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帰郷

ファンタジー展開はまだ先になります。

 懐かしいニオイだ、菅原トールが最初に感じたのは故郷に漂う魔物の香りだった。

 鼻を刺激するなんとも形容しがたい臭気。

 これは近くに魔物がいた証左である。

 警戒してしかるべき状況。それなのにトールの心を占めていたのは親しみと安堵。

 郷愁の念など自分にはありはしないと高をくくっていただけに、心を満たす暖かですこし刺すような気持ちに気づいたとき、自然と笑みがこぼれていた。

 さて、どうするか――三十年ぶりに故郷、魔法世界ムンデに帰ってきたトールはひとりごちた。


 菅原トール。本名テオドロ・アンギアノ。彼の実の名前はどこかの聖人――たしか奇跡の水を発見した狩人――からとられたありふれたものだった。人生の大半を菅原トールとして名乗ってきたのだ。故郷に帰ってきたからといって本名にもどす気などさらさらなかった。


 トールがムンデと異なる世界地球に行き着いたのは少年のころ、六歳のときである。

 突然だった。日課の水くみに桶をもって家から出たところ、いきなり世界が急転した。目の前が真っ白になり、前後不覚におちいった。


 そしていつのまにか日本の関東、葛飾区の堀切(ほりきり)へと、そこにトールは立っていた。

 時は西暦1980年代初頭。下町の風情が色濃くのこる町並みである。

 トールは景色に驚いて叫び声をあげたが、その声を聞いてやってきたのは、見知らぬ格好をした黒髪の男女だった。

「どうした?坊主、どこか痛いのか」

 男はそう言うと飴を差し出して、トールの頭をなでた。

 そのときトールは男の言葉を理解できていなかったが、男の優しい声音、それと裏腹の悲痛な表情にただただ頷くしかなかった。

「うん?言葉がわかんないのかあ。外人の子かね。……ちょうどいいか。おじさんたち、これから警察に行くところなんだ。迷子だったら警察に任せたほうが安全だ」

 男はトールの手をとり、どこかへ歩き出そうしたとき、初めて連れの女が声を出した。

(とおる)ちゃん……。あなた、この子が本当の透ちゃんなのよ!」

紗江子(さえこ)お前……いったい何を言い出すんだ!透はお前が……っ!」

 先ほどの優しそうな雰囲気は消し飛び、男は顔をゆがめながら吐き出すようにして言う。

「あんな子、私の子じゃない!!」

 女は目の焦点があわない様子で、口から泡を吹き出さんばかりに叫んでいた。それはここにはいない誰かに向かって責めるような叫びだった。

 大声を張り上げ、呪言を紡いでいるかのような女の姿に、トールは恐怖を覚え泣き出した。

 見知らぬ土地、聞いたこともない言語、突如豹変した男女。限界だった。

「ああ、ごめん……。ごめんな、俺たちが大声出したばかりに……」

 男はトールをあやしながら、妻である紗江子へ顔を向けた。紗江子も若干落ち着いたのか目を伏せぎみにして男の言葉を待っていた。

「紗江子……。悪い。いきなり声を荒げてしまって……。本当なら俺にお前を叱る資格なんかないのに……。仕事にかまけて家庭のことをかえりみず、息子のことをお前にばかり押し付けていたのは間違いない、俺だ……」

「あなた……。私こそごめんなさい……。ううっ……私が犯したことなのに、それを認めるのがたまらなく怖かったの……。私はなぜあのとき、あの子の首を――」

「よせっ!そんなこと言ったところで意味がないだろ!」

「だけど――」


 男はこんなところで口論になってはたまらないと、紗江子が黙るように一睨みした。それから路地裏に二人を連れて行き、すこしばかり黙考したあと決心した。

「よっしゃ!男、菅原源三!毒を喰らわば皿までってな!お天道様に顔向けできなくたっていいんだ!俺は紗江子、お前を守れればそれでいい!」

 源三は腹は決まったとばかりに、手を打ち合わせるとそのままトールを抱きかかえた。

「いきなりで悪いが、坊主、今日からお前は俺の息子だ。わかるか?いや、わからないか…困ったな。日本語以外できないしな。えっと、俺の名前は源三、ゲンゾーだ。ゲ・ン・ゾー。ほら言ってみな」

