魔物園
ミノタウロスの恐ろしさは身の丈の大きさと比べて魔物臭が少ないことである。
ハンターたちが魔物の領域内で奇襲を受けることは少ない。異臭を放つ魔物に気づかないわけがないからだ。
大型の魔物ほど体臭が強い。経験を積んだハンターなら岩場や森、山の中など見通しが悪い場所でも臭いである程度いる場所がわかるという。
しかし例外もある。それがミノタウロスである。
その膂力は桁外れで、人間など紙切れのように引きちぎる。
近づかれる前に弓矢などの飛び道具で倒すのが最善だが、気づかぬうちに接近を許してハンターたちが壊滅的な打撃を受けることもしばしば聞く話だ。
臭いの少なさの理由、それは魔物といえる部分は牛の頭周辺だけでその他は人間、もしくはそれに近い生物ということらしい。
三メートル近い体長なのに魔物臭を発する表皮部分が胸から上だけなので、臭いは小型の魔物とそう変わらない。
実証もある。ミノタウロスの魔法は怪力無双の付与だが、下半身の皮を加工して作った装備は魔法効果がほとんどあらわれなかったのだ。
一時ミノタウロスは人間が魔法を扱えるよう進化した姿ではないかと目されていたほどだ。識者によって否定されたが。
ところで、このミノタウロスから造られた革装備、市場では全くと言っていいほど人気がない。
まず、革として使える部分が少ないのでどうしても値段が高くなる。
怪力の魔法は力仕事に役立つが、ミノタウロス以外にもこの魔法を使う魔物はいる。同じ効果なら安い方を選ぶのが消費者である。
そして体の下半分が人間に近い生物という事実。使う側からすれば気味が悪いことこの上ない。
もともと魔物は自然の摂理から外れている存在だが、人間が悪魔に呪いでもかけられたかのようなミノタウロスの風貌。誰がそんな魔物の革を好き好んで使うというのか。
ミノタウロスは狩猟難易度の割に実入りが期待できない、ハンターからとくに敬遠される魔物だった。
「み、ミノタウロスっ!?嘘だろ……いつの間に……」
トールは驚きのあまり腰を抜かしてひどく狼狽した。
突然巨漢の牛頭男が近くに出現したのだ。小市民には大変な恐怖だろう。
トールはムンデ出身とはいえ、幼いころから日本人として長く暮らしてきている。ここまで大きな魔物を目にしたのは初めての出来事だった。
「くそっ、お助け!ナンマイダブ、ナンマイダブッ!」
目を閉じて合掌をし、念仏を唱えはじめるトール。半ば死を覚悟した彼だったが、ミノタウロスは襲ってはこなかった。〝ブルル……〟と荒い鼻息を吐くのみである。
「ふふっ、なんだその呪文は。その様子だと本当に何も知らないようだな。大丈夫、このミノタウロスに危険はないよ。少なくとも私が近くにいる限りはね」
「へっ?」
アヴリルは軽い足取りでミノタウロスに近づいていき、おもむろに手をのばした。
頭を垂れるミノタウロス。その所作はやって当然と言わんばかりに自然な動きだった。
ミノタウロスは人間に使役されるほど弱い魔物ではなかったはず。
信じられない光景を目にしたトールは固まってしまう。
「このミノタウロスも使い魔だよ。人間には条件付きで危害を加えないよう命令してあるから、トール、あなたが襲われる心配はない」
「……そうかあ……よかった……」
考えてみたら彼女はベルリオスを名乗ったのだ。これくらいの芸当出きて当たり前なのだろう。トールの混乱した頭が徐々に冷えていく。
そして安堵のあまり涙目になってしまい、慌てて袖でぬぐった。
「トールは不可思議な人だな。あまり見たことがない異国の服だが、仕立てはかなり良いものに見える。その靴だってそう。てっきり外国からここへ商談しに来た商人かと思っていたのだが、どうやら的外れだったようだ」
「商談?ここは魔物の領域じゃないのか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。ここは、そうだな――『魔物園』と呼ばれている。ベルリオス家が治める魔物放牧地だ」
「魔物の放牧?」
トールは信じ難い言葉に思わず聞き返してしまう。
魔物を家畜か何かと思っているのだろうか。魔物は人間にコントロールできるほど甘い生物ではない。その本性は残忍で酷薄、災害のように魔法をまき散らす害獣、それが魔物ではなかったのか。
「目当ての魔法のために、該当の魔物をわざわざ探すのも面倒だろう。ここでは市場で人気のある魔法を持つ魔物をいくつか飼っているんだ。そうすれば安定して魔物革を提供できるからね」
アヴリルは淡々と語ったが、とんでもないことである。羊毛を収穫するのとはわけが違うのだ。
数百年以上もの間、魔物の脅威に怯えて暮らしてきた人類。魔物に対抗する手段を発明したからといって、人と魔物には歴然とした力の隔絶がある。
魔物革をいくら装備したとしても所詮人の武力。いたずらに魔物を刺激すれば死が待っている。
魔物と相対するには入念な準備が必要なのだ、普通は。
