3話 なんもない
「さて、午後も歩くよ」
レンは森の中へと分け入っていく。わたしは慌てて彼を追いかけながら、問いかけた。
「レンは魔法使いなの?」
「そうだよ、なんてな。魔法はハイノーウ国の専売特許みたいなものだろ。ルチルはハイノーウがどんなところか知ってる?」
ハイノーウ国。それは空を移動する島国で、ノースシー国では夏の夜に目にすることができる。
島そのものが、丸ごとひとつの迷宮なのだという。
「迷宮の力で空に浮かび、魔法使いたちが暮らす場所。まるで絵本のような話よね。ノースシーにも迷宮があるのに魔法なんて使えないの。不公平だわ」
「ノースシーの地下迷宮……たしか十何年か前に閉じたって噂だな。そうなのか?」
「お城の下に入り口があるけど、ずっと前から封鎖しているわ。昔、迷宮が閉じるに至った物語を聞いたことがある。二人の英雄が迷宮を冒険する話」
「おいおい、迷宮を攻略できたらそいつは不老不死になれるって神話にあるだろ。本当かそれ?」
「小さい時に聞いた話だから、本当かどうかはわからないわ」
「ふーん。で、その物語って?」
「えーと、王子様が迷宮に挑むことになって、お供に傭兵を雇うの。ふたりは魔物だらけの迷宮を進んで迷宮の主に出会うの。主の部屋は迷宮の中に五つあって、五番目が終点。二人は主に会うたびに攻略のための魔道具をもらうの。とっても丈夫な槍、魔物を操る剣、離れていても声の届く石。四つ目の部屋では何もくれなくて声援だけだったって言ってた」
「……声の届く石、ね」
レンが一瞬黙り込み、指先でポケットの上を無意識に撫でるようなしぐさをする。
「先へ進むごとに魔物は強くなって、でもふたりはなんとか五番目の部屋にたどり着いて……そのあと、たしか悲しい結末があったような気がするんだけど、三つか、四つの頃に聞いた話だから忘れちゃった」
「ぼやぼやじゃないか。誰から聞いたんだ?」
「えっと、誰だったかな……レンぐらい歳の男の人だったと思う。庭で迷子になったとき出会って、話してくれたの。……あまり思い出せないけど」
誰だったかな……たしか、そばにもうひとりいて、その人が彼のことを「シアン」って呼んでた気がする。わたしが眉をひそめて記憶をたぐらせてみるも、レンの声に霧散した。
「その迷宮の話は知らないけど、ウネウネが出たあと迷宮に穴が開いて、魔物が地上にあふれる ── そんな噂は聞いたことがある」
「ウネウネは迷宮を齧る悪い虫だ。だからバードテイカー国にある砂漠の迷宮の主が虫除けの薬を欲しがっているって昔話があるよね」
「ニーレイクには陸地ではバードテイカーへ続く砂漠とノースシー近くにしか魔物が出ないんだが、ノースシー国の被害はどうなんだ?」
「わたしが生まれる前は、鉱山に魔物がしょっちゅう出ていたらしいわ。でも、迷宮が閉じてからは魔物の被害が減って沢山の金銀財宝が採れるようになったって。だからノースシーはお金持ちになれたってみんな言ってる。……なのに今さら、あんな怪物が現れるなんて……」
ノースシーではあの白い大蛇のようなウネウネの通ったあとは魔物がたくさん出る。そういう言い伝えがある。多分、これから被害が出るだろう。
誰かに知らせるべきかもしれないけれど、生き延びたかもしれない騎士がいるし、逃げたメイドもいる。わたしに今できることはない。
