砕けた指輪
いつも読んでいただきありがとうございます。
他にも作品がありますので読んでもらえたら嬉しいです。
宜しくお願いします。
魔力が少ない婚約者カイルとの日々は、まるで砂時計の砂を分け合うようなものだった。
毎朝、私は目覚めるとすぐに彼の元へ向かう。
寝室の扉を開ければ、まだ寝ぼけ眼のカイルがベッドの端に座り、無造作に伸ばした左手を待っていた。
彼の指には、魔力供給用の銀の指輪が冷たく輝いている。
「おはよう、リリア」
彼はいつもそう言って、かすかな笑みを浮かべる。
私は黙ってその手を取り、自分の右手の指輪と重ね合わせる。
魔力の流れは静かだが、確実だった。体内の熱のようなものが、ゆっくりと確実に吸い取られていく感覚。
一日の始まりに、すでに倦怠感が足首を掴む。
「助かる」
カイルが申し訳なさそうに呟く。
彼の魔力は確かに少なかった。
貴族としての体面を保つためには、私からの供給が不可欠なのだ。
指輪を通した魔力の通路は、結婚の約束と同じくらい確固たるものだった。
問題は、魔力を失うことそのものではなかった。
むしろ、それによって得られるはずのもの――彼の全幅の信頼と愛情――が、どうやら別の場所へ向けられているらしいということだ。
カナリア。
彼女は城下町のパン屋の娘で、魔力など微塵も持たない庶民だ。
それなのに、カイルは彼女を城に招き、時には庭園を一緒に散歩し、本を貸し与えている。
私は魔力を分け与えているというのに、彼の笑顔の大半はカナリアのためのものだった。
「リリア、今日の午後は少し忙しいから」
ある日の供給の後、カイルはそっと手を引っ込めた。
「カナリアが新しいレシピを試すというので、見に行ってくる」
「…そうですか」
私の声は平然としていたが、胸の内側では何かが砕ける音がした。
魔力の半分以上を彼に与え、立ちくらみがするほどの倦怠感に耐えながら、その見返りは彼の「忙しい」という一言だけだった。
日々、魔力は減り、カイルとカナリアの距離は縮まった。
私は傍観者となり、ただ指輪を通して生命力を提供し続ける装置のようだった。
愛されるためではなく、彼の社会的地位を保つためだけに。
そして、運命の日が来た。
広間で開かれた小さな茶会。
カイルとカナリアが庭のベンチで笑い合っているのを、私は窓越しに見ていた。
その時、何かが変わった。
指輪が熱くなり、魔力の流れが乱れた。
次の瞬間、銀の指輪にひびが入り、砕け散った。
「…え?」
私が呆然と見つめる中、広間の扉が勢いよく開いた。
カイルの父である公爵が、真っ青な顔で入ってきた。
「カイルが…カイルがあの庶民の娘と駆け落ちすると言い出した!」
ざわめきが広がる。
貴族たちの驚きと非難の声。
そして、公爵が私を見て言った。
「リリア、許してくれ。あの愚息は、婚約を破棄すると…」
その言葉を聞いたとき、私の中であったのは驚きではなかった。
歓喜だった。
まるで長い間重い鎖で縛られていたのが、突然解き放たれたような。
魔力が急速に体に戻り、血の巡りが良くなるのを感じた。
今まで感じたことのない軽さ。
指輪の欠片が床に散らばっているのが、なぜか輝いて見えた。
「…そうですか」
また同じ言葉を口にした。
だが今度は、声の底に抑えきれない安堵が滲んでいた。
「では、これでお役目は終わりですね」
私はゆっくりと立ち上がった。
倦怠感は消え、代わりにこれまでにない活力が体中を駆け巡っている。
魔力は完全に私のものに戻り、それはまるで長い旅から帰ってきた友人のようだった。
城を出る時、後ろから公爵が呼び止めた。
「リリア、待ってくれ。我々は何か…」
「何も結構です」
振り返らずに私は答えた。
「もう、魔力を分け与える必要はありませんから」
城門を出た時、初めて本当の自由を感じた。
カイルのことはもうどうでもよかった。
彼がカナリアとどうなろうと、私には関係ない。
ただ、これからは自分の魔力を自分のために使える。
それだけで、この上ない喜びだった。
風が頬を撫でる。
重かった足取りは軽やかになり、私は知らず知らず笑っていた。
