勇者の終活
その日は、昼にも関わらず、曇天に覆われた空であった。
エイジア王国。
大陸の東端に位置し、大陸東部における大国であるその国の王都・セイト。
その中心に存在する大広場にて、1人の男の処刑が、執り行われようとしていた。
大広場の中央に建てられた処刑台は、国を揺るがす大罪を犯した者のみ許される程の規模。
そこで今まさに行われようとしている事を、次々と大広場に集まってくる群衆達が、今か今かと待ち侘びていた。
その場の目的は、ただひとつ。
この国の勇者である、とある青年の、処刑であった。
既に、処刑台の上に乗せられた青年。
彼は、所々血が滲む薄汚れた粗末な衣を身にまとい、首輪と四肢を拘束する頑丈な鎖によって、その場に跪かせられていた。
俯いた顔に、伸び放題の汚れた髪と髭、土と擦り傷で汚れた肌。
まるで貧民街の鼠のようなその風貌に、彼を遠くに見る群衆の視線は、敵意と嘲りに満ちていた。
「——以上を以て、”元”勇者であるこの罪人から、我が国の至宝である聖剣を没収。 また、犯した罪を鑑み、この場での公開処刑とする——」
そんな、見るに堪えない姿となった”元”勇者に対し。
今まで長々と口上を語っていた身なりの良い貴族の男が宣言する。
一拍遅れて、処刑人として側に控えていた者が、拘束された青年の首に縄をかけるべく、近付いていく。
いよいよであった。
国と民を裏切り、私腹を肥やし、あの優しく美しい王家の末姫を手籠めにしようとした、許されざる平民が処刑される。
その事実に、集まった群衆の騒めきと興奮は、最高潮に達しつつあった。
——その時であった。
「——どもが」
不意に。
処刑台の上から、よく通る声が響いた。
「この、恥知らずどもが——」
その声が、どこから発されているのか。
その声に聞き覚えのある民衆は、先程までの騒々しさが嘘のように静まり返った。
一方、処刑台から離れた場所に設営された、王族用の観覧席。
そこで処刑を観覧していた王と、それに付き従う家臣の何人かが、忌々しそうな顔をしていた。
その中の内の1人、王のすぐ側に控えていた男が、合図を処刑人に向かって飛ばす。
その合図——『その男にこれ以上、余計な事を言わせるな』という指示。
それを見た処刑人が、慌てたように、とりあえず青年を黙らせようと。
暴れる罪人を叩く時に使う棒を持ち、青年に向かって振りかぶろうとした。
その時。
「——この、恥知らずの、大馬鹿どもがっ!!」
そう、青年が天を仰ぐように体を仰け反らせ叫んだ瞬間。
魔力を伴った凄まじい衝撃波が、青年を中心に発生した。
それをもろにくらった処刑人は、持っていた棒ごと、勢いよく後方へ吹き飛ばされた。
その余波は、下にいた群衆と、距離が開いていたはずの観覧席にまで達し、少なくない数の悲鳴が上がった。
多くの者が首と背を竦ませ、中には腰を抜かしてその場に座り込んだ者も出るような、強烈な咆哮。
魔力を魔封じの首輪によって封じられ、聖剣も取り上げられ、鎖で縛り上げられ。
3日間以上、水も食料も与えられず、意識どころか命を保っているのもやっとなはず状態で。
しかし元勇者である青年は、ただ叫ぶだけで。
大広場に満ちる大気を震わせていた。
「おれを、勇者として、選んだのは誰だ?」
混乱する群衆に構わず、処刑台の上で、青年は続ける。
「勇者として聖剣<カリバーン>を持たせ、それだけで魔物の群れと戦えと言ったのは誰だ? ただ一振りの剣とこの身一つだけで、魔物を束ねる魔王を倒せと言ったのは誰だ?」
吹き飛ばされた処刑人が何とか立ち上がろうとして。
しかし、すぐ目の前で拘束されているはずの青年の気迫に委縮し、近付く事ができない。
「その褒美として、領主として土地を下賜し、この国の姫を娶り、この国を導いていけと——そう言っていたのは誰だ?」
天を仰いでいた顔を勢いよく戻し、正面を見据えて、青年は問いただす。
その視線の先には、静まり返る民衆と——観覧席にいる、王族達がいた。
「都合が悪くなったか? それとも、惜しくなったか?
今までこの身を捧げてきた事を忘れ、渋々与え続けたものを、これ幸いとまとめて取り上げたのは誰だ?
おれに感謝を告げたその口で、おれの死を願うその口の持ち主は、一体誰だ?
