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染革

革のことは門外漢でしたので、付け焼刃の知識なのをご了承ください。

 源三は染革(せんかく)業を営んでいた。

 動物の皮を革に変化させることを専門用語でなめすという。巷で鞄や靴の材料として使われているのはなめし加工をした革なのだ。

 なめすを英語で“tan(タン)”といい、革を製造している人たちをタンナーと呼ぶ。

 タンナーは動物の皮から毛、脂肪、不要なタンパク質を取り除き、耐久性や柔軟性のある革になめしていくわけだが、それだけで問屋に卸せるわけではない。

 なめした革をさらに揉み、油を染み込ませたあと、色や模様を染めつけするのである。

 その加工工程を染革(そめかわ)という。

 なめしと染革、古来から綿々と受け継がれてきた匠の技だ。

 しかし、近代において革の流行は移ろいやすい。昔は革の機能性が重視されていたが、今やファッションを問われる時代である。当然メーカーの要求は染革に重きを置いていった。


 分業は必然の流れだった。

 タンナーは水と薬品を大量に使う必要があり、さらには排水などの問題もある。経費が馬鹿にならないのだ。新参者がおいそれと参入できるものではない。必然と業者は絞られていった。

 染革もやはり水と薬品、排水などの諸問題は同様にあったが、タンナーが用意しなければならない設備と比べるとごく軽度な投資で済んだ。

 染革業にもっとも必要なのは流動的な市場ニーズに合わせる対応力である。

  

 源三はセンスがあった。市場の好みを敏感に察する嗅覚に優れていた。

 今にして思えば、そういう動物的な勘の良さが息子の入れ替えという大胆な犯罪を成功させた一番の要因なのだろう。

 まさに機を見るに(びん)とは源三を指す言葉である。

 世間の革需要が減り、経営が苦しくなっても源三の会社は市場動向を読みきり生き抜いた。

 その嗅覚はトールにも受け継がれていた。トールと源三、二人の間に血のつながりはなくとも親子であることの証明だった。


 しかし、自社を次代に託そうと社長業をトールに譲ろうとした矢先、源三にも予期せぬ事態が起きる。

 リーマン・ショックである。

 

 リーマン・ショックとは2008年に米投資銀行リーマン・ブラザーズが破たんしたことが引き金となり起きた世界同時不況のことをいう。

 前年に米で住宅バブルが崩壊し、サブプライムローンという低所得者向け高金利住宅ローンの返済が軒並み滞った。

 その債権を組み込み販売されていた証券は市場で高い信用力を誇っていたが、それが崩れたのである。

 サブプライムローン問題といい、証券を扱っていた数多くの業者が割を食ったが、その最たる例がリーマン・ブラザーズ投資銀行だった。多大な負債を抱え倒産したのである。


 その影響は遠く日本でも見られた。

 銀行融資の査定が厳しくなり、貸し渋り、貸し剥がしが横行したのである。

 ただでさえ先が不透明な日本の染革業界。源三の会社も例にもれず餌食となった。

 もともと自転車操業だった会社である。これ以上資金の借り入れができないならと源三は廃業を決めた。

 トールは説得しようとした。しかし源三は生来、一旦こうと決めたら頑として譲らない性質であり、説得は無駄骨におわった。

「もう染革業なんて日本でやるもんじゃないさ。安い外国産には勝てやしない。お前も好きに生きていいんだぞ」

 三〇過ぎて好きに生きるもなにもあるか、トールは憮然として呟いた。


 それからはハローワークに通うつらい毎日。

 決まらない就職。

 それもそうである。不況真っ只中なのだから。

 就職適齢期をとうに過ぎたおっさんがそうそう就職が決まるほど世間は甘くはない。


 トールは汗でくたびれた上着を横へ置き、ネクタイを緩めつつ、全国チェーン展開している定食屋で安い牛丼を注文した。冷たい水でのどを潤し、しばらく席で待つと注文の品がきた。

 牛丼に紅ショウガを軽くのせ七味とうがらしをかける。

 そして甘辛い牛丼をかきこみながら、ずいぶん思い返すことのなかった魔法世界ムンデへと思いをはせた。


 就職活動をしている者にはしばしば自己の人格否定が起きる。不採用通知を受け取るたびに、自分という存在が社会から無用の烙印を押されていると錯覚するのだ。 

 日本人として長く暮らしてきたトールは、魔法世界ムンデのことは半ば己の空想だと思っていた。おそらく自分は幼いころ虐待をされ、自己防衛のために作り出したのだろう。魔法世界ムンデは心の中にしか存在しない。

 そう思っていたからこそ魔法世界への追憶は封印していた。

 考えても虚しさだけが増すだけだから。

 だが日々の就職活動で疲労困憊のトールは弱っていた。痛めつけられた心が過去の妄想に逃げ込んだとして、誰が責められようか。

「これが魔法世界ムンデだったらな。俺だって好きに生きたさ。魔物を狩ってハンターとして名をはせる。最終的には伝説のドラゴンスレイヤーになって歴史にのこる偉人になるんだ」


 妄想だけが救いだった。

 イメージ豊かな中学生のように、トールはムンデのことを思い描いた。

 口の動きがそのまま想像力の奔流を示すかのように、むしゃむしゃと力強く律動した。

 そして牛丼の最後の一口を含み咀嚼したあと水で流し込む。

「ごちそうさま」

 妄想はおわりを迎える。




 ――そして、世界が暗転した。

転移時の年代は2009年頃と想定しています。


次回からファンタジーの予定です。

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