第28話
話し終えた朝霧先輩は俯いて言葉を続けた。
「叔母が俺を従弟と間違えたのはその一回きりだったけど、俺は自分をずっと責めた。叔母を苦しめるのならバスケをやめようとさえ思った。」
でも、朝霧先輩は今。バスケをしている。何故?
私の表情から疑問を読み取ったのか、朝霧先輩は言葉を続けた。
「言われたんだよ、従弟に。意識を取り戻して、バスケできねぇって知った時、あいつは涙一つ流さず
俺に『俺の分まで頼んだぞ。』って言ったんだ。叔母は…その横で笑顔でうなずいていた。」
「…………」
「叔母は俺に言ったんだ。『琢磨君は琢磨君だから、恭一の事を変に気遣ったりせずに、自由に生きてね』って。俺は…それが叔母の本当の気持ちなんだって思った。」
本当の気持ち…。
でも、彼らは…私の事を他の人と間違っていることにさえ気付いていない…。
「俺は恭一と重ねられるのが嫌でバスケから逃げようとした、でも…恭一も叔母さんも、もちろん叔父さんも皆そんな必要ないって、はっきり言われたわけじゃないけど…そう伝えてくれた気がした。」
「だから…なんなんですか。」
「お前は逃げたまんまか?気付かせたらいいじゃねぇか。自分は姉貴じゃないって。自分を押し隠したりするな。」
そんなこと、できるわけない。
今更…今更だ。彼らにとって、青谷実央という存在は…大した存在じゃない。
だから、どうでもいいんだ。
「青谷、お前の親だって、気付けば――」
「それは先輩が一人の人間として大切にされてたからでしょう!?」
怒鳴るつもりなんてなかったのに、気付けば感情があふれ出てた。
「あの人たちは何にも気付かない!!愛央、って間違って呼んだことも!私の声のトーンが変わったことも!私が笑わなくなった理由にも!私に興味がないから!!!」
「………」
「本当は期待してた!笑わなくなった時、どうかしたか?って言われるのを!声のトーンが変わった時、呼び方を替えた時、怪訝な顔をされることを!でも、皆何にも反応しなかった!」
「私」という存在が「私」じゃなくなっていることに、気付いてくれることを。
どこかで期待していた。
でも、期待すればするほど傷は深くなるだけだった。…誰も、気付かない。
久しぶりに怒鳴ったせいで乱れた呼吸を整え、頭を整理し、自分の心を落ち着けた。
…この人に怒鳴って私は何がしたい?この人に怒鳴ったって仕方ないじゃないか。
それにこの人は病人だ。間違っても怒鳴っていい相手じゃない。
「……ごめんなさい、取り乱しました。朝霧先輩、いい加減寝た方がいいですよ。」
「牧瀬。聞こえたか?」
……牧瀬?
今、朝霧先輩はそう言った…?
「ばっちり。どうぞ、入ってください。」
なんで牧瀬の声が…。
というか、誰に向かって話してるんだ…?
「…ここの家の主は俺だぞ。」
「はいはい、病人はもうお役御免だ。寝てくれば?」
「最後まで見届けるに決まってるだろ。」
2人のバカな言いあいは耳に入ってこなかった。
だって、入ってきたのは……。
「お兄ちゃん…お父さん…?」
どうして…今の話…聞かれてた…?