——おれに、その身を生涯捧げると誓いながら! 今この場に、おれの隣にいない者は! 一体誰だッ!!」
その、青年が吐き出す、呪詛の様な言葉。
それに対し、ある者は、苦虫を嚙み潰した表情で舌を鳴らし。
ある者は、目を泳がせて、しかし自分は悪くない、と小さく呟き。
そしてある者は——その叫びに耐え切れず、隣にいた、母である王妃の陰に隠れた。
王都と、そこにある大広場の上空を覆う雲は、ますます厚くなっていく。
最早、夜が来たかのような暗さが襲う処刑場。
そこにいる人々は、誰も動けない。
今や、この場は。
元勇者の青年が発する呪詛によって、支配されていた。
「——殺してやる」
女神に愛され、女神が与える聖剣に認められた存在である勇者。
かつてそうであった青年は、そこで、そう言い放った。
ごう、と。
不意に大広場に吹いた突風が、青年の顔にかかっていた、脂と血で固まった前髪を除ける。
露になるのは、乾いた血と汚れに塗れた、まだ幼さの残る青年の顔。
その目には、憎悪の炎が、燃え盛っていた。
犬歯を剝き出しにした獰猛な表情で、青年は、向かいにある観覧席に座る面々を睨みつける。
自分を罠に嵌め、己の利益のために、自分の全てを奪おうとしている者達。
彼らに向かって、青年は吠えた。
「殺してやるぞ、この糞共が!
たとえこの身が朽ちようとも、必ず地獄から蘇ってお前達を殺す!
何年、何十年かかろうと! お前達と、その血に連なる者に至るまで殺し尽くし! 奪い尽くしてやるッ!!」
その余りの気迫と憎悪に当てられ、何人かがその場で気を失い、親に連れられて来ていた赤ん坊や子供が、たまらず泣き出す。
最早、心優しかった勇者の面影など遠い彼方へと消えていった、元勇者は。
己を縛る鎖を引き千切らんばかりに、身を天へと向けた。
「人を救うための、勇者としての力を! お前達を滅ぼすために使う事を! ——おれは、女神に、誓ってやるッ!!」
そう勇者が叫んだ、その次の瞬間。
彼に向かって。
目も眩むような、天からの光が、一瞬の後に降り注いだ。
その光は、暗い大広場を一瞬真っ白に染め上げた程に眩く。
高く、高く建てられていた処刑台を、真っ二つにしてしまう程の破壊力と轟音を伴い、元勇者のいたその場に落ちた。
それが、天から落ちてきた稲妻であると。
事を遅れて理解した人々は、しばらくあっけにとられた後。
——悲鳴と絶叫と共に、一斉にその場から逃げ出し始めた。
火がつき、断ち切られたかのように裂けた処刑台の残骸が、人々の頭上に降り注ぐ。
その後の人々の反応は、様々であった。
とにかく処刑台から離れようとする者。
押されて倒され、そのまま逃げ惑う群衆に踏み潰される者。
これは女神の怒りだと、その場で跪いて祈りを捧げる者。
従者や他の貴族を押しのけて、我が身一つで逃げようとする者。
そして。
——呆然として、しかし一筋の涙を流しながら、近衛騎士に安全な所にまで避難させられる者。
こうして、瞬く間に大混乱となった大広場に集まっていた人々は。
——つい先程まで、自分達が死を願っていた者の事など、忘れ去ってしまっていた。
この日、エイジア王国の勇者とその聖剣は、完全に失われた。
この騒動で犠牲になった王国民は100を超えると言われ、王によって、この処刑と一連の騒動を口外する事を禁ずる令が出されたが、大した効果はなかった。
むしろ、その場に居合わせた者は、揃ってこの事をこう口伝した。
『復讐心に囚われた勇者が、女神の怒りを買い、天罰が下されたのだ』と——。
牧歌的な風景、と。
そう表現すれば大体の人間が納得するであろう、その場所。
そよぐ風が青々とした下草を揺らし、上を見れば青空が広がる、その街道を——1台の馬車が進んでいた。
辺境の土地特有の、あまり整備が行き届いていない道を、がたごとと揺れながら走る1頭立ての幌馬車。
その中から、1人の男が、御者台へ移ってくる。
既に御者台に座り、手綱を握っていた中年の男が、その男に向かって話しかけた。
「——すみませんね、旦那。うちの坊主の面倒を見てもらって」
「構わんよ。儂も久々に、若いのに自分の武勇伝を聞かせてやれたものだ。気分が良いよ」
「そう言ってもらえると……有難いこって」
革袋に入った水を勧め、それを受け取った男。
御者席に座っていた中年の男——商人のトマは、革袋をあおる彼を、横目でちらりと見た。
年季の入った革鎧と、頭巾付きの外套。
使い古し擦り切れた長靴に、取り回しやすい長さの剣を腰に下げたその風貌。
まさに、ベテラン冒険者のそれである、その姿の男。
日に焼けて少ししわがれた肌と、時折少し掠れる声から見ると、もう60はかたく見える。