ベルリオス家の常識外れのやりようにトールはあきれて物も言えなかった。
「ふふ……そんな顔をしないでくれ。まあ驚くのも無理はない。こんなこと、ここでしかやってないからね。御祖父さまが狩ったドラゴンの力のおかげなんだよ。ドラゴンは竜種の中でも複数の魔法をその身に宿す最上位の魔物だ。彼らに逆らうことのできる魔物はそうはいない。ならばその皮を剥ぎ、魔法を奪った人間はどうだと思う?答えは簡単、竜と同格、というわけさ。この地でベルリオス一族に牙をむく魔物は皆無だ。従順そのものだよ。家畜と同じさ」
トールはアヴリルの話を聞いている間、ある質問を投げかけたい欲求にかられていた。
――ベルリオスは魔王にでもなるつもりか、と。
『魔王』――それは全ての魔物の頂点に立ち、世界征服を企む邪悪な王。
日本人が考える魔王像はそんなところではないだろうか。勇者と魔王、フィクションの中でもとりわけ人気の高いモチーフである。
菅原トールも学生のころ、マンガ・アニメ・ゲームなどの創作物をよく嗜んだ。
特にゲームは黎明期から過渡期を経験し、魔王が出てくるゲームをたくさんプレイした記憶がある。
世界の裏で暗躍しては騒動の種をまき散らし、魔物を操っては国を落とそうとする憎むべき存在、魔王。彼らは大抵ラスボスとして登場する。
善か悪かで判断すれば、まぎれもない悪である。クライマックスにふさわしい敵だ。
それはさておき、ムンデ世界において上記のような魔王の概念は噴飯ものであろう。
所詮魔物は知性に乏しい獣であり、全体を統率する力と頭脳を併せ持つ個体が生まれたことは一度もない。
だいたい魔物には統治という考えがないのだ。あるのは縄張り意識だけである。
魔物にとって重要なのは、力が強いかどうか、エサかそうでないか、それくらいだろう。
魔物が徒党を組んで人を襲うことはあっても、それは強さを誇示したい、効率よく狩りをしたいなど原始的欲求に則った行為であり、誰それの命令でその土地を征服しようとか人類の根絶を図ろうというわけではない。
なまじ魔物の本質を知っている分、人類にとって魔王など机上の空論以下の戯言、ナンセンスな話なのだ。
世界に人を導く宗教があり神の存在を説くならば、反対に魔王に相当する敵役が登場するのは必然だが、そこに配役されるのは理性のない暴虐の魔物であり、陰謀企む狡猾な魔王などでは断じてない。
しかしアヴリルの言っていることが事実なら、それは魔王の萌芽だ。
ベルリオス家がその気になれば魔物を統率し、世界を征服せんと乗り出すことも可能だろう。
人間こそが魔王になり得る存在だったのだ――そう気づいてトールは鳥肌が立った。
英雄が悪に堕ちて魔王になる、物語の中だけならば面白いで済まされるが現実には絶対に起きてほしくない事柄だ。
今人類の隆盛期を迎えつつあるムンデ世界ではボタンのちょっとした掛け違いで十分起こり得そうなのが笑えない。
アヴリル含めベルリオスの人間は何を思って魔物園なんてものを経営しているのだろうか。
やはり世界征服が目的か、それとも――――
トールは藪蛇とは思いつつも、アヴリルから詳しく話を聞くしかないと覚悟を決めていた。
(ここでアヴリルと出会ったのも何かの縁だ。いや俺がこの魔法世界にもどってきたのはこのためだったんじゃないか。世界が……魔王の野望を阻まんとする勇者の役割をこの俺に――――はっ、やべ)
自分が勇者となり世界を救う妄想で一人盛り上がりそうになったが、そこは三〇を越えた大人の男、我を取り戻してアヴリルに水を向けた。
「……へえ、じゃあそこにいるミノタウロスは何なんだ?どうしてここにいる?」
まずは軽いジャブ。先ほどの説明では、市場で人気のある魔法を持つ魔物を飼っていると言っていた。ミノタウロスは当てはまらない。これをどう言い訳してくるのだろうか。
「ミノタウロスかい?この子は使い魔として猟犬の役割をしてもらっている。主に増えすぎた魔物を間引いたり、飼っている魔物が魔物園から脱走しないよう見張りをさせてるんだ。ミノタウロスは商品としては人気がないけど使い魔としてはすごく役に立つ魔物なんだよ。体臭もそこそこだし、命令もちゃんと覚えてくれる。やはり人型というのが大きいのかな。かしこいんだ。魔物なんて人語を理解しているのか怪しいのが大半だし、話が通じる奴でさえ命令してもすぐ忘れてしまうんだ。ホントまいるよ。その点ミノタウロスは――」
アヴリルから半分魔物にたいする愚痴のような返事がつらつらと戻ってきた。
「……なるほど。結構大変なんだね……」
返事に困るトール。
どうやら魔王うんぬんは完全にトールの勇み足による勘違いだったようだ。
さっきまでの妄想を思い出すと、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。
基本的なことを失念していた。
魔物は馬鹿である。
大勢の馬鹿を統率することは誰にもできない。