「あなたに水をやる義理などございませんわ」~種まきの月に追放された枯れ聖女、隣国で豊穣の女神と呼ばれるまでの話~
「役立たずの『枯れ聖女』など、この神殿にはいらん。婚約も破棄する」
豊穣を司る大神殿の中央。
王太子ラウルの声が、大理石の柱に反響した。
集まった貴族たちのざわめき。向けられる侮蔑の視線。
その中心に立たされているのが、私──セレスティア・エルデフィオール。
(……はあ。とうとう来ましたわね、この日が)
私は内心でため息をついた。
表向きは、静かに一礼したまま。
「花ひとつ咲かせられぬ聖女など、聞いたことがない。ミレーユを見ろ。彼女こそ真の豊穣聖女だ」
ラウルが手を差し伸べた先。
栗色の巻き毛の少女が、可憐に微笑みながら手をかざす。
「ふふ、ご覧になって。こんなに綺麗な花が、一瞬で咲きますのよ」
ぱっ、と。
祭壇に、色鮮やかな花々が一瞬で咲き乱れた。
「おお……!」
「なんと華やかな……!」
貴族たちが沸き立つ。
(そうですわね。とても綺麗。……三日で枯れて、実ひとつ結ばない徒花ですけれど)
私は淡々とその花を眺めた。
土から養分を根こそぎ奪うだけの、見せかけの奇跡。
あの子は悪くない。悪いのは、それを『価値』と信じ込む、目の曇った男のほうだ。
「セレスティア。何か言うことは?」
ラウルが勝ち誇ったように見下ろしてくる。
私は顔を上げ、琥珀色の瞳で真っ直ぐに彼を見た。
「かしこまりました。追放、謹んでお受けいたしますわ」
「……なに? 泣いて縋りもせぬのか」
喚くとでも思ったのだろう。ラウルが拍子抜けした顔をする。
私はドレスの裾を軽くつまみ、優雅に礼をした。
(この国、来年の収穫は壊滅ですわね)
十年。
私が『種まきの月の巡り』という神事にこっそり組み込んできた輪作、堆肥、品種改良。
この国の農業を、誰にも気づかれず陰で支えてきた十年間。
そのすべてを、今この瞬間に手放す。
少しの未練もなかった。
「ああ、そうそう」
去り際、私は足を止めて振り返った。
「あなた方が奪った私の畑の種、あれは私にしか芽吹かせられませんの」
「……どういう意味だ?」
きょとんとするラウル。
私は、この上なく穏やかに微笑んだ。
「──それでは、良い収穫を」
扉が閉まる音を背に、私は神殿を後にした。
もう二度と、あの祭壇に戻ることはない。
──ちなみに私、前世では現代日本で農学部を出て、農業試験場に勤めておりました。
そのまま過労で命を落としましたけれど。
おかげで土のことなら、この世界の誰よりも詳しいのですわ。
◆
追放された私が向かった先は、隣国リンド。
それも、誰もが避ける『二十年不毛の呪われた土地』だった。
国境近くの、荒れ果てた辺境。
乾いた大地に、ひび割れた地面。
風が吹くたび、白い砂埃が舞う。
(塩害と、土壌の酸性化。それに水はけの悪さ。呪いでもなんでもありませんわ)
私は膝をつき、土を一握りすくった。
指の間からさらさらと零れ落ちる、生気のない土。
前世で農業試験場に勤めていた私には、一目でわかる。
これは、直せる。
時間さえかければ、必ず。
「──何をしている」
背後から、低く鋭い声がした。
振り返ると、長身の男が立っていた。
氷のように冷たい蒼氷の瞳。首筋には、銀の鱗の紋様がわずかに覗いている。
竜人の血を引く辺境伯──『氷の将軍』ガーヴィス・リンドバルド。
冷酷無比と噂される男。
「この土地に、何の用だ。物取りなら容赦はしない」
「まさか」
私は立ち上がり、土のついた手を払った。
「取引に参りましたの。この土地、三年で豊穣の地に変えてご覧に入れます」
ガーヴィスの眉が、わずかに動いた。
「……戯言を。二十年、誰も何も育てられなかった土地だ」
「ええ。ですから、誰にもできなかったことをするのです」
私は真っ直ぐに彼を見据えた。
「その代わり──私に、ただ静かに土をいじる日々をくださいませ」
(もう祭壇はうんざり。派手な儀式も、崇める視線も。私はただ、良い土と、育つ作物が見たいだけ)
ガーヴィスは長い間、黙って私を見ていた。
やがて、低く呟く。