そう思いながらトマは、男から返された革袋を受け取った。
「旦那には世話になったってのに」
トマは首を振った。
「すみませんね。どうやらうちのロムは、そういう勇ましい話や危ない経験の話ばかり気になる齢みてぇで」
「男など、いくつになってもそんなものだろう」
申し訳なさそうな商人の声に、顔の皴を寄せて男が笑う。
「それにしても、トマ。お主の倅は随分と聞き上手だな。 相槌がどうにも心地よくて、まあ話し込んでしまったわい」
そう言って、トマと男は、後ろの幌馬車の中を覗く。
きらきらと輝く瞳で、先程まで熱心に話をせがんでいた男の子・ロムは、積まれた藁束の中でぐっすりと眠っていた。
それを幌の隙間から確認したトマは、ふぅと息を吐いた。
「そうため息を吐くものではないぞ。 聞き上手というものはな、えてして得をする機会に巡り合うものだ。お前の家業はしっかりと継げる子であろうよ、あれは」
まあ、俺の見た限りではな、と、そう締めくくる男。
「……そりゃ、どうも」
そう言われると、こそばゆく、どうにも気恥ずかしくなったトマは、そう返すので精一杯だった。
常々、『商人の癖に、仕入れも売りも故郷に残る家内の方がやった方が良い』と。
周囲の商人仲間からよく言われる程、口下手な男であるトマ。
そんな彼にとって、自分の考えを吐息一つで読み解き、話をするすると先に進めるこの男との会話は。
言葉を上手く選べないトマにとっては、居心地の悪いものではなかった。
5日前。
国境付近の港町に、積んできた地元の鍛冶金物を卸した後、保存食の乾物を買い付け積み込んでいた時。
トマの故郷への方向に出る馬車を探している客がいると、顔見知りの船乗りに紹介された、この男。
結局、今に至るまでトマは、その男の素性も、名前すらも知らないままだったが。
そんな事も気にならない程、穏やかで、機知に富んだ人柄の人物であった。
それに加え——港町を出てから初日の夜。
こんな辺境で出る事は珍しかった<魔猪>に、馬車を襲われた際。
慌てるトマと怯える息子の前で、するりと馬車から飛び出し——向かってくる<魔猪>を、腰に下げていた剣の一撃で切り伏せた、その男。
そんな頼もしい用心棒でもある彼に、今ではべったりと懐く、普段は内気な息子の事を思えば。
同行者の謎めいた経歴など、トマにとっては些末な問題であった。
そして——そんな男との道中も終わりに差し掛かっている事を、道の先に見えてきた分かれ道と古びた看板を見て、トマは知った。
「旦那、あれを。——もう少しで、オギの麓に着きますぜ」
「おう、そろそろか」
男は先を見据えて、呟くように言う。
トマは、少し迷ってから、男に向かって声をかけた。
「本当に、あすこで、良いんですかい。もうあそこの集落には、誰も住まなくなってだいぶ経ちます。 その先の、あっしらの町のスコウまで行けば、飯も宿もあるってのに」
「まあまあ。その親切にはちと心苦しいがな、トマ。——俺には、そこにこそ、用があるのだよ」
穏やかに、しかし視線は前から外さずに言葉を返す男に、トマは黙る。
そんなトマに、男は微笑んだ。
「有難いな、夕暮れまでには着けそうだ——そうだ、あの子には、お前さんから上手く言っておいてくれよ」
「そいつは、随分と、難しい……」
ここ5日間の息子の様子を見れば、いつの間にか消えているだろうこの男について。
今後ろで眠っている息子に対して、どう話をつけて宥めたものか。
早速頭を悩ませ始めたトマの顔を見て、呵々と男は笑い声を上げた。
オギ山という、山頂から中腹までが白く覆われる高い山の麓。
そこにかつてあったのが、オギ村の集落であった。
トマも、ここから山を1つ超えれば、故郷のスコウであるという事ぐらいしか知らない、小さな村の跡地。
今や、崩れて随分の時が経った建物の残骸と、背の低い草木で覆われた土地が残るのみのその場所を、3人の乗った馬車が行く。
恐らくは、昔小さな交易所があったのだろう。
村の中心部、辛うじてレンガの路が見えるそこに、トマは馬車を停めた。
「世話になったな。有り難うよ、商人さん」
着くなり、身を翻して馬車から降りたその男を、トマは心配そうに見つめていた。
「何、心配するな。場を整えたら、お主の町にも、いつかお邪魔させてもらうよ」
「ここらは、下の土地よりも早く冬が来ます。——どうかお早めに、旦那」
眠ったままの息子をちらりと覗いた後、トマは男に向かって軽く頭を下げた。
「……これでも、スコウでは長い事やらせてもらってまして、顔は効くもんで。何か入用でしたら、街区西にあるうちの店に。——坊主にも、家内にも、顔を見せてやってくだせぇ」
そう言われた男は、口端を上げて片手を挙げた。
