木曜日
錦野家の長男、星一(ほしいち。よく間違えられるが、せいいちではない)は、目覚ましで起きると、二階の自室から下へ降りてきて、のそのそと身支度を整え、茶の間の座卓の前に座った。
卓上には鉢に盛られたおかずや漬物、調味料類、お箸、そして各自の弁当が並べられている。
「お早う、星一」
そう言いながら彼に湯気の立つごはんとお味噌汁をよそってくれるのは、赤いチェックのエプロン姿の、星一によく似た、笑顔の涼しげな優男である。
「お早うっ! 星一! ふんっ!」
「おはよ! 兄ちゃん! くっ!」
続く朝の挨拶は、障子やガラス戸を開け放った縁側の向こう、中庭から聞こえてくる。
「ったく、クソ早ぇなぁ」
「メシ時にクソ言うな! はあっ!」
「いい加減に母さん達もメシ食えよ。うぜえ」
「うぜえ、とか言っちゃだめでしょ! 兄ちゃん! やっ」
返事をするのも面倒くさくなったのか、彼は黙々と味噌汁をすすり始めた。
「乙女も、珠子も、そろそろご飯食べなさい」
器用に四皿の目玉焼きを手にしたチェックの男がそう言った先には、庭で組み手をする、乙女と呼ばれたトレーナー姿の女性と珠子の姿があった。
「よしっ」
小柄だが、かなり身体は鍛えていそうな乙女の声で、二人は離れ、お互いに礼をすると、ばたばたと風呂場へかけていった。
チェックの男も席について朝ご飯を食べ始めた。
「毎朝、よっくやるよなぁ」
「星一はもうやる気はないのかい?」
「あんな馬鹿みてぇな事、やってられっかっての。受験生だっての!」
「そうかい? 父さんはいいと思うけどなぁ」
「アホくせぇ」
すると、廊下の向こうからばたばたと足音が近づいてきて、シャツとパンツというあられもない姿の珠子が部屋へ走りこむなり、星一の頭をすぱーんとはたいた。
「アホ言うなぁ」
「いてぇな! 何すんだ! この、サルのレベル!」
「静かに!」
父の一喝で二人はおとなしくなった。
「ご飯は静かに食べようね」
その日の学園の昼休憩。
真加瀬が学食でエビかつバーガーにしようか、焼き鳥丼(小)にしようか悩んでいると、ちょうどやってきた来間と出くわした。
「あ、先輩」
「あ、ども……」
「なんか最近、あのサル……珠子とよく歩いてますよね。迷惑かけられてませんか?」
「え、ううん! 迷惑なんて……錦野さん、とっても、その……親切なので……」
「あいつが~?」
「う、うん」
「へー。でも、彼女と間違えてる奴とかいますよ。先輩ならもっとマシな彼女いっくらでもつくれそうなのにな」
真加瀬はおずおずと反論した。
「か、彼女、なんて、錦野さんも、その、僕が不慣れなので、親切にしてくれ……てる……じゃ……な……かな……て」
「そうですよねー。あいつじゃ、彼女ってかんじじゃねーもん」
「そ、そ、いうわけじゃ……」
「忠則ぃ~?」
ウワサをすれば、なんとやら。
「先輩に何吹き込んでた?」
「人聞きの悪い事言うなよ。世間話してただけだ」
珠子にしっしっ、と追い払われて、来間は声に出さず、サル~、と言って注文口へと向かった。
「先輩、なんか変なこと言われたり、ここはそんな奴はあんまりいないと思うけど、突っかかってくるような奴がいたら言ってくださいね? あたし、たいていの奴には負けませんから!」
左手に弁当をぶら下げ、右の拳を固めて構えてみせる珠子に、真加瀬は首を振った。
「だ、大丈夫……」
それから、菜月が気を利かせたらしく、二人きりで昼食をとった二人は、天気がいいからと、紙パック紅茶片手に中庭の番猫を見に行った。
二人が行ってしまった後、ゆいが学食に現れた。
「た、珠子はっ!」
「あれ? 菱沼? めずらしー」
