第60話
それから30分後、ぞろぞろと多くの人が登校してくる。
その中に朱音の姿もあった。
「あっ! おはよー、実央!」
「……なぁ、私の顔を見て、気付くことはあるか?」
気付いてほしかったのか、気付いてほしくなかったのか、そんなのわからない。
ただ。
「え? ……うーん……いつも通り美人だよ?」
朱音がそう言った時、私は甘いような苦いような想いが、喉の奥に詰まるのを感じた。
そして、自分で後付けの理由を増やしてしまう自分がバカだと思った。
「えっと……実央、何かあった?」
朱音の問いにもただ苦虫を噛み潰したような顔をして首を振るしかなかった。
それから4時間後、私達はまだ同じやり取りをしていた。
「ねぇ、実央! 何かあったんでしょ!」
問いただす朱音。何も言わず首を振る私。
お昼ご飯のパンを買うために食堂に向かってる途中に、教室で何度もされたやり取りをこりずに繰り返している。
「何回同じやり取りをするつもりだ。だいたい、どうして今日に限ってそんなに食いついてくる?」
いい加減これ以上同じやり取りをするのもバカらしく、そう言うと、朱音はやっと、と言わんばかりの顔をした。
「それ! それだよ! いつもの実央ならもっと早くにうるさい、とか、何回同じことを言うつもりだ、とか言うはずなのに、今日は全然言わないんだもん! 今日の実央なんかおかしいよ!」
……それの確認のためだけに4時間も費やしたのか、こいつは。
2時間ぐらいで、そういうことを言わないのはおかしいと言えばいいだけなんじゃないのか。
そう、思ったけれど、ただ朱音のその真っすぐな優しさが心に染みたのも嘘じゃない。
「おかしくない。ほら、とっととパン買ってき――」
「実央!」
振り向かなくても、声だけで誰かわかる。
朝霧先輩の次に会いたくないというか、会うのが気まずい人物だったのに。
振り返るとやっぱりその人物がいて。
「牧瀬……。」
「実央! おはよっ!」
それなのに、あいつが笑うから。
笑って嬉しそうに私の名前を呼びながら近づいてくるから。
「おはようという時間はとっくに過ぎている。」
私もとても嬉しくなったのだ。
「み、実央ちゃん!」
牧瀬の隣に立っていたのは、何かに耐えるようにぷるぷると小刻みに震える志乃子で。
どうした?と聞こうとする前にぺちっと私の頬に大して痛くもない志乃子の平手打ちが飛んできた。
志乃子の手が当たったと思った次の瞬間にはバッ!と音がしそうなくらいの勢いで頭を下げた。
「あ、あの! ごご、ごめんなさい! み、実央ちゃんが悪いわけじゃないのはわかってるの。こ、こういうことで、相手を傷つけちゃうのは、し、仕方のないことだって、わわ、わかってる! で、でも、牧瀬先輩が、こ、こうしないとずっと心がボロボロのままだって言うから……ご、ごめんなさい!」
「……み、宮沢ちゃん。」
牧瀬は震えていた。
感激……ではなく、笑いすぎで。
「ぷっ……ははっ! そ、それ冗談だったんだけど……」
「え? ……えぇ! 嘘!? みみみ、実央ちゃん、ごごごご、ごめんなさいっ!!」
「くっ……はははっ!」
間違いない、志乃子のボケは私の笑いのツボである。
「……あのさ、別にいいんだけど、公衆の面前でやる?」
朱音の一言で私の笑いが促進されたことは言うまでもない。
――――――
「絶対志乃子のせいで変な噂が立ったな。」
さしずめ、青谷実央が牧瀬真を手ひどく振ったことに激怒した牧瀬ファンの宮沢志乃子が青谷実央をビンタ!……と言ったところだろうか。
「ほ、本当にごごご、ごめんなさいっ!!」
「いや、からかった俺が悪かったんだから宮沢ちゃんは謝らなくていいよ。ごめん、実央。」
軽く言ったつもりが、2人にも頭を下げられると、どうしていいのかわからないのだが……。
「……別に本気で怒ってるわけじゃない。」
「……実央、今デレた?」
「実央ってツンデレだったんだ!」