きっと、わたしを探しにきたパイライト侯爵の者が気づいて対応に追われることになる。
ウネウネの姿を思い出して恐怖に体がブルリと震える。
あの牙が並んだおぞましい口を夢に見そうだ。
「あれは、昔話でもなくて現実だったよね……」
そうだ現実だ。
父が亡くなったことも、ウネウネに襲われて死にかけたのも、わたしの命綱が目の前のレンだけだということも。
今までのやり取りから、レンは対価さえ払えば要求に応えてくれる。問題はわたしが身につけている物がそこまで多くはないということだ。
合間に休憩を挟んで歩き続ければ、いつのまにかあたりはすっかり薄暗くなっていた。
「この辺で野宿だな」
「今から天幕を張るの?」
「そんなもの持ってない。普通に地面に寝るんだ」
「凍死しちゃうよ!」
真冬の寒さは和らいだとはいえ、春はまだ先だ。夜が深ければ地面に霜が降りるくらいに冷える。森の木々の間を風が吹き付ける。
「敷布と毛布、それから炭を入れて温める懐炉があるから問題ない。じゃあ、はい」
レンが手のひらを差し出すのを見て、わたしはいい加減うんざりした。もううんざりだった。
ちなみに、休憩の時の飲み水も有料だった。おかげで蛋白石のイヤリングもお気に入りの星彩蒼玉の指輪も渡した。
翌日も同じようにアクセサリーすべて、襟巻きも、毛皮のコートも、とうとうドレスすら泣く泣く手放してしまった。代わりに着せられたのは平民の男物の服。ごわついたマントが肩に重い。
身につけていたもの全てレンに取られてしまった。明日にはニーレイクに入るというが、今日の寝床の対価が払えない。
「もう、払える物が無いから!……これまで渡した物で十分でしょ?」
息を荒げて叫ぶと、レンは少しだけ目を細めて、言った。
「まだ、その綺麗な髪があるじゃないか」
レンの言葉にわたしは絶句した。
嫌だと首を振る。
腰まで届く金の髪はわたしの自慢だ。ゆるく波打つ髪は艶々で、旅の中でくたびれていてもなお輝いている。
ーーーー✂︎ジャキン!
泣いた。我慢できずに泣いていた。
「……ぐすっ……わたし、何もない……何も、ない……」
毛布にくるまり、背を向けて涙をこらえきれなかった。
姉と母に見捨てられて、メイドには置いてかれて、お気に入りの服も宝石も全部取り上げられた。
ああ、首がスースーして寒い。
長い髪はこの国の王女としてのわたしの証であり、父がいつも『美しい』と褒め、優しく梳いてくれた、温かい思い出そのものだった。でも、父が頭をなでて髪を梳いてくれることは、もうないんだ。
シクシク泣いてるとレンを起こしてしまった。
「あ~もう、うるさい」
レンの方を向く気になれなくて黙っていると、「触るよ」とレンが言い、頭の後ろをいじる気配がした。
嫌だと言う暇もなく、頭の後ろを弄られて ── ふと目の前に、リボンの端が現れた。
「ほら、可愛い」
何かと思ったらレンは短くなった髪にリボンをつけていた。
目の前に垂れた赤いリボンが揺れる。短くなった髪に、丁寧に結ばれたものだった。
驚いてふいに、涙が止まった。
「こいつはサービスするよ。これで道端で捨てられても拾ってもらえる程度にはなったな」
「わたしは犬猫かー」
「はいはい、明日も歩くから、寝ると良い」
ぽんぽんと背中を叩かれる。
ほんとうに、なんなんだこの人は。身包み剥いで、優しくして、また意地悪して、そして少しだけ甘い。意味わかんない!