もう一度、改めて頭を下げたトマは、手綱を打って馬車を進め始める。
そうして、しばらく経った後。
忘れるところであったと、慌ててトマが振り返り、後ろで見送ってくる男に向かって、声を張り上げた。
「——いけねえ、旦那、名前を聞いてねぇや!」
なんとまあ、これで20年商人をやっているとは。
余程、ばかみたいに誠実で、周りの人間がしっかりと支えているのだろうな、と。
男は苦笑して、手を振って答えた。
「——アルト! 昔この王国にいた勇者と同じ名の、アルトだ!」
『——許さぬぞ。』
勇者の処刑が、天からの稲妻によって滅茶苦茶にされた直後の王都。
そこの外れ、王都の城壁に空いた用水路。
運河へと抜ける水の流れの中から、1つの人影が、陸へと這い出していた。
見るだけで気分が沈むような曇天が続く中、その人影——元勇者である青年・アルトは。
呑み込んだ泥水を吐き捨て、そう小さく呟いた。
『許すものか、あの者どもを、決して許すものか』
半身を雷で焼かれ、だらりと下げた左腕と、最早まともに動かぬ左足。
元々薄汚れていた囚人服は、ぼろ切れの様相を呈すその姿は。
まるで、墓の下から這い出してきた、亡者の様な有様であった。
『必ず、ここに戻ってくるぞ。 力をつけ、人を集め、この王都に戻り、報いを受けさせてやる』
そして、その風体からは想像もつかぬ程。
強く、強く燃え盛る復讐の炎を、その身と瞳に宿し。
アルトは、辛うじて動く右手で這い、前に進む。
土と雑草に、血で汚れた爪を突き立て——王都から、遠ざかる方向へと。
『殺してやる——殺してやるぞ。 女神の寵愛など知った事か。おれを助けず、見捨てた女神の事など、知った事か……!』
ふと、アルトは主に左半身を襲う激痛に、その身を捩った。
痛みを何とか乗り越えて、しかしその場で四肢を投げ出し、ただ荒く息をしていると。
不意に、天から一滴の水が落ちてきた。
そのまま、瞬く間に強く降り始めた雨が、苦し気に開かれた青年の口に注がれる。
監禁され、拷問されていたアルトにとっては、数日ぶりのまともな水分であるそれを。
アルトは、忌々し気に、吐き捨てた。
これが、女神からの、今更な施しだとでも言うのならば。
そうしてやらねば、気が済まなかったからだった。
『殺してやる——殺し尽くして、奪い尽くして、この王国を! 犯し尽くしてやる! 必ず——必ずぅっ!!』
そんな呪詛を糧にして、生にしがみつく、かつての勇者の元に。
どこからともなく降ってきた剣——聖剣<カリバーン>が。
地を這う彼のすぐ目の前に、突き立った。
かつて、人々が暮らしていたであろう、生活の遺構。
その中を、アルト——かつて、この地にあった王国への復讐を誓った元勇者は、ゆっくりと歩いていた。
「(懐かしいものだ。 もう、20年も前の話になるのか)」
アルトが12の時。
聖剣<カリバーン>に選ばれた勇者として、故郷のオギ村から、エイジア王国王都へ出て。
4年間を戦い抜き、16の時に王国から処刑されかけて逃げおおせ、復讐を誓ったあの日。
そこから、実に、20年。
齢は36。
しかし、とてもそうは見えない程——すっかり老人のような風体となったアルトは、久々の故郷へと戻ってきていた。
「(あの後、山へと身を隠し、傷を癒しながら、何日もかけて歩いて隣国のキルリス公国へと落ち延びたのだったか。——我ながら、あの体で良くやったものよ)」
若さゆえの強行軍であったな、と。
倒木を跨ぎながら、辛うじて残る道の跡を辿るアルトは、そう思い返していた。
キルリス公国は、間に横たわる山脈の所為で、王国を始めとする東側諸国との交流が乏しい、当時のアルトにとって身を隠すにうってつけの国であった。
自らを裏切った、王国の者達に復讐する。
その一心で、アルトは、そこで10年の歳月をかけ、雌伏の時を過ごした。
何故か、まだその手にある聖剣を持つ元勇者といえど。
自分1人に、大国であるエイジアを相手にする力など無い事は、捕らえられ処刑されかけたアルト自身が、よく理解していた。
だから、アルトは——一国を相手に出来るだけの、力を蓄える事にした。
まずアルトは、自身をとかく鍛えた。
今まで魔物にしか向けてこなかった剣を、夜盗や奴隷商、ならず者達に向け、人との戦い方を学んだ。
そして——魔物と違い、卑怯な戦法や精緻な策謀でこちらを陥れようとしてくる人間相手に。
当時、何も知らない若者だったアルトは苦しめられ、騙され、何度も殺されかけた。
それでも、アルトは諦めなかった。
人を集め、金を集め。
自分のクランを立ち上げ、立ち向かうための力として——それを少しずつ時間をかけて、大きくした。
