10話 魔狼
もうダメだと、息さえ止まって恐怖に体が凍り付く。
真っ黒な毛並みがテカテカ光り夜闇のようだ。
触れるものすべて切り裂くかのごとく、ギザギザの歯と鋭利な爪が死を予兆する。
鼻を突くのは鉄に似た血の臭い。
闇そのものが形を成したようだった。
その怪物が低い唸り声をあげて勢いよく飛び上がる。
わたしは、反射的にレンの背中にしがみついた。
衝撃に備えて目をぎゅっと閉じた ── けれど、痛みはやってこない。
ザザっと音を立てて魔狼がわたしたちの頭上を飛び越えた。そして、縦穴の壁に沿ってぐるぐると走りだす。
さらには、ギョロギョロと辺りを見回し、岩壁をよじ登ろうとしていた。
わたしたちに背を向け、気にも留めていないどころか、焦っているようにも見える。
……様子がおかしい。
魔狼が脚を動かすもガラガラと岩が崩れて、登るにのぼれないでいる。岩壁へ爪を立て、身をよじっている姿が異様だ。まるで溺れる犬のよう。
あの恐ろしい魔狼が逃げようとしている?
「一体、何から……?」
そのときだった。坑道から突風のように影が飛び出してきた。
若い男だ。身長が高く引き締まった体つき。皮当ての防具に剣を腰に下げて、そして肩の上には女性の姿を担いでいた。
赤銅色の金髪が、光を反射して輝いた。蒼玉のような青い瞳。透き通るような肌にはまだ少年らしさを残し、まるで美術品のような美貌だった。
それほどまでに美しい若者が、静かに魔狼を見据えている。その光景は英雄叙事詩を描いた絵画のようだった。
魔狼が耳を伏せ、毛を逆立てて、じりじりと後ずさる。怪物からしたら小さなひとりの人間を目の前に怯えていたのだ。
彼は魔狼から視線を外して辺りを見回し、こちらに気づいた。
「え……?」
彼の凛々しい顔と声が驚きに染まった。
「あれ? レン兄?」
「っラウル……お前、なんで?」
レンも驚いていた。
ラウルと、レンに呼ばれた彼は次の瞬間、笑うように声を張り上げた。
「ちょうどいいや、はいパス!」
ラウルは担いでいた女性を投げた。
「ちょ! おわ!」
レンが慌てた声をあげて、空中に投げ出された女性に手を伸ばす。
急に立ち上がるものだから、背中のわたしは地面にべしゃりと転がった。
……痛っ。なんなの、どういうこと?
顔をしかめて身を起こす。
目の前ではレンが知らない女性を横抱きに抱えていた。
光を受けて青い光沢を放っている黒髪が、白い肩からさらさらと揺れる。細くしなやかな身体の美女だ。陶器のようになめらかな肌。鼻筋の通った整った顔には微笑を浮かべ、恐怖と混乱で張りつめた空気には、あまりに美しく、場違いだ。
女性はレンの首に白蛇のような細い腕を回してしがみつく。
レンの肩越しに一瞬、バチっと視線が交差した。
その瞬間、心の中で、不快なざわめきの波がたった。
同時に、獣の声が響く。
咆哮に ハッとして魔狼の方へ視線を向ける。
ラウルが剣を抜いて魔狼と対峙していた。
よく見れば、魔狼の黒い毛は血で濡れて赤黒い。
鼻を刺すような鉄の匂いは、魔狼自身の流した血であった。
すでに手負いなのは明らかだ。
魔狼は小刻みに体を震わせている。
もはや怪物には見えない。命の危険を知り、おびえる弱き生き物の姿だった。
「毛皮がダメになってるじゃない」
レンに抱えられた女性がラウルに声をかける。
「僕じゃないよ! アイツが図体大きいくせに狭い穴を突っ切るから悪いんだよ!」
「なるべく傷つけないで綺麗に倒してね」
「えぇ、持って帰れないって」
余裕のある会話があまりに異質だ。
娯楽として狩りを楽しむかのようだった。
次の瞬間、魔狼が吠え猛けり、ラウルへと襲いかかる。
一瞬の出来事だった。
まるで猟犬が小動物を仕留めるような、迷いのない動き。
だがその“猟犬”はラウルの方で、
獲物となるのは、魔狼だった。
襲いかかる魔狼から身を翻したラウルが、身の丈の数倍もある巨体の魔狼を鋭い一太刀で喉元から斬り裂いた。
魔狼が悲鳴をあげ、巨体が地面へ崩れ落ちる。
あまりに呆気ない幕切れだった。
わたしやハロルドたちは、彼の強さに驚愕し理解できずにいる。
城にいた騎士たちの武勇伝で語られるのは、せいぜいがオークやコボルト退治の話だ。
巨大な魔物は数百人が命がけで挑む災害。
だから、彼の姿は物語の英雄そのものであった。
魔狼の巨体はぴくりとも動かず静寂が訪れる。
唖然としつつも、わたしは全身から力が抜けた。
緊張がほどけ、危機が去ったことに安堵する。
けれど、隣から女の柔らかな声が聞こえ、意識がすぐ横にいた二人に向かう。
視線を向けると、レンとその謎の女性は魔狼のことなど気にもとめず、抱き合ったまま、会話を交わしていた。
「なんで? ここ、ノースシーだぞ。どうして、お前がいるんだ?」
「この穴、ニーレイクまで繋がってたみたい。ふふ、久しぶりレン。……会いたかった」
とても親しい間柄なのだろう。そういう空気だ。
よくわからない感情がわたしの喉元をぎりりと締めつけた。
……なぜか、癪に障る。
レンはその女を抱いたまま、楽しそうに話している。
いつまでくっついているのだろう。その女は、レンの腕のなかで笑ってる。
ムカつく。
なんか、わかんないけど、ムカつく。
……レン、まずは彼らを紹介してくれない?
「誰よ、その女」
新キャラ登場回でした~!
すごく強いレンの弟分と、偽銀をほしがりそうな人です。