「子ども扱いして……そこまでするなら子守歌でも歌ってよ!」
「……歌は得意だけど、私が歌うと寒くなるからやめとく」
「?」
「代わりに寝物語なら良いよ」
考え込むような間があった後、レンが問いかけた。
「そうだな、エロい話か、アリとキリギリスの話、どっちがいい?」
「!?」
衝撃で思わず振り返る。
「子ども扱いが嫌だって言ったからさ。大人の話と童話、どっちが聞きたいのかなって」
衝動を抑えて、わたしは「童話で」と答えた。「なーんだ、そっち選ぶの」とレンはニヤニヤと笑っている。揶揄われたのだ。腹が立つ。
悔しいけれど、前者を聞いてしまったらもう明日からどんな顔して歩けばいいのかわからない。
レンがゆっくりと話し始めた。
「──むかしむかし、ある村にアリとキリギリスが住んでいました……」
アリたちは朝から晩まで畑を耕し、麦を刈り、せっせと、貯蔵庫に穀物を積み上げました。
村には果ての見えない黄金色の畑があり、収穫は年々増え、倉は膨れ上がっていきました。
だからアリたちは、永遠に豊かだと信じていたのです。
一方、キリギリスたちは、北の山で木を伐り、東の港で塩を運び、南の丘で音楽を奏でて暮らしていました。 一つところにとどまらず、土地が痩せれば別の場所へ行き、雨が降らなければ雨の降る場所へ行きました。決まった畑もなく、その年その年で、手に入る仕事を変えては暮らしていたのです。
「そんな生き方、どこかで行き詰まるぞ」とアリは笑いました。
「風が変わったら、行き先を変えるだけさ」とキリギリスは笑い返しました。
やがて冬が来ました。
アリたちは倉にこもり、火を焚いて、たっぷりの麦と共に春を待ちました。
けれど──春は来ませんでした。
雲は晴れず、水は枯れ、土は裂けました。麦はわずかに実るばかりでした。
「もうすぐ元に戻る」と言い合いながら、アリたちは倉の麦を削り、分け合いました。
しかし次の年も、またその次の年も、畑は痩せていきました。
三年目の冬が来る頃、とうとう黄金の畑は枯れてしまいました。
アリたちは「次の春こそ」と言いながら、倉に残った麦を削り合いました。
三度目の春が来ても、大地は変わらぬまま。
倉も、とうとう空になりました。
そのとき、キリギリスが戻ってきました。
背には木の実と干し肉、手には新しい植物の種。
彼は言いました。
「天は気まぐれだ。止まって待っても春が来ない時もあるさ」
アリは、からっぽの倉を見つめて言いました。
「畑さえ守れば、ずっと豊かに暮らせると思っていた……同じ季節が来るものと思っていた……おまえのような生き方は、風に流されるだけだと思っていたよ」
キリギリスは肩をすくめて、こう言いました。
「流されてたんじゃないさ。風の向きが変わるたびに、自分で舵を切ってきただけさ。春を待つんじゃなくて、どこで芽が出るかを探すんだ。いまは、そういう風が吹いている──おしまい」
語り終えたレンにむかって、わたしは疑問を口にする。
「逆じゃない? その日暮らしたキリギリスは冬に蓄えが無くて困った話じゃなかったかしら。将来に備えることの大切さを説くそういう話よね」
「春から秋に身一つで生計を立ててるキリギリスがどうして冬に生活できなくなるんだ。それに、毎年必ず春が来て、日照りにも長雨にもならず作物が実るのかい?」
「おとぎ話に現実を持ち込まないでよ」
「うちの国だとね、本来の童話も話すけど、『将来に備えること』と同じく『時の変化への対応』も大事にされる。なにせ、大昔に国を追われて移住した一族が建てた国だからね」
「ノースシーは元の意味の方が大事よ。一年の半分は冬だもの。もうすぐ春が来るわ」
「本当に?」
「え?」
「オブシディアン王のもと、今年も去年と同じ春が来るのかい? 『春は来るはず』って信じて、待つ? それとも、春を探しに出る?」
「レンは何が言いたいの?」
「ただノースシーを皮肉っただけだよ」
レンの言葉が、脳裏に重く響いた。
ノースシーを支えるのは、豊かな鉱山資源だ。尽きることなく宝石や貴金属が採掘され、この国の繁栄を支えてきた。わたしたちは、まるで物語のアリたちのように、この鉱山が「永遠の畑」だと信じていたはずだ。
けれど、王宮にいたころ、採掘量が減っているという話を耳にしたことがある。もしかして、レンは「黄金の畑」は、もう枯れていると言いたいのだろうか?
アリたちが畑が枯れた後、食料が尽きてしまったように、ノースシーも立ち行かなくなる日がくるというのか。
レンはただ皮肉を言っただけだと言ったけれど、わたしの知らなかった現実を、鋭く突きつけている気がした。
……寝物語に聞かせる話ではない。レンのせいで余計眠れなくなった。
「明日はいよいよ国境の橋につく……もう寝なさい。朝食サービスしてあげるから」
レンはそれだけ言って、背を向けた。
このままではノースシーに平穏は訪れない。レンはそう言いたかったのかもしれない。
いったい、わたしは ── どうすればいいのだろう?