。兄であったおじい様とは歳が離れていたこともあり、あまり一緒に時間を過ごしたことはなかった様ですが……。そのランプは、長い時間ベッドの上で過ごす娘の為にと、ご両親がプレゼントしたものです」


 やはり、持ち主は病床に伏した少女だった。啓子はテーブルに身を乗り出して尋ねた。


「その女の子の名前は、わかりますか?」

「ええ、わかりますよ。グレイシーというお名前です。グレイシー・クラクストン」


 グレイシー? エリではないのか。


「エリ……ですか? その様な名前は、特に伺ってはいませんが……」


 啓子は拍子抜けして、ストンとソファに腰を落とした。それはそうだ。死んだ人の魂が物に宿って母を助けるなど、とんだおとぎ話だ。真剣にそう考えた自分が、少し滑稽に思えた。ただ、ステンドグラスの少女が母に影響を与えたことは間違いない。認知症の症状には妄想もあるという。エリという名は、母が勝手に名づけたのかも知れない。それでもいいじゃないか。エリの正体がなんであれ、構わない。長い歳月を経て、遠回りをしたが、漸く母と娘が向かい合う事ができたのだ。その事実だけで十分だ。

 啓子は店を出て、施設へ向かう。


「こんにちは、お母さん」

「あら、啓子。いらっしゃい」


 母親が、娘の顔を見て名前を呼ぶ。当たり前の事が、こんなにも嬉しいとは。自然と啓子の顔が綻ぶ。

 光代は、啓子と父の記憶を取り戻したが、認知症が治ったわけではなかった。相変わらず物忘れは酷いし、施設内で迷子になるし、ボーっとしていることも多い。時々分けのわからない事も口走る。その一方で、精神状態は安定し、リハビリにも前向きで、徘徊癖もなくなった。症状が軽減していることは明らかだった。これからはゆっくりと、母のペースに合わせて、共に時間を歩んでいこう。

 光代の横で、テーブルランプの胴に結ばれた赤いリボンが、窓から入る心地よいそよ風に揺れていた。



 ** 7 **


 1943年イギリス。クラクストン家の一室で、少女はベッドに横たわり、窓の外を眺めていた。


 トントン


「グレイシー、入るわよ。気分はどう?」

「今日は気分がいいわ、お母様」


 少女は母親を気遣うように笑って見せた。


「グレイシー、お誕生日おめでとう」


 母から手渡された大きな箱のリボンを解き、中を開けてみる。そこには、美しいステンドグラスを施したシェードの、テーブルランプが収まっていた。


「ベッドで過ごす時間が長い貴方の為に、特別に作らせたのよ。貴方の好きなバラ。貴方が寂しくないように、お姫様。そしてお姫様の住むお城」


 部屋のカーテンを閉じ照明を消して、テーブルランプを灯すと、壁と天井に、様々な色合いの淡い光が模様を描いた。少女は目を輝かせた。


「お母さま、ありがとう。わたし、大切にするわ」


 それが、わたしと彼女、グレイシーとの出会いだった。

 グレイシーは、いつもベッドの上にいた。一定に温度の保たれた、何も変わらない部屋のベッドの上で、来る日も来る日も変わらない日々を過ごした。する事と言えば、まるで額縁の中の絵のような、四角く切り取られた窓の外の風景を眺めるか、本を読むくらいだった。

 グレイシーには友達がいなかった。彼女は、まるで独り言のように、わたしに話しかけるようになった。


「今日は雪が降っているわ。雪って冷たくてやわらかいのですって。一体どんな感じなのかしらね」

「今日読んだ本はつまらなかったわ。前に読んだものとなんだか似ていて。もっと面白いお話はないかしら。世界を旅する大冒険で、わくわくするような。魔法とか、ドラゴンとか・・・そういうのって、窓の外の世界にはあるのかしら。ね、エリー」


 グレイシーは、わたしにエリーと名付けた。“光”という意味らしい。それがランプの光を意味するのか、希望の光を意味するのか、わたしにはわからない。ただ、親しげにエリーと呼ばれるのは、心地よかった。

 わたしたちが一番大好きだったのは、グレイシーのお母さまが語ってくれる、外の世界の話を聞くことだった。それは季節の移り変わりや、ご近所の出来事がほとんどで、物語に出てくるようなお姫様や勇者は登場しなかったし、大冒険でもなかったけれど、それでもいつも、手が届きそうで届かない日常の出来事を、胸をときめかせて聞いていた。

 グレイシーはわたしに言った。


「わたしたち、友達よ。ずっとずっと、友達よ」


 けれど、ある秋の日の朝、わたしの大切な友達は逝ってしまった。わたしがどんなに名を呼んでも、彼女が目を覚ます事はなかった。

 グレイシー。わたしの大切な、たった一人の友達が去ってしまった。ずっと一緒だと約束したのに。悲しい。寂しい。そして私は、グレイシーと同じように深い眠りについた。




 どのくらい眠ったのかわからない。けれど、わたしに話しかけてくる誰かの声がした。グレイシーが帰って来たのかと思ったけれど、違った。そこは小さな部屋で、ベッドの上に、年配の女性が横たわっていた。おばさまはわたしを見つけて、


「どうしたの?」


 と問いかけた。その表情は、彼女のように儚げで、寂しげで、そして優しげだった。

 グレイシーを失った事を思い出し泣いていたら、おばさまは、同じ年頃の娘がいると言って、私の髪を編み、リボンを結んでくれた。

 お友達になれるかしら。グレイシーとそうであったように、たくさんお話ができるかしら。


「あなた、お名前は?」

「……エリー」

「そう、エリちゃんって言うの。かわいい名前ね。そうね、どこから話そうかしら」


 --- 完 ---










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