「……できなければ、どうする」
「そのときは、私を笑い者にでもなさってくださいまし」
迷いのない私の返答に、彼は初めて、探るような目をした。
「……妙な女だ。だが、その目は嘘をついていない」
冷酷と噂される瞳の奥に──民を憂う、深い翳りがあることに、私はまだ気づいていなかった。
◆
翌日から、私の地道な作業が始まった。
まずは土壌診断。
酸性に傾いた土には石灰を。痩せた土には緑肥となるマメ科の植物を。
段階的な休耕。共生植物の配置。そして──聖女の力。
「土壌再生と、豊穣の恒久化」
花を一瞬で咲かせる派手な奇跡はできない。
けれど私は、荒れた大地を根源から蘇らせることができる。
前世の農学知識と、この力を融合させれば──不可能はない。
「あんた、本当に毎日土ばかりいじってるねえ。みんな逃げ出したこの土地に、わざわざ来る物好きがいるとはねえ」
声をかけてきたのは、この地に残った数少ない古老、ノーラだった。
日焼けした皺深い顔に、優しい笑み。
「物好き、で結構ですわ」
私は麦の種を蒔きながら微笑んだ。
「ノーラさん。半年後、ここで採れた麦でパンを焼きましょう」
「はは、そりゃあ楽しみだ。……本当に採れたらの話だけどね」
そのとき。
畑の隅に立つ、枯れかけた一本の老木が目に入った。
葉を落とし、幹もひび割れ、もう何年も枯れているように見える。
でも──根は、まだ生きている。
私はそっと幹に手を当てた。
「大丈夫。まだ、間に合いますわ」
力を注ぐ。
地中深くの根に、水と養分の巡りを取り戻す。
ゆっくりと。優しく。
すると。
ぴきり、と枯れた枝から、小さな緑の芽が吹き出した。
ひとつ、ふたつ、みっつ──
「な……枯れ木に、芽が……」
息を呑む声。
見れば、いつの間にかガーヴィスが立ち尽くしていた。
蒼氷の瞳を大きく見開いて、芽吹く老木を見つめている。
彼はしばらく動かなかった。
そして──ゆっくりと、深く、頭を下げた。
「……すまない。俺は、あんたを噂で判断していた。役立たずの追放聖女だと。……許してくれ」
武骨な、しかし真っ直ぐな声。
辺境伯が、名もなき追放者に頭を下げる。
(この人、噂とはずいぶん違いますのね)
「頭をお上げくださいませ、辺境伯様。私はただ、土を診ただけですわ」
その誠実さに、私は少しだけ、胸が温かくなった。
照れているのか、彼の首筋の鱗が、わずかに色づいていた。
◆──一年後
一年が過ぎた。
かつて『二十年不毛の呪われた土地』と呼ばれた辺境は──
見渡す限りの、黄金の麦畑に変わっていた。
風が吹くたび、麦の穂が波打つ。
豊かに実った黄金の海。
「女神様! 今年も大豊作だよ! セレスティア様のおかげだ!」
去っていった民が、次々と戻ってくる。
新しい家が建ち、市が立ち、子供たちの笑い声が響く。
人々はいつしか、私をこう呼ぶようになった。
『豊穣の女神』と。
(……女神、ですか。前世じゃ、過労死した試験場職員でしたのに)
私は苦笑しながら、麦の穂をそっと撫でた。
報われる、というのは、こういう気持ちなのですね。
「セレスティア様や。これ、初物の麦で焼いたパンだよ。約束、守ってくれたねえ。……ありがとう。本当に、ありがとう」
ノーラが、湯気の立つ素朴なパンを差し出した。
皺だらけの手が、私の手を握る。
じんわりと、温かいものが胸に広がった。
家族を早くに亡くした私にとって──
この温もりは、ずっと忘れていた『居場所』の味だった。
「……こちらこそ、ですわ。ノーラさん」
そのとき。
畑の端で、大きな背中が震えているのに気づいた。
ガーヴィスだ。
黄金の麦畑を前に、彼はこっそりと──涙を拭っていた。
「……ガーヴィス様? どうかなさいまして?」
「な、なんでもない」
慌てて顔を背ける『氷の将軍』。
「涙を拭っていらっしゃいますわ」
「……ただ。民が、飢えずに冬を越せる。もう、誰も去らずに済む。それが……」
言葉に詰まる。
冷酷無比と恐れられた男が、麦畑を前に、子供のように泣いている。
民のために泣ける人。