「ち、違う…今のは違うから…。」
動揺で声が震えてしまう。
「実央、ごめん。」
私の言葉をさえぎって話したのは玲衣だった。
「僕、考えもしなかった。実央がどうして僕をお兄ちゃん、って呼ぶようになったのか。声のトーンが変わったことにも気づいてはいたけど、どうしてだろうって理由を深く考えてなかった。」
玲衣の目はじっと私を見ている。
その目から感情を読み取ることはできず、私は気まずくて思わず目をそらした。
「ごめん、実央。ずっと傷つけてたね。どうして僕は気付かなかったんだろうね。愛央はもう俺の近くにいないって。傍で励ましてくれてるのは、大切な義妹だって。」
「……玲衣……。」
うわべの言葉じゃないのはその切実な響きですぐに伝わった。
「ごめんね、実央。僕はずっと実央に助けられてたのに、僕はずっと傷つけてた。ごめん。」
「いいから…。あのことで、誰よりも傷ついたのは玲衣だったから…。」
「でも、さっきの言葉が本当の気持ちでしょ?ずっと傷つけてごめんね。もう、大丈夫だから。愛央がここにいないってことの気持ちの整理ならずっとついてる。気付かなくてごめんね。」
「………。」
ギュッと手を握る玲衣を私は黙って見つめることしかできなかった。
謝ってくれた玲衣を、私は責める気にはならない。ただ…なんと言葉を返していいか、わからなかっただけで。穏やかな空気が流れた。
「実央……。」
呆然とした声が、その空気を破った。
「お父さん…。」
「お前は、気付いてたのか……。」
その言葉に私は俯いた。
気付いてた………父が、私と母を重ね合わせてることに。
私の母は私と外見がよく似ている。
ただ、唯一違うのは、母は愛央と同じように感情表現豊かな人だったのだ。
泣いたり、怒ったりもしたが、父の中で印象強かったのは母の笑顔。
私に嫌味を言う親族の中に
「お母さんはよく笑う人だったのに…。」
という言葉を私は何度も聞いた。
私は気になって昔のアルバムを見た。
写真に写っている母は確かに笑ってばかりいた。
そして、その時に気付いた。
父が時々切なそうな顔をする、それは私が笑った時だということに。
写真を撮るとき、笑ってーと言いながら悲しそうな顔をする父。
私がおいしいものを食べたときに、おいしいか?と聞きながら泣きそうな顔をする父。
全部…私が笑っている時だ。私は割とすぐにその事実に気付いた。
けれど、幼い私は自分が笑うことを完全に封じることはできなかった。
ふとした瞬間に父の前で笑ってしまう。
そんなある日、私が…玲衣にお父さんの不倫はあり得ないと断言した、その理由となる出来事が起こった。その日は私の9回目の誕生日だった。
甘いものが大好きな私はケーキを口いっぱいに頬張って、幸せそうに笑っていた。
その日の夜。
のどが渇いた私は夜遅くにキッチンに向かった。
そこには缶ビール片手に俯いている父がいた。
「お父さん…?」
いつもの父とは違うということを感じ取りながらも私は父に話しかけた。
お父さん、そう言って呼びかけた。でも……
「華央…。」
父の口から発せられたのは母の名前だった。
自分は実央だ、そう言おうと思って…やめた。
今だけ。
父が母と再会を果たせればいい。
そう思ったから。
「華央…相変わらず、美味しそうにケーキ食うよな。あんな甘いもん食って何がうまいんだか…。」
美味しそうにケーキを食べてたのは私だよ、お父さん。
「華央…好きだ。大好きだ。」
「……私もだよ。」
父として、一人の人間として、お父さんの事、大好きだよ。
お母さんがあなたに向けた「好き」とは違うけど。
私も家族として、お父さんが好きだよ。
「華央…華央…今いるのは幽霊か?」
「そうだね。」
酔ってる…父は酔ってる。
幽霊だったら、触れる訳ない。
「華央、どうして死んだんだよ…どうして、実央を産んだんだよ…。俺は、お前がいてくれればよかったのに…。」
心を引き裂く言葉だった。
知っていた。
母が私を産まなければ助かっていたことは、知っていた。
でも…父から直接聞きたくない言葉だった。
「なぁ、いつもみたいに嬉しそうに笑ってくれよ、華央。」
その時が父の前で笑う最後の笑顔だった。
父は私の笑顔を見て、初めて幸せそうに笑った。
それから、父の前では笑顔を封印した。
写真に写るときももちろん笑わない。
楽しいことがあっても笑わない。
次第に…何が楽しいのか、わからなくなっていった。
唯一、バスケだけ。
父には絶対試合や練習を見に来ないように頼んだバスケの時だけは私は素直に笑っていた。
「すまない…すまない実央。」
「……別に。私のせいで、お母さんが死んだのは確かだし…。」
「…!?じゃあ、あの時のは夢じゃなくて……」
あの日の朝、父は普通に私に笑いかけてきた。
あぁ、覚えてないんだな…でも、あれが本音なんだな…そうぼんやり思っていた。
「違うんだ、実央。確かに、あの時華央がいてくれればと何度も思った。でも、実央は華央が命をかけて産んだ大切な娘で――」
「いいの。私が、殺した。どっちのお母さんも、私が殺した。」
お義母さんは、愛央がいなくなってからあまり体調がすぐれなかった。
家に引きこもりがちになっていた。
どうにかして、気分を替えてほしかった。
愛央を追い出してしまった罪悪感からかもしれない。
私は雪の降る日に義母を外に連れ出した。
「まぁ、綺麗!冬は空気が澄んでる気がするわね!」
たまに年下なんじゃないかと思うお義母さんは久々に無邪気に笑って見せた。
「何か温かい飲み物でも買ってきますよ。」
「あ、じゃあこれお小遣い。ホットレモネードお願いね!」
「はい。」
それがお義母さんとかわした最後の言葉。
少し離れた自動販売機に言って、帰ってくるわずかの間。
お義母さんは雪で凍った道路にスリップした車とぶつかって…即死だった。
「知ってる…わかってる…私が悪いってわかってる…。」
呻くように言った言葉は、あきらかに私の逃げで、朝霧先輩がそれを止めた。
「好きな人責めるより、嫌いな自分を責める方が楽…また逃げるのか。」
ポツリと呟いた言葉が胸に突き刺さった。
「…ねぇ、実央。」
朝霧先輩の言葉を聞いて、牧瀬が思い立ったように口を開いた。
「実央が、自分が嫌いで、自分を責めてれば満足かもしれない。でも、実央の事を好きな人は?実央を大切だと思ってる人は、実央が実央自身を責めてるのを見て、苦しむんじゃないかな。」
私の事を好きな人…?私を大切だと思う人…?
