猫
人間、一度経験したことは知識としてのこる。
トールは自分の身に起きた現象が異世界転移だとすぐに理解した。
さわさわと川の流れる音が遠くで聞こえる。あたりを見回すと山の中のようだ。
「……はははっ」
かわいた笑い声が口から出た。
ここが魔法世界ムンデだということは直感的にわかっていた。
心を癒す森の香りに混じったほのかな刺激臭。これは魔物の残り香だ。
トールはまだムンデに住んでいた幼いころ、村の魔物ハンターが身に着けていた革小手の臭いを思い出していた。
さて、どうするか――トールは自分が何をするべきなのか考え始めた。
就職活動にあぐねていた自分の身に起きた突然の故郷再転移。
どうして今なのか。久方ぶりにムンデのことを思い返した直後に転移が起きた。天啓のような出来事である。
「やっぱり俺が故郷に帰りたいと願ったからなのか……?ううむ……」
思わず天の配剤を感じて、一人呻くトール。
「とりあえずここから移動しよう……。いきなり魔物に出くわしてはヤバイしな……」
自分が魔物に喰われる様を想像して、ぞっとしないトールはまずは山を下りようと行動を開始した。転移の際に一緒に持ってきてしまった空の丼ぶりは、移動の邪魔なので地面へ捨て置いた。
見たことがない山だったが、すこし歩くと踏み固められた道に出た。
入山している人がいるのは間違いない。トールはほっと息をつくと、また歩きはじめた。
道に沿って下山しながらトールは故郷の言葉を思い出そうとして、すらすら出てきたことに驚く。
トールの体は異世界間を行き来したことによって、良い意味で影響が出ていた。細胞が活性化し、頭の中がすっきりとして昔のことを鮮明に思い出せた。
トールはこれを日本に紛れ込んだときに一度経験している。
スポンジのように何でも吸収できていた〝あのころ 〟が戻ってきたのだ。
「三十年ぶりなのによく覚えてるもんだなあ。……まあ、空想の言語じゃなくてよかった」
つい小一時間前までムンデのことを己の妄想だと信じて疑わなかったトールだが、今現在起きていることを考えればそれが間違いであったと断言できる。
「父さん、二度と会えないかもしれないけど、俺ここで頑張ってみるよ。好きに生きてみる」
トールにとって父とは源三である。母の紗江子は昨年他界した。老年の父を心ならず置いていくことに躊躇いがあったが、父の言葉を思い出し、魔法世界ムンデで精一杯生きようと心に決めた。
下山途中、なにか予感めいたものを感じてトールは立ち止まった。
そこに一つの物体が横から飛び出してくる。
よく見るとそれは猫のようだ。背中に生えている黒い翼に目をつぶればという前置きがつくが。
「へえ、ガートじゃないか。村にいたころはよく目にしたよな」
ガートとは猫型の魔物である。魔物にしては人間に友好的なめずらしい生物で、宙に浮くしか能がなく、愛玩動物として飼う家も少なくなかった。
魔物の大きさと臭いは比例するようで、ガートは魔物臭がほぼないことも飼われる要因の一つである。
「三毛のガートかあ……。かわいいなあ」
トールはあずかり知らぬことだったが、ガートは基本全身真っ白で、毛色が混合するガートは希少種であり珍重されている。
「あ、首輪がある。やっぱり誰かの飼い魔物か」
人間に従属している魔物のことを飼い魔物、あるいは使い魔と言う。
魔物には生得的に種の序列があり、それは大抵魔法の強度で決められている。順位が上の魔物に下の魔物は絶対服従が常である。
ここ百年で曲がりなりにも魔法を使うようになった人類は、力の弱い魔物を使役することが可能であり、ガートは代表格の一匹だ。
人類が魔物の仲間入りをしたとあざける人間主義の輩もいるにはいるが、多くの人々はこれを受け入れ、ペットとして愛でたり狩猟生活の友とした。
ハンター内では狩猟時にお供として使い魔を用意するのは今や常識である。
トールは飼い魔物のガートを抱きかかえると、うりうりと頬をこすりつけた。彼は猫愛好家であった。
両親がペット嫌いだったので家で飼うことは叶わなかった。それがトールの猫好きにいっそう拍車をかけた。余談であるが、染革のときにトールが時節を考えず何度も猫の柄を提案してくるので源三はよく困らされていた。
それほど好きなのだ。見た目は猫そっくりのガートにトールが我を忘れるのも無理もない話である。
三毛ガートの抱擁にしばし夢中になっていると、不意に後ろから声をかけられた。
「取り込み中のところすまないが、それは私の使い魔でね。離してくれないかな」
懐かしいムンデの言葉に振り返ると、そこにハンター然とした金髪の若い女性が立っていた――。
ハンターたるもの、お供に猫はかかせないですよね。