やった事がなかった組織の運営や資金繰りに振り回され、結局自分ではどうにもできず、能力を持つ周囲に請い、助けられて。
人を育て、自身と共に王国に立ち向かう者として教え、導き、彼らが一人前になれるように努力したが。
何人もの新人がクランに入っては抜けていき、アルトが満足のいく仕上がりとなる者は、わずかであった。
平坦な道など、一度もなかった。
厳しく、険しい道程。
そこをアルトは、みっともなく迷い、失敗し、死にかけては。
しかし、その度に、奮起した。
全ては、王国に復讐する——ただ一つの願いのために。
世間知らずの若造が経験するには、あまりにも重く、数多い苦難を重ねたアルト。
しかしその甲斐あって——アルトのクランは、キルリス公国の中でも指折りのクランとして知られるようになった。
自らが鍛え、作り上げた組織を以て、王国を攻撃する。
それが可能になる位には力をつけていた、当時26であったアルトは、歓喜に打ち震えていた。
そして、アルトは、今まで敵対してきた者達から学んでいた。
——少数で多数を討つ方法など、いくらでもある事を。
要人の寝所に忍び込み、殺したり、罠を仕掛けて陥れる方法。
民の不安や不満を煽り、愚かな王国民同士で争わせる方法。
国の重鎮の醜聞と、その証拠を掴み、脅迫したり、敵対する者に売り渡して潰し合わせる方法。
勇者時代には考えつかなかった事を、よく理解していたアルトは——それらが実行できるだけの立場と力、金も用意できていた。
ようやく、復讐の時は来た。
そう確信していたアルトの元に、ある急報が齎されたのは。
彼が王国から逃げてから、10年の月日が経った頃であった。
『エイジア王国、ボース帝国との大会戦に敗北。 王都占領、王を含む王族全員処刑。 王国滅亡す——』
一足先に王国へ潜り込ませていた密偵からの、その報せによって。
アルトの復讐は、誰一人に報いを受けさせる事無く。
何一つも成す事無く。
終わってしまった。
「(そこまでで、10年。 そこから、更に10年か。)」
村の跡地を抜け、山脈へと続く道をある程度進むと、アルトは振り返った。
眼下に、あの頃とは随分と様子の変わったオギ村が広がる。
12の時、両親と気の良い村の人々、親しかった友人を置いて行った時。
つんとする鼻の奥を感じつつ、しかし泣いてなるものかと、力一杯手を振り、必ず帰ってくると叫んだあの日。
それを、まるで昨日の出来事かの様に思い出せるのは、感傷的になっているからか。
それとも、今立っている場所が、まさにその時と同じ場所であったからか。
結局、その約束を果たすのに——24年もの月日を必要とする事など、その時の自分は思いもしなかっただろう。
歩を進めていると、だんだんと、目指す先が見えてくる。
村からそれなりに離れた山肌の、少し落ちくぼんだ場所。
そこを視界に収めたアルトは、立ち止まる。
頭巾の縁をつまみ、しっかりと見据えたそここそが。
その場所こそが、この旅の目的地である——アルトの生まれ育った家、その跡地であった。
「驚いたな」
山道を登り切り、ふうと息を吐いたアルトは、眼前に広がる光景に思わずそう溢した。
驚くべき事に。
かつてのアルトの生家は、24年経った今も、おおむねその形を保っていた。
大きな屋根の母屋は、流石に屋根の一部と外壁が崩れていたが、形は保っていた。
それどころか、母屋の横にある馬房付きの物置は、壁に数か所穴が開いているだけで、殆ど当時の姿を保っていた。
庭は荒れ放題で、くすんだ色に変わりつつある草木に覆われていたが——ほぼアルトの記憶通りの光景。
それを目の当たりにしたアルトは、思わずと言った様子で頭巾を下げる。
すっかり白くなった短髪と、皴の刻まれた顔が露になった。
アルトは、何かを言いかけて。
しかし、口を閉じ、黙って一歩を踏み出す。
『ただいま』と。
もう、それを伝えられる相手は居ないのだ。
それを言うには、あまりにも遅すぎた。
復讐の相手を失ってしまったアルトは、呆然自失の毎日を送っていた。
とはいえ、ただその場でへたり込んで、朝から晩までぼうっとしているような事は、当時のアルトには許されていなかった。
公国有数のクランマスターとして、運営担当のメンバーから仕事を任され、新人とベテランを率いて問題を解決し、帰れば決裁印を待つ書類を捌く。
10年の間、今まで同じような事を必死に続け、体が覚えてしまっていたアルトは。
何もしないまま燃え尽きてしまった状態でも、それを更に10年近くも、こなす事ができた。
当然、巨大な喪失感に襲われる事もあった。
結局、自分の仇を横取りされたと、帝国を恨む事もあった。
しかし、そうした所で——王国も、憎むべき”敵”も、もう存在しない。