玲衣と父からついさっき聞いた言葉が蘇る。
『傍で励ましてくれてるのは、大切な義妹だって。』
『でも、実央は華央が命をかけて産んだ大切な娘で――』
私は……自分を責めることで、2人を傷つけてる…?
でも…でも…
私の頭の中はもはやグチャグチャで整理できない状態だった。
「母さんの葬式の時。僕は愛央と少し話をした。」
玲衣が黙り込んでしまった私に諭すように話しかけた。
「僕は…自分のせいだと思ったんだ。僕が愛央のことを傷つけてしまったから、愛央は家を出て言って、結果母さんも死ぬ羽目になった。僕はそれを愛央に言った。そしたら愛央はゆっくり首を横に振って言ったんだ。『私が家を出て行ったのは私の意志。誰のせいでもない。』って。」
「誰のせいでもない…。」
それは私の中にはなかった発想だった。
「母さんは死んだのを実央のせいだとは絶対に思ってない。実央が…苦しんでることを、苦しんでると思う。」
「玲衣………。」
私のせいじゃない…?
私のせいにすると、お義母さんは苦しむ…?
「実央。」
小さいころからずっと聞いてるはずなのに、なぜか懐かしく感じる声に私は振り返った。
「言い訳に聞こえるかもしれないが…聞いてほしい。」
父の切実な表情に私は小さくうなずいた。
「あの頃、お前を見るのは華央を見てるようで本当に辛かった。お前の事を大切な娘だと思う反面、どうして華央が死ななければならなかったのだろうと思っていた。」
一度聞いた言葉だったけど…
それでも、父の言葉は私の心を切り裂く。
「あの夜…お前の美味しそうにケーキを食べる姿があまりにも華央に似ていて…自棄酒せずにはいられなかった。ふと気が付いたら、華央が隣にいて…夢だと思った。」
父は自嘲するような笑みを浮かべた。
「今思えば、夢が言葉を返してくれて、手を握って、笑ってくれるなんて…それをはっきり覚えてるなんて、そんな訳ないのにな。」
私は何も言えずに父からそっと視線を外した。
「でもな、その夢から覚めた後、華央の写真を見たら、華央が笑っているのに泣いているように見えたんだ。その時、華央の最後の言葉を思い出したんだ。」
『愛央と実央を…私達の大切な子ども達を、絶対大切にしてね。』
優しかったと聞く…母らしい言葉。
「それで、実央の笑顔を辛く思っていた自分がバカに思えてきて…。ちゃんと、お前と向き合おうと思っていた。でも、次の日から…お前は全く笑わなくなっていた。」
幼かった私は、父の変化に気付いていなかった。
私と向き合おうとした父の変化に気付けなかった。
幼いだけでなく、その時私は感情を凍らせようとしていたから。
本当に変化に気付かなかったのは父でも兄でもなく…私だった。
「ごめん…本当にごめん、実央。どうして、お前が傷ついてる事実に気付いてやれなかったんだろうな…。」
父親の謝る姿に目がしらが熱くなってくる。
こんな感情、いつ振りだろう。
「愛央は、葬式の時、自分じゃ実央を救えないって言ってた。実央は許してほしい人にその言葉をもらってないって。その時、どういう意味かわからなかったけど…今やっとわかったよ。ごめん、実央。誰のせいでもないから。」
「玲衣……。」
「華央が死んだのも、お義母さんが死んだのも、お前のせいじゃないよ、実央。」
「お父さん…。」
ずっと言ってほしかった。
私が傷つけてしまったこの2人に。
私のせいじゃないよって。
それは他の誰でもなく、傷つけてしまった彼ら自身じゃないといけなかったのだ。
嬉しいのか、ホッとしたのか、自分でもよくわからない感情は、久しぶりに流す一粒の滴となって頬を流れ落ちた。