世界が手を離し始める
夜明け前。
空はまだ青にも黒にもなりきらず、森の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
アルヴィスは、水袋を手に、野営地を離れていた。
近くの沢へ、水を汲みに行くためだ。
――見張り、交代。
形式上の理由だが、本音は違う。
じっとしていると、考えすぎる。
「一人で行くつもりでしたか」
背後から、声。
振り返らなくても分かる。
「……足音が軽すぎる」
セリスだった。
「気づいていたなら、止めればよかっただろ」
「言われても、来ます」
即答だった。
アルヴィスは、ため息をつく。
「……ルルナは?」
「まだ寝ています。
起こさないほうがいいと思って」
水音が、近づく。
沢は、月明かりを反射して静かに流れていた。
「変わったな」
アルヴィスが言う。
セリスは、一瞬だけ立ち止まった。
「何がです?」
「前なら、“見張りは俺がやる”って言われたら、素直に従ってただろ」
セリスは、小さく笑った。
「前なら、そうでしたね」
その声に、どこか乾いた響き。
アルヴィスは、水袋を沢に沈めながら続ける。
「自覚はあるか?」
「ええ」
答えは、早かった。
「世界が……少し遠い」
水袋が満ちる音。
ぽちゃん、と小さな波紋。
「今までは、迷う前に“ここ”だと分かった。
剣を振る理由も、守る範囲も」
セリスは、掌を見つめた。
「でも今は、自分で決めないと、いけない」
アルヴィスは、水袋を引き上げる。
「それで?」
「怖いです」
はっきりとした言葉。
だが、続きがあった。
「……でも、嫌ではありません」
アルヴィスは、少しだけ目を細めた。
「面倒な性格だな」
「あなたほどでは」
短いやり取り。
だが、その間に。
違和感。
森が、静かすぎる。
風が止まったわけではない。
沢の音もある。
それでも――“見られている”。
アルヴィスは、剣に手を掛けた。
「来るぞ」
「端末ですか?」
「いや……」
答える前に、足音がした。
「う、うわっ……!?」
茂みから飛び出してきたのは、ルルナだった。
「ちょ、ちょっと! 二人ともいないと思ったら!」
完全に、素。
緊張が、わずかに緩む。
「起きてたのか」
「そりゃ起きますよ!
嫌な感じがして……」
ルルナは、言葉を切った。
「……あれ?」
彼女も、気づいた。
「森、変じゃないですか?」
その瞬間。
圧が、降りた。
姿はない。
音もない。
だが、三人とも同時に理解した。
――世界だ。
セリスが、即座に前へ出る。
剣を抜く。
だが。
一瞬、踏み出しが遅れた。
アルヴィスは、それを見逃さなかった。
「セリス、下がれ」
「でも――」
「いいから!」
声を荒げたのは、珍しかった。
ルルナが、息を呑む。
「え、え、なにこれ……!?」
圧が、セリスを“測る”ように集中する。
世界が、彼女を使うか、切るか。
アルヴィスは、前に出た。
「……試すな」
低い声。
「選ぶなら、はっきり選べ」
未来視は、役に立たない。
だが、意志だけは通せる。
ルルナが、必死に声を絞り出す。
「ね、ねえ……
世界さん? なんか勘違いしてません?」
アルヴィスとセリスが、一瞬だけ彼女を見る。
「この人、今までずっと戦ってたんですよ?
それを急に……」
圧が、揺れた。
論理ではない。
感情でもない。
予想外。
やがて。
圧は、すっと消えた。
森が、息を吹き返す。
鳥が、どこかで鳴いた。
「……行った?」
ルルナが、恐る恐る言う。
「ええ」
セリスが剣を納める。
「間違いなく」
彼女は、手を見つめた。
震えてはいない。
だが、軽くもない。
「確認できました」
アルヴィスが問う。
「何をだ」
「世界は、もう私を守らない」
ルルナが、ぱっと顔を上げる。
「え……それって」
「だからこそ」
セリスは、はっきり言った。
「次は、私が選びます」
アルヴィスは、短く頷いた。
「それでいい」
水袋を肩に担ぎ、野営地へ向き直る。
背後で、ルルナが小さく呟いた。
「……なんか、急に普通の旅になりましたね」
「最悪な意味でな」
アルヴィスは言った。
夜明けは、もう近い。
世界は、まだ見ている。
だがその手は――
確かに、離れ始めていた。