むしろ、アルトはそれを忘れるかのように、仕事に打ち込んだ。
少なくとも、どうせ何かに溺れるのであれば。
酒でも、賭博でも、女でもなく——自分が全てをかけて育てた、このクランがいいと。
そういう、つまらない意地を張ったからであった。
そんな、アルトにとって無意味であった生活の終わりは。
かつて王国が帝国に滅ぼされた時と同じ様に、唐突に訪れた。
アルトが、とある都市国家からの指名依頼を受けた際。
強大な魔人と戦い、そして倒した時に——死の呪いを、かけられたのである。
一通り、敷地内を見て回ったアルトは、物置小屋の中に背負ってきた荷物を降ろしていた。
壁や屋根が崩れた母屋の中は、流石に荒れ果てて住めたものではなかった。
一方、物置小屋は、少し床材が腐っている所がある位で、外装はほぼ無傷であった。
中に放置されていた木箱や壊れた農具を外へ出せば、まずまずの広さと快適さになる。
これで、アルトは、もう野宿の心配をする必要は無くなった。
扉と雨戸を開けて埃を追い出し、そこに持参した<白銀豹>の毛皮を引いてやれば、立派な寝床の完成だった。
山からの清流をそのまま引き込んだ井戸はまだ生きていたし、周囲には廃材もあって修理にも困りそうにない。
生家である程度過ごしたら下山し、アルトは近くの街に宿をとるつもりだったが。
「(ここなら、しばらく住んでも良いかもしれんな)」
路銀はあるが、節約するに越した事はない。
ふと、開けていた雨戸から、光が差す。
そこから見えるのは、傾き、夕日になりかけている太陽。
それを眺めていたアルトは、少し考えた後——荷物を置いて、外へと出る。
その足は、家の下に広がる、草原を目指していた。
豊かな水の都を擁する事で有名な都市国家。
そこで夜な夜な発生する婦女誘拐事件を解決するべく、特別指名依頼を受けたアルトは。
——かの都の地下で復活しようとしていた、古代の魔人と対峙した。
体は衰え始めていたが、それを補う技量と、手塩にかけて育てたクランの精鋭との連携で、強大な魔人相手と渡り合い。
聖剣の一撃を喰らい、地に倒れ伏した魔人の心臓に、とどめの刃を突き立てたアルト。
そんな彼に、魔人は——自身の最後の力を以て、死の呪いをかけた。
相当な魔力が込められ、練り上げられたそれは、常人であれば即死するような強力なものだった。
しかし、元々、聖剣と女神の加護により、呪いや毒に耐性があった事。
共に事に当たっていたクランメンバーの中に呪術に詳しい者がおり、応急手当が間に合った事。
呪いに倒れたアルトを、依頼者である都の権力者が介抱し、一晩の峠を越えさせた事。
これらの不幸中の幸いが重なり、確実に命を奪う事を目的としたこの呪いは、ある程度軽減される事となる。
そう——アルトの、残り1年分の寿命。
それ以外の、全てと引き換えに。
それを、メンバーの1人と、依頼者が手配した医者から伝えられた時。
アルトの胸中にふと訪れたのは、かつて、自分が生まれ育った村の風景と。
およそ、30年以上感じた事のなかった。
——”安堵”の、感情だった。
オギ村に着いた時には高かった太陽も、もう随分と傾いてきた中。
すっかり老人の背姿となった男が、かつて麦畑であった草原を歩いていた。
人の手が入らなくなり、すっかり背の高くなった野生の草が。
まるで、なめらかな生地の様に、風に揺れる。
使い古した長靴で荒い道を踏みしめて、アルトは、告げられた時の事を思い出していた。
「(——ああ、ようやく、終わるのか)」
自身の寿命が、あと1年足らずである事を告げられた時。
アルトは、まず、そう思った。
長い、とても永い人生だった。
裏切られ、復讐を誓い、それを成せなかった己の人生。
どうしようもないそれに、ようやく終着点が打たれる事に。
アルトは、心の底から、安堵したのだ。
「(思えば、何も成せぬ人生であったなあ)」
アルトは、自身以外誰もいない土地で、そう思いを巡らせる。
幼い頃に誓った、この王国を守るという使命も果たせず。
王国の人々から裏切られた時に誓った、この王国を滅ぼすという願いも果たせなかった。
今もアルトの腰帯に佇む聖剣は、今も彼自身が勇者である事を示していたが。
アルトには、それ自体が。
自身の運命に対する、とんでもない皮肉の様に感じていた。
一体、剣を遣わした女神は。
自分に、何を望んでいたのだろう。
そんな、無駄に20年近く、ずるずると続けた人生の終わりが、ようやく見えたのだ。
アルトが。
何も残せなかった、何のために生まれてきたのかも分からなかった男が。
ほっと一息を吐くのも、無理からぬ事であった。
草原の半ばまで進むアルトの前に、”それ”は現れた。