そのぶっきらぼうな優しさに、私の凍りついていた心が、また少し、ほどけていった。
「良いお顔ですわ、ガーヴィス様」
「……からかうな」
首筋の鱗が、真っ赤に色づいていた。
◇──一方、その頃。エルデン王国。
「なぜだ! 豊穣聖女がいるのに、なぜ実らない!?」
王太子ラウルの怒声が、玉座の間に響いた。
報告書を握りつぶす手が、震えている。
国中の畑が、枯れていた。
「ラウル様……私、精一杯咲かせておりますわ。でも、どうして三日で枯れてしまうのか……」
ミレーユの声も、怯えを帯びている。
だが──彼女の咲かせる花は、三日で枯れ、実を結ばず、土から養分を吸い尽くすだけ。
形骸化した『種まきの月の巡り』。
輪作は行われず、堆肥の知識は失われ、痩せ細った土地が連鎖するように凶作を生んだ。
備蓄は底をつき、民は飢えた。
「そんなことは分かっている! 家臣ども、備蓄はどうなっている!」
だが、彼はまだ理解していなかった。
いや、認めたくなかった。
自分が追放した『枯れ聖女』こそが──
この国の豊穣を、十年間ずっと支えていた、ただ一人の存在だったことを。
「殿下。神殿の書庫から、これが……。セレスティア様が残された『農事記録』にございます」
青ざめた老臣が、一冊の古びた帳簿を差し出した。
ラウルが乱暴にページをめくる。
そこには、十年分の記録が緻密に綴られていた。
どの畑に、どの作物を、どの順で植えたか。
土壌の状態、堆肥の配合、収穫量の推移──
「これは……十年分の、記録だと……? 数字が、すべて……」
ラウルの顔から、血の気が引いていく。
数字は、嘘をつかない。
この国を実らせていたのは、派手な花などではなかった。
地味な作業着で、誰にも褒められず、黙々と土をいじり続けた──あの女だった。
「この国を実らせていたのは、派手な花などではなかった……あの女だったのか……セレスティアを連れ戻せ!」
遅すぎる叫びが、飢えた王国に虚しく響いた。
◆
「戻ってきてくれ! お前がいないと国が滅ぶ!」
リンドの辺境。
黄金の麦畑を背にした私の前に、みすぼらしい姿の男が跪いていた。
かつて私を公衆の面前で追放した、王太子ラウル。
華やかだった金髪は乱れ、碧眼には涙が滲んでいる。
「頼む! 昔のよしみだ! この通りだ!」
(昔のよしみ、ですって)
私は静かに彼を見下ろした。
感情は、揺れなかった。
もう、この男に向ける熱など、とうに枯れ果てていた。
「ラウル殿下。ひとつ、お尋ねしても?」
「な、なんだ。なんでも答える」
「あなたは私を、なんと呼んで追放なさいましたか?」
ラウルの顔が強張る。
「そ、それは……」
「『役立たずの枯れ聖女』。たしか、そう仰いましたわね」
淡々と。
怒鳴りもせず、責めもせず。
ただ静かに、事実だけを置いていく。
「花を咲かせられない。派手な奇跡を起こせない。だから無能だと。──では、その無能が去った国は、今どうなっておりまして?」
「……っ。それは……」
言葉を失うラウル。
私は懐から、一冊の帳簿を取り出した。
私が十年書き溜めた、もう一冊の『農事記録』。
「土壌の再生には、最低でも三年かかります。輪作の周期を戻すのに、さらに数年。あなたが壊したものは、そう簡単には元に戻りませんわ」
数字が、すべてを語っていた。
誰の力で、あの国が実っていたのかを。
「だ、だが、お前の力があれば……頼む、戻ってきてくれ!」
私は帳簿を閉じ、彼を真っ直ぐに見た。
「あなたに水をやる義理などございませんわ」
凛と、冷たく。
「セレスティア……!」
「枯れた花に注ぐ水はございません。──次はご自分で耕してみては? 土は、正直ですのよ」
膝をついたまま、ラウルは何も言えなかった。
派手な奇跡を『価値』と信じ、地道な努力を踏みにじった男の末路。
「お引き取りを。ここは、リンドの土地。あなたの居場所は、ありませんわ」
私は踵を返した。
背後で崩れ落ちる男を、二度と振り返ることはなかった。
◆
ラウルが去った後。
リンド王国は、私を正式に国賓待遇で迎えた。
かつての不毛の辺境は、豊穣の地として名を馳せ、各地から人と物が集まる交易の中心地となった。