牧瀬がニヤッと笑ってからかうように言ったのに朱音が素早く乗る。
……このコンビは本当に性質が悪い。
「違う。」
くだらない。が、くだらないこのやり取りが楽しいと思える今が幸せだとも思う。
しかし、前から歩いてきた2人によって、自分が今直面していた問題を思い出させられたのだ。
「あっ桜華ちゃんと、朝霧先輩……。」
一番最初に声をあげたのは志乃子で、その小さな声に気付いたのは姫野だった。
姫野は朝霧先輩から視線をそらして、こちらを向き、志乃子の姿を見つけた瞬間、いたずらっ子のように笑って、こちらに駆け寄ってきた。
「あ、噂の牧瀬ファンの志乃子ちゃん。」
「ち、違うの! そ、それには、ふ、深い事情が!」
「宮沢ちゃん……俺の事、嫌いなの?」
牧瀬ファンだという事を否定した志乃子に、ここぞと言わんばかりに牧瀬は悪乗りして、悲しそうな顔を作って志乃子の方を見た。
からっかった自分が悪いと言った舌の根も乾かないうちにこいつは……。
朝霧先輩は姫野の後から続いてこちらに来たと思ったら、姫野の隣を通り過ぎて私の前まで来た。
……この人は、何がしたいのか良く分からないが、私の前まで来るなら何か話す言葉を持ってきてほしい。
「……すみませんでした。」
せっかくの2人きりの邪魔をして。
別に意図して邪魔したわけじゃないが、一応。
他に、何を話せばいいのかわからないし。
「……あぁ。」
肯定の言葉がこんなに痛いのは私が朝霧先輩を好きだという証拠だろうか。
自分で自分を傷つける趣味なんてないはずなのに、私は自分で自分のことを追い込んでいる。
「……頬は、大丈夫そうだな。」
「……まぁ、志乃子のビンタなので。」
朝霧先輩に熱を出してほしいと思ったのは今日が初めてだろう。
熱を出してくれてた時の方がポンポンと会話ができて良かった。
……たまに会話が成立してなかったが。
「お前は、好きなのか?」
一瞬、朝霧先輩が何を言ってるのか理解できなかった。
理解したくなかった、というべきか。
「……何を?」
問った声は、小さく、震えていた。
ここまで動揺を隠せないと言う事は初めてだと思う。
「……ここで言っていいのか? 知られたら、気まずくないか?」
朝霧先輩は私たち以外で話している4人の方をチラリと見た。
牧瀬ではなく、他の4人全員を見たのだ。
小さく言われた言葉で確信した。
……バレている。私の気持ちを、朝霧先輩は知っている。
やたらと勘のいい人だとは思ってたが、まさかこんなに簡単にばれるとは。
「……好きですよ。」
バレてるなら、否定するだけ無駄。
動揺を隠せないままだったけれど、はっきりと私は肯定した。
朝霧先輩の次の言葉は躊躇うことなく出された。
「やめとけ。」
スーッと血の気が顔から引いていく。
……私は、今。
もしかしなくても、とても、酷い事を、言われたのだろうか。
「……そうします。」
作り笑顔なんて嫌いだと思ってた。
無理に笑う事なんてしたくないと、笑いたいときだけに笑いたいとそう思っていた。
でも、とても酷い言葉を投げつけられて、私は笑っていた。
こんな酷い人を好きだと思った自分への嘲笑か。
悲しい顔なんてしてやるものかという意地のために生まれた強がりか。
なんだっていい。ただ、この顔を見て、朝霧先輩が後悔すればいい。
私の心に生まれたのはとても黒い感情で、決して大切だと思う人に向ける感情ではなかった。
好き、という気持ちは実に面倒な感情らしい。
「あお、たに……」
「二度と私に話しかけないでください。」
今までで一番驚いた顔をしていた朝霧先輩に、私は無理に作った笑顔のままそう言った。
「あれ? 実央? どこ行くのー?」
呼びとめる朱音の声を無視してまっすぐ歩く。
ただ、その場から一秒でも早く離れたくて。
でも、走って逃げたら傷ついてるとばれるような気がして。
どこに行けばいいなんて、全くわからないまま。
ただただまっすぐに歩いていた。