加護を捨てる者
夜は、異様なほど静かだった。
焚き火の音だけが、かすかに響いている。
虫も、獣も、近づかない。
世界が、距離を取っている。
アルヴィスは、地図を畳みながら口を開いた。
「……今夜だな」
誰に向けた言葉でもない。
だが、二人とも理解した。
「修正が、次の段階に入る」
ルルナが唇を噛む。
「次って……」
「“切り分け”だ」
アルヴィスは淡々と言った。
「誰を残し、誰を切るか」
「世界は、もう答えを持っている」
沈黙。
セリスが、焚き火を見つめたまま言った。
「私ですね」
即答だった。
ルルナが、勢いよく顔を上げる。
「えっ……?」
「セリス」
アルヴィスが名を呼ぶ。
だが、彼女は振り返らない。
「今日の戦闘で、はっきりしました」
「私だけ、まだ“間に合っている”」
指先が、剣の柄をなぞる。
「致命傷を、避けられている」
「本来なら、あの一撃で終わっていた」
アルヴィスは、否定できなかった。
「世界は、私を使えるうちは残す」
「だから――」
セリスは、ようやくこちらを見た。
「だから、私が選ばれているうちに」
「終わらせるべきなんです」
「何をだ」
アルヴィスの声は、低かった。
「この歪みを」
その瞬間。
空気が、わずかに揺れた。
霧が集まり、形を成す。
――来た。
名もなき男。
観測者の端末。
「こんばんは」
感情のない声。
「予定より、少し早いな」
アルヴィスが言う。
「最適化の結果です」
端末は、淡々と告げる。
「このまま進めば」
「三日以内に、アルヴィス・グラーフェンは排除されます」
ルルナが、声を荒げる。
「そんな……!」
「回避策は、あります」
端末は続ける。
「未来視の完全放棄」
「もしくは――」
視線が、セリスに向く。
「世界に選ばれた存在が」
「正義として、役割を果たし続けること」
沈黙が落ちた。
「つまり」
アルヴィスが言う。
「俺を切るか」
「彼女を“元に戻す”か」
「正確には」
端末は首を振る。
「あなたを、最初から存在しなかったことにする」
ルルナが、震えながら叫ぶ。
「そんなの、選択肢じゃない!」
「世界にとっては、最適です」
端末は、迷いなく言った。
その時。
セリスが、一歩前に出た。
「いいえ」
端末が、初めて言葉を止める。
「私は――」
セリスは、はっきりと言った。
「選ばれるのを、やめます」
空気が、変わった。
「確認します」
端末の声が、わずかに硬くなる。
「それは」
「世界からの加護を、自ら断つという意味ですが」
「分かっています」
セリスは、剣を地面に突き立てた。
「今まで」
「勝つべき戦いで勝てたのは」
「私が正しかったからじゃない」
一瞬、言葉を探す。
「……世界が、正しいと決めてくれていたからです」
アルヴィスが、叫ぶ。
「やめろ、セリス!」
彼女は、微笑んだ。
「あなたは」
「未来を見て、戦ってきた」
「私は」
「世界に守られて、戦ってきた」
そして。
「同じじゃ、不公平でしょう?」
刹那。
何かが、剥がれ落ちた。
音も、光もない。
だが、確かに。
世界の加護が、断ち切られた。
膝が、わずかに揺れる。
セリスは、それでも立っていた。
「……処理を確認」
端末が、静かに言う。
「対象:セリス」
「世界の優遇対象から除外」
淡々とした宣告。
「修正、不要」
霧が、散り始める。
端末は、最後にアルヴィスを見る。
「これで」
「あなたは、観測不能となりました」
「世界は、あなたを確定できません」
完全に、消えた。
沈黙。
ルルナが、涙をこらえながら言う。
「……これで、助かったんですか?」
アルヴィスは、セリスを見る。
彼女の呼吸は、少し荒い。
足元も、不安定だ。
だが――
「助かった」
そう答えた。
「代わりに」
「俺たちは、世界に嫌われた」
セリスは、小さく笑った。
「それで、十分です」
夜空に、星が見え始める。
世界は、何事もなかったかのように回っている。
だが。
確実に、一つの歯車が外れていた。
最適解ではない未来が、
ここに残った。