元々、2本の木であり、絡み合い、1本のようになった大木。
そこだけを避けるように麦畑跡や道が作られた、存在感を放つそれ。
かつて、この村を襲った冬の魔人を討ち取ったとされる、1人の青年と、1匹のはぐれ狼。
相打ちとなり、力尽きた青年に寄り添ったはぐれ狼が、一晩にして青年の亡骸を包む大樹となったと言われている、その場所。
幼き頃から、ここで遊び、村の仕事を手伝い、幼馴染と語り合った場所。
アルトは何も言わず、ただ目を細める。
黙ったまま、その木に近付いて、手のひらを当てる。
”あの日”と寸分変わらない、ごつごつとした——しかしどこか暖かいような。
そんな感触が、返ってきた。
”あの日”とは。
まだアルトが10にもなっていなかった、あの日の事。
村長の娘であり、アルトの幼馴染である少女の悲鳴が聞こえたのは。
アルトが手伝いを終え、農具片手に家路に就いていた、その時であった。
聞き慣れた声の、しかし尋常でないその悲鳴。
それを聞きつけて、駆け付けたそこで、アルトは——大木の広場で、幼馴染が<牙狼>に襲われているのを目撃した。
滅多に現れる事はない、倒すのには村の狩人と、大人総出でかかる必要のあるその魔物。
その恐ろしい存在に、普段は勝ち気で口の悪い幼馴染の少女はすっかり怯え、大木の一番低い枝の上で縮こまっていた。
『——こっちだ、このバケモノ!』
幼馴染の眼下、しばらく大木の周りをうろついていた魔物が、木の幹に前足をかけたのを見て。
咄嗟に、アルトはそう叫んだ。
子供の自分には、どうしたって勝ち目はなかったし。
普段から、自分に対して意地悪ばかりする幼馴染に、何か思う所があった訳でもない。
ただ、その時は。
何の理屈も、根拠もなく——そうするのが、正しいと。
ただ、そう思ったのだ。
魔物の赤い眼が、刃も付いていない農具を構える少年を捕らえた後。
そこからの記憶は、実の所、アルトの中にはあまり残っていない。
技術も戦術も無い、ただ無我夢中に農具を振り回し、牙を防ぎ、爪の一撃を避けようとして——しかし避けきれるはずもなく。
農具の柄ごと、魔物の牙に自分の肩口を切られた事。
倒れ伏した自分に、ゆっくりと近付いて来る魔物と、悲痛な叫びで自分を呼ぶ幼馴染の声。
そして——突如として響いた、目の前の魔物からではない、どこか懐かしい響きの遠吠え。
それが響いた途端に怯え、尻尾を巻いて山中へと逃げていく魔物の後姿。
そして——血が流れ、頭を打ち、朦朧とする意識の中。
涙を湛えて、必死にこちらに呼びかける、遠い幼馴染の声。
それが、”あの日”の、アルトの中に残っている記憶の、全てであった。
夕陽に雲がかかり、先程と比べて随分と暗くなった中。
いつの間にか、アルトは、大木に背を預けて座り込んでいた。
思えば、あの日からだっただろうか。
自分が、この手で人々を守り、悪に打ち勝つ。
そんな夢を抱き始めたのは。
力も、知恵も、今のアルトと比べれば、全く頼りない昔の自分。
しかし、その時の、彼の気高い志と夢は。
今のアルトでは、とても敵わない程の輝きを放っていたように思う。
結局。
あの日の後、手当され助かった自分をしかりつけ、しかし涙を流して抱きしめてくれた両親も。
あの日から、やけにしおらしくなり、自分の後ろを着いてまわるようになった幼馴染も。
あの日の、勇気ある行動を讃えてくれた村人達も。
アルトが勇者として旅立ったその日から3年後、王国北部で起こった流行り病で。
ほぼ全員が、死んだ。
そして、その事をアルトが知ったのは、その更に1年後の事で。
魔王を倒し、王都に凱旋し、姫との婚儀と、爵位授受に忙殺される日々の中で。
何とはなしに、1年以上溜まっていた自分宛の手紙の束に入っていた1通の手紙を開くと、差出人はオギ村の薬師の息子で。
最早動けない者が大半となった村を、最後まで見捨てられず、村に残る事を選んだ親に、せめて自分だけでもと——薬の材料を買い付けるという名目で逃がされた後。
流行り病が収束し、村に戻った彼が。
たった1人で、そこにあった、村人の亡骸を全て燃やした事を知って。
『もう、こんな村の事なんて、勇者のお前にはどうでも良かったのか』
そう書かれた、涙の跡の残る手紙を握り締め、豪奢な王宮の窓辺で立ち尽くした、あの日。
自分が、もっと早く気付いていれば。
救えたかもしれない、自分が見捨ててしまった村。
記憶の奥底に封印した、自分の罪の証であるそこに。
アルトはずっと、帰る事が出来ないでいた。
——そんな、故郷へ戻る踏ん切りのついたきっかけが。
己の命を蝕む、魔人からの呪いだったとは、とんだ皮肉であった。
そんな自虐的な思考を振り払い、アルトが立ち上がると同時。