 トールも源三が何をさせたいかわかったようで、ぐずりながらも懸命に源三の名を口に出した。

「おし、それでお前は俺の息子菅原透だ。トール。ははっ、これは発音しやすいだろ。外国じゃあ神様の名前なんだ」


 そんなやり取りをしたあと、源三は家を出たときのどん底の気分が幾ばくか高揚していることに気づいた。

「考えてみたら息子に俺の名前呼んでもらうのは初めてだったな。望外こんなにうれしいとはなあ。紗江子、これから忙しいぞ。知り合いのメッキ屋にいって硫酸をわけてもらわないとな。死体なんぞ埋めても絶対見つかる。溶かしちまうのが一番だ」

 トールが日本語を理解していたら、恐怖に顔をひきつらせたであろう。源三は虫も殺さぬ顔で死体隠匿の方法を妻に教授していた。

「あなた……いいの?こんなのただの思いつきなのに……」

「みなまで言うな。このまま警察に行ったところで全員不幸になるだけ。息子を殺したお前は殺人の罪で捕まり、俺の会社も取引先から敬遠されておそらく潰れるだろう。葛飾周辺は同業他社がごまんといるからな。従業員を路頭に迷わすことはしたくない」

 舌の根も乾かぬうちに現金な本音が出た源三に、紗江子は苦笑いした。

「……すまん。お前が大事と言ったばかりなのに、会社の心配をする俺をなじってくれ」

「いいえ。あなたが一代で起こした会社ですもの。これでもあなたが会社を大事にする気持ちはわかっているつもりよ。私がいけなかったの。透を五体満足で生んであげられなかったこの私が……」

 後悔の念が押し寄せたのか、不安に苛まれるように自虐をはじめた紗江子に、源三は辟易としながらも、顔には出さず懸命になだめていた。

 それを源三にもらった飴をなめながらトールは茫洋と眺めていた。

 先ほどまでの泣き顔はどこへやら。少年の舌は飴の甘味を味わおうと一心不乱に口の中で動いていた。


 殺人、未成年者略取誘拐、故人なりすましというヤクザも真っ青な犯罪行為のオンパレードだったが、透がトールに成り代わっても誰も気づかなかった。

 源三は仕事一筋でろくに親戚付き合いをしておらず、紗江子は世間体を気にしてか息子をけっして外に出していなかったことが幸いした。もちろん異世界人のトールにたいして捜索願の届出が警察に出されるわけがない。


 埒外の幸運で日本人の戸籍を手に入れたトール。それからは波乱万丈というわけではないが、大変な日々だった。

 何もない辺ぴな山奥の寒村で生まれた異世界人が、高度経済成長期を経て急激に発展した日本に放りこまれたのである。下町とはいえトールにとって驚天動地の風景だった。

 見るものすべてに怯え、わからない言葉にイライラし、使い慣れない道具で飯を食べる。

 多大なストレスに晒されたトールは幼いながらに十円ハゲをいくつも頭にこしらえた。


 しかし人間慣れるものである。それはムンデ出身のヒト科ヒト属でも同じであった。

 そしてトールはとても聡い子供だった。一年もかからず日本語を覚え使いこなすことが出きていた。神童と称しても差し支えない。

 元来子供の吸収力は侮れないとあるが、異世界のましてや市井の子にしては異常である。

 これはムンデから地球に転移したときに付随した時限的権能だった。世界を越境したとき肉体の内に秘めたる力が底上げされていたのである。それは頭脳にも当てはまり、驚異的な記憶力を発揮するに至ったのだ。

 数年で失われてしまった能力だがトールの役に大いにたった。


 源三と紗江子はトールの想像以上の利発さに喜んだ。源三はトールのことを実の息子のように可愛がり、紗江子は教育に心血を注ぐようになった。晩年源三はトールにこう漏らしたことがある。

「俺の息子はトール、お前一人だ。俺は、どうにもな、透のことを息子とは思えなかった。あー、とか、うー、しか言わないやつなんて人間の失敗作だ。そんなやつ俺の息子じゃねえ」

 人の良さそうな顔をしている源三が吐いた、人の道を外れた犬畜生にも劣る発言。

「今のがモラルに反していることは百も承知だ。昭和生まれの戯言と受け取ってくれ……」

 しかしそれが偽らざる本音だったことは、親子となって二十余年のトールにはわかっていた。


 トールは順調に成長していき、都内の大学を出たあと源三の会社に役員として入社した。

なりすまし行為は当該の法律がないと聞いたことがあるので、それだけならば厳密にいえば犯罪ではないのかもしれません。

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