「あっ、来間君! 珠子は! っていうか、珠子が付き合ってるっていう美人は!」
「二人とももう出てったよ」
「え~っ! 遅かったぁ。もう! 会長がどうでもいいような用事、私に頼むから~」
「なんだ、お前、真加瀬先輩、見たことねえの?」
「……わ、悪いっ?」
「悪かねぇけど」
「なんでだか、いっつも、タイミング合わないんだ。珠子と付き合ってるって今朝知ったばっかだし。授業さぼったりできないし~。今日は委員会があるから放課後は駄目だし! あぁもう!」
ゆいは来間に詰め寄った。
「ねっ、あなたは見たのねっ」
「話もした」
「ど、どんな子?」
「そーだなー。うん、お前の言うとおり、美人っていやー美人だな。ウチにはいないね、ああいうの。今まで見たことねーもん」
「そ……そう」
ひどく打ちひしがれた様子でゆいはとぼとぼと学食を後にした。
「へぇ。そんなに見たかったのかな」
それを、生徒達の間にまぎれて見ていた菜月は、ひとつうなずくとそっとその場を離れた。
放課後、一緒に帰ることにした真加瀬と珠子は、土手道を仲良く歩いていた。
「先輩って休みの日とか、何してるんですか?」
「え、っと、ゲームとか、漫画読んだり……あんまり、大したことしてないかも」
「ちょっと意外です!」
「え?」
「もしかしたら、えっと、気を悪くしないで下さいね? えー、その、お菓子とか作ったり、ペットのかわいい小型犬とじゃれたり、バイオリンとか、やっちゃったりしてるのかなーと」
真加瀬はきょとんとしてから、楽しそうに笑った。
「僕、そんなふうに見えるんだ……」
「あ、いえ、すいません。先入観ありすぎですねっ」
頭をがしがしと掻く珠子に、真加瀬は「いいよ、いいよ」と笑った。
「でも……自分の食べるものぐらい作れるし……掃除は、好きだよ……」
珠子の目が輝いた。
「な、なんか、うれしいです」
「そ、そう? あ、錦野さんは、何してるの?」
「あたしは、鍛錬ですっ! 押忍!」
「すごいなぁ」
「“我流”っていう拳法ですっ。母さんに習ってるんです」
「……我流……?」
考え込む真加瀬を尻目に珠子は何かを見つけたようだ。
「先輩! いいものありましたっ! ダンボール!」
「え、ダンボ……それで何を?」
「えー、決まってるじゃないですか。それー」
珠子はダンボールを尻に敷いて土手の草の斜面を勢いよく滑っていった。
下についた珠子が手を振る。
「面白いですよー! 先輩もやりませんー?」
真加瀬はもじもじした。
「僕、やったことないよ」
「じゃ、初たいけーん!」
ダンボールを持って駆け上がってきた珠子に押されるようにして真加瀬も斜面を滑っていった。
無言で滑り降り、下につくとちょっとの間じっとしてから駆け上がってきた。
「あんまり面白くなかったかな」
しかし、珠子の心配をよそに、上がってきた真加瀬は目をきらきらさせて頬を紅潮させ、にこにこしながら一言、
「お……面白い……」
と、つぶやいた。
「も一回やっていい?」
「どうぞどうぞっ」
無邪気に遊ぶ高校生に、通りがかった小学生男子二人連れがぼそりと言った。
「こどもだねぇ」
それを聞きつけた珠子は、彼等を呼び止めた。
「ふん。うらやましいんだろう。怖くて出来ないんだな」
「な、なんだとー」
「体力と精神年齢は五十八とかなんじゃないのか?」
「くそー、そのぐらいどうってことないぞ。できるもん!」
小学生その一は珠子からダンボールを引ったくると、「い、いくぞぉ」と決意を固めて滑っていった。たぶん初めてに違いない。
それから日が暮れるまで、珠子と真加瀬、健一くんと元夢くんは楽しく遊び、また一緒に滑ろうね、と約束してお家へ帰っていった。