ふと、雲に隠れていた夕陽が、アルトのいる草原を照らした。
薄暗くなりかけていた草原に、夕陽特有の強く、暖かい光が降り注ぐ。
アルトは眩いそれに、一瞬顔を顰め。
しかし、目の前に広がる”もの”に、息を呑んだ。
そこには。
かつて、幾度となく見た。
夕陽に照らされ——まるで黄金の様に光り輝く、一面の野原が、広がっていた。
「——ああ、いいな」
自然と口を突いて出た言葉が、アルトの耳朶を打った。
「いいな。 ここが、いい。」
不意に、アルトは、幻を見た。
それは、自身の横を。
かつての少年だった自分と、幼馴染が駆け抜けていく、そんな幻覚を。
思わず振り返る、アルトの視線の先。
幼くも、夢と希望に満ち溢れていた、あの頃の自分達が。
帰りを待つ親のいる、坂の上の家へと帰っていく。
何も持たないが故に。
——何もかもを手に入れていた、在りし日の光景。
そんな光景を幻視したアルトは、どこか寂しそうで——しかし、満足そうな笑みを浮かべて。
そんな2人を、見送った。
——勇者としての自分が始まったその場所で、ただの1人の男としての人生を終わらせたい。
そう、アルトは思ったから。
自身のクランを若いのに任せて、自分の呪いについて周囲に口止めして、書き置き1つで何もかも手放して。
この最後の旅に出て、ここに辿り着いた。
アルトの望みは、ただ1つだけ。
「(俺の——何一つ、納得いかなかったその人生で。)」
「(最期に唯一、納得して迎えられる”終わり”の時を、ここで過ごそう。)」
なんの迷いもなく、そう思えた事に満足したアルトは、頷きを一つ。
その顔は、とても、晴れやかだった。
山の輪郭に夕陽が落ち始め、ますます強く光輝く黄金の風景を背に、アルトは向き直る。
まずは、物置を直し、住居を整えて、冬を越す準備をしなければならない。
たとえ、もうすぐ死んでしまうにしたって。
寒さと飢えで死ぬのは御免だった。
そして。
終わりを迎えるための、始まりの第一歩を。
アルトは——自分の家に向かって、踏み出した。
翌日。
空いた壁から差し込む光が、<大角羊>の毛布に包まったアルトの顔を照らした。
昨日の内に塞いでおくべきだった穴からの、中々強烈なそれに、アルトは目を覚ます。
起き上がると、元々は棚であったこの場しのぎの寝台が、ぎしりと音を立てた。
欠伸をし、顔を手のひらで拭って、大きく伸びをしたアルトは。
「………………」
そのままの姿で、目を前に向けたまま、固まった。
「……」
10秒程、そうしていただろうか。
しかしとて、アルトは——そのまま立ち上がり、物置小屋の外に出た。
山肌を上から下に撫でる朝の風は、随分と冷たい。
思わずぶるりと震えたアルトは、しかし構わず井戸に向かう。
顔を冷たい水で洗い、持参した磨き粉で歯を洗い、端切れでそれを拭うと、室内に戻る。
中に掛けてあった<魔法袋>から、朝食代わりの干し肉と、からからの堅パンを取り出し、その2つを木の器に入れ——そこに汲んできた井戸水を注いだ。
「……ふぅ」
そこまでした後、アルトは溜息を吐いた。
いい加減、これ以上無視は出来なかったし——どうやら、寝ぼけていて見間違えた訳でもなかったらしい。
物置の奥に、目を向ける。
かつて、農耕馬を飼っていたその場所。
古びた藁束が転がっている、その空間に——巨大な白い狼が、横たわっていた。
丸まっている姿で、しかしその時点で、大の大人2人分が寝っ転がっても足りなさそうな幅がある、その狼は。
目を向けられている事を感じたのか、アルトに、自身のくすんだ黄金色の眼を向けた。
1人と、1匹の視線が、互いに交錯した後。
「「……」」
ふん、と鼻を鳴らした巨狼は。
興味を失ったように顔を逸らし、元の姿勢に戻って目を閉じた。
それを見たアルトは、困ったように頬を掻いた。
——まさか、入居2日目にして。
この村でのお隣さんが出来るとは、思ってもいなかったからだ。
しかも、どうやらその隣人は、気難しく、口数も少ない気質のようだ。
「(いやはや、これは……どうしたものかなあ)」
アルトは、ううむと、頭を捻る。
この巨狼。
寝所に音もなく、勇者であるアルトにも気付かれる事もなく、いつの間にかそこに存在していて。
おまけに——村の守り神として、かつての村中心部に祀られている青年とはぐれ狼の古像。
そのはぐれ狼の姿に、どこか似ている隣人を、早速アルトは持て余してしまう。
「(まあ——うむ。)」
とりあえず、と。
老いた勇者は、朝食である水でふやかした堅パンを1口、齧る。
——相変わらず、酸っぱくて固い、不味いパンだった。
続編の連載物『勇者の終活~呪われた勇者と黄金の魔王~』執筆予定。