民は豊かになり、子供たちは腹を空かせることなく眠れるようになった。
夕暮れ。
黄金に染まる麦畑を、私は一人歩いていた。
「……セレスティア。少し、いいか」
呼び止める声。
振り返ると、ガーヴィスが立っていた。
いつになく、緊張した面持ちで。
「ええ」
彼は口下手だ。
言葉を選ぶのに、いつも時間がかかる。
しばらく黙った後、彼は麦の穂に目を落とした。
「この土地は、死んでいた。二十年、何も育たなかった。……俺も、諦めかけていた」
風が、麦の海を渡っていく。
「だが、あんたが来て、種を蒔いた。荒れた土に、緑が戻った。民が笑うようになった」
ガーヴィスの首筋の鱗が、じわりと色づく。
「……ガーヴィス様」
「……それだけじゃない」
彼は、まっすぐに私を見た。
蒼氷の瞳に、夕日が映って揺れている。
「あんたが蒔いた種は、俺の土地も、俺の心も実らせた」
不器用に。
でも、真心を込めて。
「……傍にいてくれないか」
飾らない、朴訥な求婚。
派手な花束も、美辞麗句もない。
けれど、これほど誠実な言葉を、私は知らなかった。
(ああ。……この人となら)
凍りついていた心の、最後のひとかけらが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
私は、そっと微笑んだ。
「では、来年の種まきの月まで──」
「……まで?」
「じっくり考えさせていただきますわ」
ガーヴィスが、ぽかんとする。
そして、私が悪戯っぽく笑っているのに気づき──
みるみる首筋の鱗を真っ赤に染めた。
「か、からかっているのか……!」
「ふふ。土いじりと同じですわ。良い実りには、じっくり時間をかけるものですのよ」
黄金の麦畑に、二人の笑い声が溶けていった。
◇
それは、秋の終わりのことだった。
収穫を終えた辺境の館に、一人の来訪者があった。
みすぼらしい旅装。
やつれた頬。
かつての愛らしさに、深い翳りを落とした少女。
「……セレスティア、様」
栗色の巻き毛の、その少女は──ミレーユ・ラフォンテーヌ。
エルデン王国で『豊穣聖女』ともてはやされた、あの少女だった。
「あなた……よくもまあ、この地に顔を出せたもんだねえ」
ノーラが警戒するように前へ出ようとするのを、私は手で制した。
「ノーラさん、お待ちを。……ミレーユさん。何をしにいらしたの?」
ミレーユは震える手で、胸元の花束を差し出した。
それは──三日で枯れる、萎れた花束だった。
彼女が咲かせられる、唯一の花。
「私……私、何も知らなかったんです。私の力が、土から養分を奪うだけの、実を結ばない徒花だったなんて」
涙が、頬を伝う。
「ラウル様は、それを知っていて……私を、都合よく担ぎ上げただけだった」
震える声。
後悔と、怯えと、幼い罪の告白。
「あなたを追放に追い込んだのは、私です。……謝って許されることじゃないのは、分かっています。でも──」
ミレーユは、萎れた花束を握りしめた。
「私、知りたいんです。本当の実りって、何なのか。……教えてください」
私は、しばらく彼女を見つめた。
(この子もまた、被害者だった。すべての種には、芽吹く力が眠っている)
真実を知らされず、派手な奇跡だけを求められ、そして使い捨てられた。
三日で枯れる徒花。
だが、正しい土と、正しい知識があれば──
その花にも、いつか実がなるかもしれない。
たとえ、今は枯れて見えたとしても。
「ミレーユさん」
私は、そっと微笑んだ。
「土は、正直ですのよ。──手を、汚す覚悟はおありかしら?」
少女の菫色の瞳が、大きく見開かれる。
「……はい。この萎れた花に、いつか実がなるのなら。私、何だってします」
涙を拭って、こくりと頷いた。
「よろしい。では、まずはその萎れた花束を、土に還すところから始めましょう。──新しい種を蒔く時間ですわ」
枯れた聖女が、豊穣の女神になったように。
次は、この徒花が、実を結ぶ番かもしれない。
新しい種が、今、蒔かれようとしていた。
──それは、救済と再生の、始まりの物語。




