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短編集(ガールズ・サイド)

佐倉八千代とクリスマス・ストーリー

作者: 樫山泰士


 すこし前の話になるが、あるとても実直な女性から身の上話をされたことがある。


 どうしてそんな話になったのか、その経緯はもう忘れたが、彼女は私も「とても実直」そうな人間に見えたというのが、その話をしようと考えた理由だったという。


 ここでいう「実直」とは、日々まじめに働き、生活を行ない、不道徳・不正直的なものに対して、抗議の声を上げるとまではいかなくても、せめて黙って首を振り、彼らから距離を置くことが出来る、というくらいの意味であった。彼女は言った。


「今度の五月で私は三十六になるんですが、あなたの意見を聞かせてもらえませんか?」


 意見? と私は少し首を傾げる。


 が、それでも、「いいですよ、どうぞ」と言って答える。「私なんかの意見でよければ」。彼女は続ける。


「実は先日、子どもを妊娠していることが分かりました。もちろん今のパートナーとの子どもです」


 ああ、それは、「おめでとうございます」と反射的に言い掛けて私は口ごもる。彼女の声にはまだ別の続きがありそうだったからだ。少しほほ笑み、彼女は続ける。


「このことを彼に伝えると、彼はよろこび、私を抱きしめ、例えば籍とか結婚とか、私の両親への挨拶はどうしようかとかそんなことまで言ってくれました。――失礼ですが、樫山さん、お子さまは?」


 私は首を横に振った。彼女は私の詳しい私生活やパートナーのことを知らなかったのである。


「あら、すみません、それは……」


 と彼女は口ごもり、軽率に身の上話を始めた自分のことを反省している様子であったが、これは当然、その辺りの背景情報を隠し続けて来た私にも非がある。私は彼女の手に触れて、「あ、どうか、そんな気にしないで」と言った。「どうぞ、お話を続けて下さい」それでも彼女が、話したがっているのが分かったからである。


「そうですか?」彼女はつぶやき、目をふせ、私の手を握りかえし、しばらくの逡巡のあと、「実は」と言って答えた。「実は、とても不安なんです」


「もちろん、子どもを授かったことは、大変うれしいことですし、奇跡のようなことだとも想っています。まさかこの年になって、と。彼もよろこんでくれていますし、私にとってはこれが――すみませんね、樫山さん――これが最後のチャンスなのかも知れません」


 私は首を横に振った。ぎこちない笑顔になっていないかが心配だったが、彼女の方はそれどころではなかっただろう、「ただ、それでも」と彼女は続けた。


「ただ、それでも、どうしても不安なんです。こんな、こんな……」と言葉を選ぼうとして、それでも正直に、「こんなクソみたいな、恐ろしい世界に、新しい生命を送り込んでもよいものなのでしょうか?」と。「この世界の恐ろしさを、くそったれ加減を、この子が理解したとき、私はこの子を産んだ責任を取れるものなのでしょうか?」と。


 彼女と私は、この小さな、静かな喫茶店に入る前、駅前で外国人排斥を訴える政治家の演説を耳にし、家電量販店のテレビに映る戦争や民族浄化や民主主義打倒を目指す大統領の姿を目にしたところであった。


「そうですね」絶対に産まない方がいい、もう少しで私はそう答えるところだった。


 その子が彼らの被害者になることもあれば、その子が彼らと同じクソ野郎になる可能性だって十分にあり得るし、きっと将来その子は、世界を敵と味方に二分し、相手を年収やいいね!の数だけで評価する人間になるか、あるいは、神も悪魔もお金に変えてしまうようなキチガイになることだろう。しかも、その子が信奉する神と来たら、ひとを愛した人間に罰を与えるようなくそったれだ。その子が育つこの社会では、我々貧乏人に学習の機会は与えられず、与えられるものと言えば、SNSと戦争、あるいは、ネットの海に電子で描かれた仮初めの平和くらいのものである。


「そうですね」着床後四週間なら母体への負担も軽微ですから、いますぐにでも中絶手術を受けた方がいい。確かに私は、もう少しでそう答えるところだった。


 いや、答えかけた。


 すんでの所だった。


 結構、ギリギリだった。


「あのー」その店のウェイトレスが私に声を掛けた。「おかわり、いかがですか?」


「おかわり?」彼女の方を向き、私は訊き返した。


「今日、コーヒーおかわり無料なんですよー」彼女は答えた。なのに誰もおかわりを頼んでくれなくてつまらないとかなんとか、「よければ飲んでもらえませんか?」


 彼女は背が高く、赤毛で、美人と呼ぶと語弊があるが、それでも明るい富士額とかわいい鼻には好感が持てた。


「あ、そ、そうね」私はカップを差し出し、「**さんは?」と向かいの相手に言い掛けて口を閉ざした。


 彼女が別のものを、胎児のことを考え、カフェインの入っていない別の飲み物を、注文していたことに、ようやく想いが至ったからである。


「そうですね」結局私はこう答えた。カウンターに戻る彼女の背中を不思議に想いながら――生きていてよかった、


「生きていてよかった、そう想わせてくれるものが世の中にはいっぱいあります。音楽とか映画とか小説とか、ここのお飲み物も美味しいし、夜、空を見上げればお月様が、運がよければたくさんの星が、公園通りの桜並木もきれいだし、グラウンドを飛び回る男の子たちとか、角のパン屋の焼き立てパンの匂いとか――」


 季節はめぐり、風は朝を告げ、草の香りに夜は包まれる。糸杉の森は歌をうたい、


「耳をすませば、かすかに聞こえる、どこかの誰かの、くすくす笑い」


 そうして、とうとう私は泣いた。声はあげなかったが、おいおいおいと、なにも分かっていない駄々っ子が、なにも分からないままに駄々をこねるような顔をして、向かいの**さんが心配するくらいに。私はくり返した――生きていてよかった、


「生きていてよかった、そう想わせてくれる人たちがいます。たくさん。あんなくそったれどもに負けないくらい、たくさん」


 例えばさっきの、ウェイトレスの子みたいに。


「彼らはきっと、いや、いまも、どんなに堕落した社会においても、きっと、いまだって、立派に振る舞い、振る舞おうとしているんだと想います」


 それから私はなみだを拭いて、**さんと別れた。彼女が子どもを産んだかどうか? それはここには書かないが、あの日、と言うか、あの日も含めてずっと、あの喫茶店が、『コーヒーお替わり無料』をしたことがないのを私が知ったのは、つい先日のことである。


 そう。たしかに希望はある。どんな時にも。どんな所にも。


 私はそれを、あの赤毛のウェイトレスを通して理解したし、希望がひとのかたちをしているとしたら、きっと、あの女の子みたいなかたちをしているのではないか? と密かにそう想ってもいる。



(了)

備忘のため。2025.11.8。


また、『転生者たち~時空の終わりとソウルフルネス・ワンダーランド~』第十六話へと続く。

https://ncode.syosetu.com/n4888kl/

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