婚約破棄――それは私にとって、決して悲劇ではなかった。
むしろ、長い眠りから覚めた朝のように、新鮮で希望に満ちた始まりだった。
城下町へ続く石畳を踏みしめながら、私は初めて“自分の足で歩いている”という実感を味わっていた。
これまでの私は、カイルの魔力を補うための存在。半身のようでいて、実際は器に過ぎなかった。
けれど今は違う。
体の奥に満ちる魔力は、かつてないほど澄み渡っていた。
指先に意識を集中させると、淡い光がふわりと揺れる。
供給に使っていたときとは比べ物にならない密度。
こんなにも、私は強かったのだ。
三日後。
王都の中央広場に、奇妙な噂が流れ始めた。
――公爵家の嫡男が、魔力欠乏で倒れた。
――庶民の娘との駆け落ちは失敗、現在は屋敷に軟禁状態。
私はその話を、茶店で紅茶を飲みながら耳にした。
カイルの魔力は、もともと極端に少ない。
私の供給が止まれば、貴族として必須の儀礼魔法すら維持できない。
婚約破棄と同時に、供給契約も完全に失効したのだ。
当然の帰結だった。
さらに一週間後、公爵家から正式な書状が届いた。
婚約破棄の慰謝料としての金銭補償。
これまでの魔力供給に対する謝礼。
そして、「可能であれば再契約を」との打診。
プチン、ふざけるな。
私は封を閉じ直し、そのまま暖炉へ放り込んだ。
紙はあっけなく燃え、灰になった。
「再契約?」
思わず笑みが零れる。
誰が、再び鎖を自ら嵌めるものか。
一方その頃。
カイルは自室で青ざめていた。
指輪を失ったことで魔力循環が乱れ、慢性的な倦怠と頭痛に苛まれているという。
彼は初めて知ったのだろう。
自分がどれほど他人の力に依存していたのかを。
カナリアはというと――現実は甘くなかった。
彼女は魔力を持たない。
貴族社会の儀礼も、魔法も、何一つ扱えない。
公爵家の親族からは冷遇され、使用人たちからも距離を置かれた。
やがて彼女は屋敷を去った。
理由は簡単だ。
「こんなはずじゃなかった」と泣きながら。
恋は、魔力の代わりにはならない。
そしてカイルは、ようやく理解する。
庭園で笑い合うだけでは、地位も体面も維持できないことを。
彼は私に会わせてほしいと何度も公爵に懇願したらしいが、私はすでに王立魔術院の推薦を受け、王都を離れる準備をしていた。
王立魔術院。
その高い塔の前で、私は深呼吸をする。
ここは、魔力そのものの質と才能がすべてを決める場所。
家柄ではない。誰の婚約者でもない。
リリア自身の力が問われる。
入門試験の水晶に触れた瞬間、広間がざわめいた。
水晶が、眩い金色に輝いたのだ。
試験官が目を見開く。
「これほど純度の高い魔力は近年例がない」
私は静かに手を引いた。
当然だ。
これまで半分以上を常に他者へ流していたのだから。
抑えられていただけの奔流は、今や完全に解き放たれている。
その頃、公爵家。
王立魔術院からの報告書を読んだ公爵は、深く項垂れた。
元婚約者リリア嬢、特待生として迎え入れることが決定。
そして追い打ちのように届く通達。
公爵家嫡男カイル、魔力量不足により継承順位を一時凍結。
社交界は、あっという間に手のひらを返した。
「魔力も家格の一部ですものね」
「見る目がなかったのは、どちらかしら?」
ひそやかな嘲笑。
かつて私に向けられていた憐れみは、今や彼へ。
入学式の日。
塔の窓から王都を見下ろしながら、私は思う。
もしあのまま婚約が続いていたら。
私は今も、毎朝倦怠感に耐えながら、誰かのために削られていただろう。
失ったのは婚約。
得たのは自由と、未来。
背後から声がかかる。
「リリア様、次席代表としてご挨拶を」
「ええ、今行きます」
足取りは軽い。
もう鎖はない。
自業自得。
それはきっと、特別な復讐などではない。
ただ、私が私の力を取り戻し、前に進んだ結果。
振り返れば、過去は小さく霞んで見える。
カイルが後悔しようと、泣こうと、縋ろうと。
もう、私の魔力は一滴たりとも譲らない。
私は微笑む。
これは終わりではない。
本当の始まりだ。
