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エッセイ/創作論集

映画『フロントライン』を観て思ったこと ――あの日、私たちがマスクをして遠くから振りかざした「正義」は、本当に正しかったのか?

作者: すっとぼけん太

なんでもない週末の午後。

リビングのソファで、クラッカーとチーズ。

ワイン片手に、アマプラで一つの映画を観ていた。



――『フロントライン』。


途中でふと、胸の奥に沈んでいた記憶が蘇った。


2020年。

何もかもが前例のない、あの年だ。


正体のわからないウイルス。突然のパンデミック。

ニュースで報じられる死者数に胸がざわつき、「うつったら死ぬかもしれない」という恐怖が心を支配した。


それでも私たちは、頼りないマスクをして電車に乗った。

満員電車で肩が触れ合うのを避けながら通勤し、湿った空気の会議室に入り、商談をした。

“普通の生活を続けるしかない”という圧力の中で、ただ震えながら今日を過ごしていた。


テレビには、あの豪華客船――ダイヤモンド・プリンセス号の映像。

私は心のどこかで、こう思っていた。


――どうか、近くに来ないでくれ。自分や家族のそばには来ないでくれ。


恐怖にとらわれていた。『正しさ』なんて考える余裕はなかった。


船内で命を削って働いていた医師や看護師の覚悟も、

受け入れを決めた病院が負ったリスクも、

当時の私には想像すらできなかった。


ただ「自分の身に降りかかるかどうか」だけを気にしていた。


映画を観て、初めて知ることばかりだった。


専門家が船内の対応を批判するニュースが大きく報じられたあの日。

私は「ああ、やっぱり国の対応がダメなんだ」と思い、

「素人の医師を降ろして、外国の専門家に全部任せればいい」とすら思った。


今、冷静に振り返ると――

なんて安易で、なんて傲慢な批判だったのだろう。


彼らは“専門家ではない”と、自分で知りながらも、

船内で戦うしかなかった。

情報は乏しく、選択肢は少なく、完璧な対応などできるはずがない。


ミスもあれば判断違いもある。

それでも止まれない現場があった。


あの頃の私には、その必死さも、混乱の中で戦っていた人たちの葛藤も、ほとんど想像できていなかった。


日本には、あれほど前例のない事態を想定した準備がほとんどなかった。

そんな状況で、外側から「こうすべきだった」と口にするのは、

今思えばあまりに軽率だった――少なくとも、当時の私はそうだった。


そして――

「自分と家族が死ぬかもしれない」という根源的な恐怖。

あの恐怖こそが、社会全体を“安易な正義”に駆り立てていたのだと思う。


ただし、それは誰が悪いという話ではない。

あの状況では、国民の多くが情報不足と恐怖の中で、

「どうにか今日を乗り切る」ために必死だった。

それは自然で、仕方のないことだったと思う。


当時の私は、その“安全な場所から批判していた側”の一人だった。

後悔しているのは、まぎれもなく自分自身の行為であり、

同じように感じてしまった人たちを責めたいわけではない。

あの頃の判断は、誰にとってもやむを得ないものだった。


だからこそ私は、

「次は同じ過ちを繰り返さないために、

 あのときの自分の行動を教訓にしたい」

そう思っている。



私は映画を見ながら、あることに気づいてしまった。

“恐怖で判断力を失うのは不自然ではない”ということだ。

そして、そこに付け込む人たちがいることを……。


いまは世界が落ち着き、私たちは振り返ることができる。

当時の動画や記事、SNSの投稿は今も残っている。


あの専門家の批判的な発言は、本当に正しい行いだったのか。

冷静に検証できるのは、今になってようやくだ。


同じように、SNSで拡散した感情的な言葉が、

船の中で“死と隣り合わせ”で働いていた人々と、

その家族にどれほど残酷だったか。

――それを誰もが冷静に振り返られる。


映画で心に残った言葉がある。

それはテレビ局内での会話だった。


「今日も政府は地味に働いていて、世の中はほぼ平和です。

 ――なんてニュースは誰も見ないだろ!」


全くその通りだ。地味な真実は、誰の目も引かない。

SNSもYouTubeも、派手な怒りや攻撃のほうが、常に再生数と収益を稼ぐ。

だから、いまも世の中にはいる。


事実を確認せずに情報をばらまき、自分よがりの“正しさ”を武器のように振りかざす人たちが。彼らは「怒りや攻撃のほうが稼げる」ことをよく知っている。


だから、誰かの人生や家族を巻き込むほどの影響力を持つ言葉を、

ほんの数秒の“ノリ”や“感情の勢い”だけで投げつける。


時には、それがまったく事実と違っていても構わない。


正確さより、数字。

誠実さより、バズ。

人の痛みより、自分の収益。


――そんな**“自分の為だけの金稼ぎの行為”**を見るたびに、

胸が熱くなるほど腹が立つ。


もしその行動や言葉が、 誤ったまま拡散され、誰かを追い詰め、

そしてその誰かが命を落としたとしたら――


それはもう、取り返しがつかない。



映画の中の言葉が再びよみがえる。


「そんな地味な真実は、誰も振り向かない」


その通りだ。まったくその通り。


YouTubeでもSNSでも、

“地味な真実”は再生数にならない。

今どき、子供だって分かる。


だからこそ――、

オールドメディアに対しても、

そして即時的で感情の濃いSNSなどの情報にも

**「そういう仕組みだ」と知ったうえで**、

私たち一人ひとりが向き合う必要がある。


そうしなければ、今日の“軽い気持ちの拡散”が、

明日の自分に返ってくるかもしれない。


今の世界は、すべてが残る。

動画も、投稿も、コメントも――

数年後には、誰でも振り返り、検証できる時代だ。


そして後になって、人は必ずこう言う。


――「あのときは、それが正しいと思っていた」

――「誰かを傷つけるつもりはなかった」と。


だが、真実も確かめずに振りかざした“正義”が、

誰かを追い詰め、命を奪うことすらある。


だからこそ、

いまならまだ、自分自身の言動を振り返ることができる。

時間がたち、冷静に向き合える“余裕”があるうちに。


――◇――


そして――次のパンデミックは必ず来る。


十倍、百倍の致死率をもつ新たなウイルスだって、

いつ現れてもおかしくない。


そのとき私たちは、

あの日の混乱を“学び”へと変えられるのだろうか。

それとも再び、怒りや恐怖に流され、

“正しい行い”を妨げてしまうのだろうか。


分岐点は、今ここにある。


あの日の経験も、努力も、無力さも。

あれらを単に「過去の傷」で終わらせてはいけない。


次に同じ危機が訪れたとき――

国は、既に受け入れ施設や医療体制を整え、

現場が孤立しない準備を済ませていること。


医師や看護師、関係者たちが、あの日の教訓を活かせる環境を手にしていること。


そして私たち自身も、恐怖に飲まれず、

学習した知恵で行動できる社会になっていること。


その未来を――

あの日の後悔を胸に抱える一人として、強く願っている。

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