王立魔術院での生活は、静かで、充実していてそして少しだけ、くすぐったいものになっていた。
魔力を他人に吸われることのない朝は、こんなにも軽いのかと毎日驚く。
目覚めても倦怠感はない。
胸の奥には、澄んだ湖のような魔力が満ちている。
研究室で向き合うのは、古びた魔導書と、そして――
「リリア、その式、ここを反転させたほうが効率がいいかもしれない」
低く穏やかな声。
振り向けば、銀灰色の髪を揺らす青年が立っている。
王立魔術院首席、アレク。
彼は名門侯爵家の次男でありながら、家柄より実力で評価されることを選んだ変わり者だ。
「……確かに。そのほうが循環が滑らかになりますね」
「君の魔力制御は本当に美しい」
さらりと言われ、胸がわずかに熱くなる。
カイルといた頃、“美しい”と言われたことは一度もなかった。
「助かる」「ありがたい」
それは、便利な道具への言葉だった。
けれどアレクの視線は違う。
私を見る。
私の魔力ではなく、私を。
そんな折、王都で大規模な魔術式披露会が開かれることになった。
王族や有力貴族も集まる華やかな場。
そして当然、公爵家も出席する。
壇上で私が新型魔力安定装置を披露すると、会場はどよめきに包まれた。
「外部供給に依存しない循環補助術式です」
誰かを犠牲にしない。
その一文に、何人かが気まずそうに視線を逸らした。
発表を終えて壇を降りた瞬間、前に立ち塞がる影。
「リリア」
カイルだった。
以前より痩せ、目の下には隈がある。魔力不足は相変わらずらしい。
無理な増幅装置の反動で、制御も不安定だと聞く。
「久しぶりだな」
「ええ」
それ以上の感情は湧かなかった。
彼は周囲を気にしながら、小声で言う。
「君がいなくなって、初めて分かった。俺は」
カイルの言葉に被せて言った
「依存していただけです」
私の声は穏やかだった。
怒りはない。
哀れみもない。
ただ事実。
「もし、もう一度やり直せたら――」
「それは無理です」
はっきりと告げた。
その瞬間、背後から自然な足音が近づく。
「リリア、探しましたよ」
アレクだ。
迷いなく私の隣に立ち、ごく自然に私の手を取る。
指輪はない。
ただ、指先が触れ合うだけ。
それなのに――魔力は一滴も奪われない。
むしろ、静かに共鳴する。
カイルが目を見開く。
「君は……」
「王立魔術院のアレクです」
穏やかな微笑。
だが瞳は冷静だ。
「彼女は現在、私と共同研究をしています。多忙ですので、長話はご遠慮を」
周囲の貴族たちがざわめく。
「首席と特待生が組んでいるのか」
「まさに魔術院の双璧だな」
カイルの顔色が変わる。
彼が手放したものの価値を、ようやく理解したのだろう。
私は静かに一礼する。
「どうかお元気で」
それが最後。
振り返らない。
背後で、何かを言いかけて飲み込む気配がしたが、もう届かない。
これが、ささやかな“ざまぁ”。
奪うのではなく、手放した結果を見せるだけ。
夜会のバルコニー。
月明かりの下、アレクが小さく息を吐いた。
「少し、強引でしたか」
「いいえ。助かりました」
本心だった。
彼は私を見つめる。
「あなたが過去にどんな扱いを受けたのか、詳しくは知りません。でも」
そっと、私の右手を持ち上げる。
「あなたの魔力は、誰かに削られるものではない」
そのまま、指先に口づける――寸前で止まり、照れたように笑った。
「許可をいただいてからにします」
思わず笑みがこぼれる。
「研究成果が出たら、考えます」
「それは難題だ」
冗談めかして言いながらも、彼の瞳は真剣だった。
奪うでもなく、縛るでもなく、対等に立つ。
魔力は流出しない。
けれど、心が温かく満ちていく。
ああ、これが――共に在るということなのだ。
砕けた指輪は、呪縛の象徴だった。
今、私の指には何もない。
それでも不安はない。
いつか嵌めるとしたら、それは誓約ではなく
選択の証。
夜風が優しく頬を撫でる。
私はもう、誰かのために削られる存在ではない。
隣に立つ人と、同じ歩幅で未来へ進む。
婚約破棄は、終わりではなかった。
あれはきっと
本当の恋が始まるための、序章だったのだ。




